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「壬申の乱」と「乙巳の変」について


 この『日本帝皇年代記』は性格の異なる各種の資料から「再構成」され書かれていると思われるわけであり、それはこの「年代記」という史料を考察する上で重要な意味を持っていると考えられますが、現行『日本書紀』を「原資料」とはしていないのではないかと疑われる余地があります。それはたとえば「壬申の乱」の記述を見ると明らかです。
 「天武天皇」の「(白鳳)壬申十二」の条の欄外上部には以下のようにあります。

「或記云、天智七年東宮出家居士乃山之時、大友皇子襲之、春宮啓伊勢国拝、大神宮発美濃・尾張之兵上洛、大友皇子発兵而於近江之国御楽之皇子遂被誅畢、其後東宮還大和州即位云云」

 この記事からは「或記云」という形で「壬申の乱」に触れられており、しかも『書紀』と違い、「春宮」が「伊勢神宮」に知らせ、その結果「伊勢神宮」(大神宮)が「尾張」「美濃」の軍勢を派遣したとされています。「大友皇子」も「近江」で「御楽之皇子」という正体不明の人物に追われて最後を迎えるとされています。(ここは少々文脈が不明であり「御楽」が「近江」の地名(紫香楽)であるという可能性もあります)

 このことについては『万葉集』に「柿本人麻呂」による「高市皇子」に対する「挽歌」があり、そこでは「度会の斎宮」から「神風」が吹いたとされています。

(万葉一九九番歌)「…渡會乃 齊宮従 神風尓 伊吹<或>之 …」

 このような表現も「伊勢神宮」からの援助を表すものとも言えそうです。
 また、「斎宮」として「大伯皇女」が派遣される際の諸資料の記述も参考になります。

(『年中行事秘抄」「伊勢齋宮事」)
「天武天皇白鳳元年四月十四日、以大來皇女献伊勢神宮。依合戦願也。」

(扶桑略記)
「天武天皇二年四月十四日、以大來皇女献伊勢神宮。始為齋王。依合戦願也。」

(『日本書紀』天武天皇元年六月)
「丙戌、且於朝明郡迩太川辺、望拝天照大神。」

 等々、「壬申の乱」において「伊勢神宮」の助けがあったこと、その見返りに「大伯皇女」が「斎宮」として差し出されたことがわかります。
 つまり『書紀』など諸資料には「伊勢神宮」に対して「勝利」を祈念し、その結果に対して「大伯皇女」が遣わされたとするわけですが、実際には「神の加護」と言うより、実態として「軍勢」を派遣したからこそ「東宮」なる人物が戦いに勝利できたものであり、そのことを感謝して「皇女」が派遣されたとされていることがわかります。
 また、その直前の「白鳳十一年」(辛未)には以下のような書き方がされています。

「(白鳳)辛未十一 役行者上金峰山、…天智之皇子出家入吉野宮、此義未審」

 この文章の末尾に「此義未審」つまり、「詳細不明」と書かれているわけですが、これは「大海人」が「吉野」に出家したという「壬申の乱」の発端となる話のことと理解されるものであり、ここから始まる「壬申の乱」についての現行『日本書紀』の記事は「内容」が最も詳しく、最も行数を割いて書かれており、これを「未審」という一語で済ますことは本来出来ないはずです。(しかも天智の皇子と表現されており、現行『日本書紀』とはその点でも食い違います)
 この「壬申の乱」について古代においてすでに異説があり、事実関係の認識に混乱があったことはこの「年代記」中の他の以下の二つの記事でも分かります。

 「(白鳳)乙卯十九 或云此年大友皇子起叛逆」

 「(朱雀)甲申 依信濃国上赤雀為瑞、去年十一月受禅、不受出家居吉野山、大友皇子事也…」

 これらの記事はいわゆる「壬申の乱」が、「大海人」の反乱ではなく、主役は「大友」であったという説や「壬申」に起きた出来事ではなかったという複数の「説」或いは「伝承」があったことを示すものです。
 また、記事中には以下のものもあります。

「(命長)六 或本大化元年、六月帝即位…」

 ここでは「蘇我」を打倒した「大化改新」(乙巳の変)についての記事が「本文」として一切ありません。僅かに「或本」という表現で現行『書紀』の内容を彷彿とさせることが書かれていますが、重要な位置付けとしては扱われていないと見られます。
 「大化の改新」も「壬申の乱」も「八世紀」以降の「新日本国」にとっては重要且つ画期的な出来事であったはずであり、(それは『続日本紀』において、これらの事に関する功績に対して改めて褒賞が行われていることでも明らかでしょう)これらのことが明確・詳細に記されていないということを考えると、この「年代記」の「編集」には現行『日本書紀』は参照されていない可能性が高いと思われます。
 「帝皇」の「年代記」を書こうとする人物が『書紀』を見ないとか知らないとか、或いは知っていても「或記」というような表記、表現を『書紀』に対して使用するというようなことは全く考えられるものではなく、このように「年代記」の中で『書紀』の存在が希薄であるのは、この記事の原資料となったものが現行『書紀』が編纂される「以前」のものであるという推測が可能であると思われます。
 つまり、この「編集時点」(年次としては不明ですが)において参照された現行『日本書紀』の以前の「記録」(資料)には「大化の改新」もなければ、「壬申の乱」もなかったと考えざるを得ないこととなります。
 
 以上から、この「年代記」の原資料の一部については、現行『日本書紀』が編纂され、まとめられる以前のもの(これがいわゆる『日本紀』かどうかは不明ですが)と考えられ、逆に言うと現行『日本書紀』及びそれと「連続性」が保たれている『続日本紀』の編纂は、従来考えられているよりかなり遅い時期に行われたのではないかと推察されることとなります。
 さらに言えば、現行『日本書紀』に書かれた事がその時代の「事実」であるかどうかはこれらから考えて全く保証できないものであり、かなりの潤色・改定が成されたものが現行『日本書紀』であると推察されることとなります。


(この項の作成日 2010/12/29、最終更新 2012/11/11)