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「西」の意義


 「鎮西」の語義についてですが、これは本来「西」を「鎮」するということであり、「西」「西国」というだけで「九州」を指す例の応用であると思われます。『書紀』の「西国」の例を見ると「天武」の時代のものが最古とみられます。(以下の例)

「(天武)五年(六七六年)夏四月戊戌朔辛亥条」「勅。諸王。諸臣被給封戸之税者。除以西國。相易給以東國。又外國人欲進仕者。臣連。伴造之子。及國造子聽之。唯雖以下庶人。其才能長亦聽之。」

 ここ出てくる「西国」は「九州」を指すというのが定説のようです。(「白村江の戦い」などで九州諸国が疲弊したための救済措置と理解されているらしい)
 このように「西」あるいは「西国」というのは「九州」を指し、それを「鎮」(「支配」)するという意味で「鎮西」という語が発生したと思われますが、いずれにしても「九州」を支配していたものが「九州内」にいた事を示すものであり、それが「大宰府」や「大宰」に意義が転じたものです。
 この「西」に関しては興味深い記事が『日本帝皇年代記』中に見受けられます。

「丁酉(僧要)三 二月大星流 声如雷 東流 西朝無知者沙門僧旻曰此星曰天狗 東方恐有乱乎 果蝦夷叛」

 ここでは「西朝」という表現が使用されており、これは明らかに「近畿天皇家」ではないといえるでしょう。「西」とは上に見たように「九州」を指す用語ですから、これは「九州王朝」を端的に指す表現といえるのではないでしょうか。
 この「西朝」という用語は『続日本紀』の『元正紀』にも出てくるものの、これは「平城京」に二つ存在していた「大極殿」に関わる表現と考えられますので、意味合いが異なると言えます。ただし、「洞田氏」や「古賀氏」が言及された「宝亀元年」の「歌垣」記事(以下のもの)に出てくる「にしのみやこ」という表現については、改めて注意が向けられるべきものと思われます。(※)

「宝亀元年(七七〇)三月辛卯【廿八】条」「葛井。船。津。文。武生。蔵六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並著青摺細布衣。垂紅長紐。男女相並。分行徐進。歌曰。乎止売良爾。乎止古多智蘇比。布美奈良須。爾詩乃美夜古波。与呂豆与乃美夜。其歌垣歌曰。布知毛世毛。伎与久佐夜気志。波可多我波。知止世乎麻知弖。須売流可波可母。毎歌曲折。挙袂為節。其余四首。並是古詩。不復煩載。…」『続日本紀』

 ここで問題となった「歌垣」で詠われたという「古詩」は「一音一語」という「初期」の形式の万葉仮名で書かれており、「古詩」という名にふさわしいとも言えます。(『万葉集』にもほとんど見られないもの。また「不復煩載」とはこのような「一字一音」表記が「煩わしい」という意味ではないでしょうか。書かれてあったものを書き写したと見られ、その作業が煩瑣であるという事と理解できます。)
 通常このような表記法は「柿本人麻呂」以前のものであると考えられ、その場合「七世紀」代まで遡上するという可能性もあると思われます。そうすると上の「西朝」とそれほど時代が異ならないという可能性も出てくるでしょう。(たとえば『書紀』『古事記』においては全ての歌謡は一字一音で表されており、また借訓がみられないとされます)
 但し「難波宮」遺跡から出土した「はるくさ木簡」では「は」の表記として「波」ではなく「皮」が使用されており、さらにこの歌垣の古詩では「はるくさ木簡」の「刀」に対して「止」、同じく「斯」に対して「志」というように使用字が異なりますが、「と」の表記に「止」を使用しているのは「訓」であり「音」ではありません。(借訓字)一般には「音」で表記している方が古いとされており、「はるくさ木簡」の方が先行していると言えます。
 この「はるくさ木簡」に関していうと「難波宮整地層」のさらに下の層からの出土であったことから(第七層)、「七世紀半ば」をさらに遡上するという可能性があると思われますが、それよりこの「古詩」が新しいとしても「七世紀半ば」程度までの遡上は想定すべきと思われます。

 また、ここで「にしのみやこ」を褒めそやしているということから、この古詞は「近畿王権」が「倭国九州王朝」という統一王権の支配下にあった頃に「賛歌」として作成されていたものという可能性も出てくると思われます。そうであれば時期として「七世紀半ば」と言うことと考え合わせると、「白雉改元」付近を想定すべきものかも知れません。つまり、「にしのみやこ」とは「副都」である「難波宮」から見た「首都」である「筑紫京」を指すと考える事ができると思われるのです。
 また、この「古詩」自体が「にしのみやこ」に対する「賛歌」であるから「よろずよのみや」という表現についても「願望」ではなく、いわば「眼前」の事実を表した表現であると考えられ、古から続く「筑紫」の歴史を端的に表現したものとと推察されます。

 上に見た「丁酉」条の記事中の「僧旻」は『書紀』では「高表仁」の来倭に伴って「唐」から帰国したとされている人物ですが、その「高表仁」は「六四〇年」に派遣された「倭国」からの「遣唐使」に対応して派遣された「唐」からの「使者」であると考えた訳ですから、彼が赴いた先は「倭国」であるのは当然であり、彼と同行した「僧旻」についても「倭国」に到着したものと考えざるをえないものです。つまり、その「倭国王朝」に対して『帝皇年代記』では「西朝」という呼称がされていることとなるわけですから、「倭国王朝」は即座に「九州王朝」であったということを示すものといえるでしょう。


(※)古田史学会報二十六号一九九八年六月


(この項の作成日 2013/09/09、最終更新 2015/05/14)