「壬申の乱」収束時に「大伴吹負」が「(難波)以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収していますが、それがわざわざ「大阪」を越えた「難波小郡」で行われたことに大きな意味があると思われるのです。
「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」(天武紀)壬申(六七二年)の条
ここで彼ら「西国」の国司達が「難波小郡」におり、その彼らが「官鑰騨鈴傳印」を持っていたということは、彼らが何らかの理由で「難波以西」の地から派遣されてきていたものか、あるいは「難波小郡」から西国へ派遣されていたものが帰国した時点のことであったという可能性もあります。ただ多くの「国司達」が「難波小郡」にいたらしいことを考えると、帰国したというより「派遣」されてここに集まっていたと考えるべきではないでしょうか。
また彼らがこの「壬申の乱」に直接関わっていたということではなさそうなことが読み取れます。ただし「大伴吹負」に素直に「鍵」「鈴」等を渡しているらしいことを考えると、当初から「大海人」の勢力の側としての存在であったと考える方が正しいのかもしれません。
確かにもともと「難波」には「小郡」というものがあったことが『書紀』(以下の記事)に書かれています。これは言ってみれば「出張所」のような役目を持つ「王権」に直結する「出先機関」であったと思われますが(これはこの当時「近江京」に全ての政府中枢機関があったわけではなく、「近江朝廷」の権能が限定的であったことを示すものといえます)、またそこに「律令」で規定される「官道」使用に関する統制機構の存在やそこで発揮される権能の所在が看取でき、「難波」の西方の諸国の「税」に関するものや「屯倉」に保管されている物品の所有が誰に帰するものかという事情などについて興味あるものです。つまり、この記事からは「難波以西」の諸国は「租」や「調」など国家に納入すべきものの集約場所として「難波小郡」が有ったことが推定出来るわけです。それは上に見るように「王権」の出先期間として存在していたという「小郡」の本来の機能を充分感じさせるものです。そして彼等が上京する際に必要だったものが「税倉」(屯倉)の「鍵」(鑰)であり、「官道」使用に必要な「騨鈴」であったというわけです。
またこの時は「天智」が亡くなり、「山陵」の造営中でしたから、彼らがこの「難波」にいた理由として最も考えられるのは「天智」の葬儀への出席と「新倭国王」への祝意を表する「表敬訪問」を兼ねたものではなかったでしょうか。「鍵」等を所有していたのはこれを新王権に献上することで忠誠と服従を誓う儀式様なものがあったことが推定出来ます。
しかし、当然のこととしてすでに「宮」となっていたはずの「小郡」がこの時点でまだあったというのは「矛盾」としかいえず、甚だ疑わしいといえるでしょう。「難波小郡」は以下に示すように「六四七年」以降「小郡」ではなくなっていました。
「六四七年」(常色元 大化三)年 「春正月戊子朔…是歳。『壞小郡而營宮。』天皇處『小郡宮』而定禮法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外左右羅列。候日初出。就庭再拜。乃侍于廳。若晩參者。不得入侍。臨到午時聽鍾而罷。其撃鍾吏者垂赤巾於前。其鍾臺者起於中庭。」
そのような経緯の後突然「倭京」「古京」という呼称と共に「難波小郡」という表記が登場するわけです。「難波小郡」が「宮」となったことは、そこで「官人」達の行動基準として「禮制」が定められていたという記事からも明らかです。それを見ても明らかなように「宮」という存在は「王権」の常時的居所としての存在であり、それまでの「小郡」という「下級官人」達の拠点として、限定された機能しかなかった存在とは隔絶したものとなっていたと推察されるわけです。
ところで「壬申の乱」記事を見ると「壱岐史韓国」という人物が「近江方」の将軍としていますが、彼は「大坂」から来たとされ、また「多治比道」から現れたとされます。
「是日。坂本臣財等次于平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍知財等來。以悉焚秋税倉皆散亡。仍宿城中。會明臨見西方。自大津丹比兩道軍衆多至。顯見旗■。有人曰。近江將壹伎史韓國之師也。財等自高安城降。以渡衞我河與韓國戰于河西。財等衆少不能距。…是日。將軍吹負爲近江所敗。以特率一二騎走之。逮于墨坂遇逢菟軍至。更還屯金綱井。而招聚散卒。於是。『聞近江軍至自大坂道而將軍引軍如西。』到當麻衢與壹伎史韓國軍戰葦池側。…先是。軍金綱井之時。高市郡大領高市縣主許梅。黴忽口閇而不能言也。三日之後。方著神以言。吾者高市社所居。名事代主神。又牟狹社所居。名生靈神者也。乃顯之曰。於神日本磐余彦天皇之陵奉馬及種々兵器。便亦言。吾者立皇御孫命之前後以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。且言。自西道軍衆將至之。宜愼也。言訖則醒矣。故是以便遣梅而祭拜御陵。因以奉馬及兵器。又捧幣而禮祭高市。身狹二社之神。然後。壹伎史韓國自大坂來。故時人曰。二社神所教之辭適是也。又村屋神著祝曰。今自吾社中道軍衆將至。故宜塞社中道。故未經幾日。廬井鯨軍自中道至。時人曰。即神所教之辭是也。軍政既訖。將軍等擧是三神教言而奏之。即勅登進三神之品以祠焉。」
この記事からみると「近江軍」は「高安城」にいたとされ、さらに「大津」「多治比」両道を通ってきたとされ、また「大坂」からきたともされています。これらのことから「近江軍」は「難波」の地を制圧していたことは間違いないでしょう。それが「韓国」の軍であったと思われるのですが、「飛鳥」を抑えるためにそこを離れて、出動を余儀なくさせられたものと思われるわけです。
この「近江朝廷」の時代には「諸官司」は遷都した「近江宮」に異動したと思われますが、「難波」に「西国」の国司が集結していたらしいことは、この「難波」の地がそれまでと変わらず「畿内」に対する統治の機能を受け持っていたことを推定させるものです。
そもそも「畿内」とは権力の中心(中国では皇帝の所在する場所)から「千里四方」をいうとされますから、遷都した場合は「畿内」の範囲も変わるはずですが、もともと「近江」は「鄙」(ひな)の地であり「畿内」ではなかったものです。それが「遷都」して変わったかというとそのような「畿内」の再定義の「詔」などが「宣」せられているわけではありません。このことから「畿内」に対する「統治」としては「難波宮」が継承していたと思われ、それは「難波」が「副都」として機能していたことを推察させるものですが、そのことは「「難波」を副都とする」ということが「天武紀」以前に始まっていたことを強くうかがわせるものです。
(この項の作成日 2017/04/20、最終更新 2017/07/09)