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倭姫と「倭京」


 「天王寺」の鐘について以前考察しました。そこでは「浄金剛院」と並び「黄鐘調」の音階であることを改めて指摘していますが、その「黄鐘調」という音階は「古律」によれば「無常」を表すものであると同時に各種資料には「黄鍾」は「宮」であり、その「宮」は「音の君」とされていることなど「五行説」に基づき「梵鐘」の音は「黄鍾調」でなければならないと考えられていたと推察しました。このことから「鐘」の構造は「規格化」されていたと考えられ、その意味で「鐘」の製造は同一工房で同じ鋳型から行われていたという可能性が考えられるとしたものです。
 「浄金剛院」の鐘(これはその後「妙心寺」に入ったものです)が「黄鐘調」であること及びその「銘」から「筑紫」(糟屋)で作られたことが推定されていますが、さらに「天武紀」には「筑紫」から「大鐘」が献上されたという記事があります。

「(天武)十一年(六八二年)春正月乙未朔…癸未。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘。」

 「妙心寺」の鐘はその銘(戊申年)から推測して「六九八年」の製作と思われますが、これに先行して製作された鐘があったとするわけですから、この「大鐘」も同じ「木型」から鋳造されたとみるべきであり、この「大鐘」もまた「黄鐘調」の音高であったと思われる事となるでしょう。
 この「大鐘」献上の約一年前の六八〇年十一月には「薬師寺」の造営が始められたという記事があることからこの「大鐘」は「薬師寺」に入るはずのものではなかったかと推定できます。
 「薬師寺」は「皇后」が病に倒れたために回復を祈るために「勅願」により建てられたとされていますし、この当時「勅願」ともいえる「寺院」はこの「薬師寺」だけのようですから、「筑紫大宰」が献上した「大鐘」は「薬師寺」に納められるべきものであったと推量します。
 これらのことから「黄鐘調」の鐘は全て「勅願寺」(或いは「皇后」「太子」など御願による)にだけ納められたものではなかったかと思われ(「黄鐘調」の鐘が「淮南子」では「音之君」とされるなどしていますから)、実際上も「倭国」では「君」以外には使えなかったという可能性があります。それは「黄鐘調」の鐘の倭国への伝来の経緯について関係していると思われ、「六世紀の終わり」に倭国を訪れた「隋使」が下賜品として持参した物品の中に「寺院」とそれに関するものも相当量あったものとみられ、その中には「梵鐘」もあったと推定されるからです。(少なくとも「梵鐘」を鋳造する技術も含まれるものと推量します)
 この時の「隋」からの使者は「文帝」が派遣したものであると思われますが、彼は仏教を国教としていましたから、夷蛮の国が仏教に深く帰依するとか寺院を造るという場合にそれに補助しなかったとすると不自然であると思われます。つまり「倭国」においても「隋」の肝いりで寺院が建設されたとみられ、それが「元興寺」であろうというのが私見であるわけですが、その時点で「梵鐘」についても当然「隋」の技術により鋳造されたとみることができると思われ(寺院に梵鐘は不可欠ですから)、その音高が「黄鐘調」であったとするのもまた当然であると思われるわけです。
 そう考えると、この時の「倭国」において「倭国王」以外の家臣や一般人が「黄鐘調」の鐘を製造したり使用したりはできなかったという可能性が高いと推量できます。その意味でもこれら「黄鐘調」の鐘は全て「倭国王」直属の工房で作られていたものとみることができそうであり、それが「筑紫」(糟屋或いはその周辺)で作られていたということになるということからも、当時の倭国の中心が「北部九州」にあったことが推定できるわけですが、「天王寺」の「鐘」もまた「筑紫」で作られたとみられることとなり、少なくとも「天王寺」もまた「倭国王」の勅願であり、またそれが「難波」にあったというわけですから、その「難波」という地がこの時点で「倭国王」の直轄地域として存在していたことが窺えるものです。
 そして「妙心寺」の鐘が元々「壇林寺」にあり、またそれが以前「筑紫尼寺」に納められていたものを移したと推測したわけです。つまり「筑紫尼寺」も「勅願寺」であったと考えられるわけです。

 すでに「妙心寺の鐘」についての検討において「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「筑紫尼寺」の鐘を(全体を移築したという可能性もあります)移して「壇林寺」に設置したと推察したわけですが、この「筑紫尼寺」は「尼寺」という性格から考えてその創建主体は「女性」であったことが推測でき、その人物は「観世音寺」とほぼ同時期(少し遅れた時期か)に同じ地域に「筑紫尼寺」を建てたという経緯から考えても当然「天智」と深い関係がある人物であるはずです。 「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺です。

「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」(『続日本紀』巻二より)

 また大宝元年の「太政官處分」中の「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとするのが通例ですから、そこに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であった可能性が高いと推量できるでしょう。またその後「橘嘉智子」という「皇后」の座にあるものがその「鐘」を移したという経緯から考えて「筑紫尼寺」を創建した人物も「女性」として最高位にあったであろうと想定できるものであり、その場合考えられる人物としては「天智」の「皇后」であったという「倭姫」が最も有力と推量します。

 以上考えると「倭姫」は少なくとも「戊申年」時点付近では「筑紫」に所在していたこととなりそうです。というよりそれ以前から「筑紫」に所在していたと考える方が正しいと思われます。
 以前「壬申の乱」前後「倭京」に「留守司」がいることについて考察しましたが、そこで「倭京」が「倭国」の「都」であること、「倭国王」が健在であり、彼(彼女)の名により「留守司」が置かれ、その間「倭国王」が「都」を離れていることなどが、推察されることとなりました。またそこでは「倭京」と「古京」が同一とされており、遷都前の「古京」に「倭国王」が戻り、改めてそこが「倭京」となったことが推定できます。それに関連しているのが「薩夜麻」の帰国であると思われるものです。
 彼は「筑紫君」と表現されており、明らかに九州倭国王朝の「王」であったと考えられます。彼が「唐」の後押しにより「捕囚」となっていた「半島」より帰国し再び「倭国王」つまり「倭根子」として君臨することとなったものと思われますから、「倭姫」が彼の元に赴いたのは自然なことであったとみます。
 この時点で「倭根子」の代理としてその座にあった「倭姫」から「薩夜麻」へ座の交代が行われたものと思われ、その意味でも「倭姫」は「筑紫」にそのまま所在していたと思われるわけです。
 そう考えると「筑紫尼寺」は「天智」ではなく「薩夜麻」のための寺であったと考える方が正しく、「薩夜麻」は『書紀』では「天武」と重ねられて描写されていると思われますから、「天武」が亡くなったという「六八六年」は実際には「薩夜麻」の死去した年という可能性があるでしょう。倭姫は彼の供養のために「筑紫尼寺」を建てたと考える方が正しいのではないでしょうか。なぜなら「天智」の供養のためであるなら「鐘」に記された銘が示す「戊申年」ではなく、もっと早い時期に創建されて当然と思われるからです。「観世音寺」からそれほど遅くない時期になぜ建てられなかったのか、「天智」が亡くなっておよそ三十年も経過した後になぜ建てられることとなったのか、そう考えると「天智」のためとして「寺院」を建設したとするより、十年ほど経過しているものの「薩夜麻」のためと考える方がまだしも整合的と思われます。
 
 以上の推論で「倭姫」は「筑紫」に所在していたものであり、「天智」の死後「筑紫」で「殯宮」を営んでいたものと思われ、それが至近にあったとみられる「古京」の実態が「筑紫京」であったことを強く推定させるものです。
 「壬申の乱」の実態は「筑紫君」とされる「薩夜麻」の帰国に端を発する列島代表王権を巡る騒乱であり、この結果「筑紫朝廷」が復活したものと考えられるものです。『書紀』はそれを「隠蔽」する目的で「天武紀「持統紀」を構成していると考えます。


(この項の作成日 2020/09/20、最終更新 2020/09/20)