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コラム「美濃囲い」


私は以前将棋が好きでよく人とも指していましたし、パソコンの中にも将棋ソフトがはいっていて今でも時折やりますが(もちろんパソコンには歯が立ちませんが)、特に振り飛車が好きでよく向かい飛車や中飛車などを指していました。(現在も同様です)そのような際はたいてい「美濃囲い」を採用していたわけですが、この「美濃囲い」の由来が不明であるということをかなり後になって知り、不審に思いました。

 そもそも将棋の戦法、囲いなどには、数多くの種類があり、その謂われ、起源なども中には明らかになっているものもありますが、多くのものが「不明」という扱いです。中でも人気戦法である「振り飛車戦法」には欠かせない「美濃囲い」については、まったく不明です。
 たとえば同じくポピュラーな囲い(戦法)である「矢倉(櫓)」については、その縦に金銀が並んだ形からの命名と考えられ、まだしもわかりやすいと思われますが、「美濃囲い」について言えば、その並び方から「みの」(蓑)の形は少々想像しづらく、命名について別の基準なり、起源が存在するのではないか、という想像が広がるところです。特に「美濃」という地名を当てているのが非常に気にかかるところであり、この地名と関係する事実なりエピソードなりがあるのではないか、と考えるのが自然ではないでしょうか。

 このあたりを明らかにするためには、「美濃囲い」という「名称」がいつごろから使用されたのか、(「囲い」が、ではない)その最初の記録というものが、いつのもので誰のものなのか等からその命名者と命名の由来を推定するべきなのですが、ご本尊とも言うべき「日本将棋連盟」では、そのようなことに関する調査、資料の収集などは一切行っておらず、まったく情報不足の状態です。(以前関西将棋連盟に附属していた将棋図書館に問い合わせましたが、わからないという返事を戴いています)
 ただ、巷間いわれているのは金銀三枚で囲うので「三つの囲い」と言ったものが転じて「みの囲い」となり、後に「美濃」という漢字を当てた、と言うものがあります。また、同様な説に「金銀三枚」を「布」に見立てて「三布囲い」といったものが「美濃囲い」になった、というものもあります。(以前大山名人が言っていたと記憶しています)このあたりは地名としての「美濃」との関連については「ない」という考え方であるようですが、本当にそうか、というのが当方の感想です。

 通常の感覚では地名をかぶせるにはそれなりの意味があるものと考えるのが普通です。というのは、この他には地名をかぶせた囲い、戦法がない(あっても由来がはっきりわかっている「鷺宮定石」など)のであって、唯一「美濃囲い」だけが地名をかぶせられている、ということの意味を重く考えるべきでしょう。同様な考え方をしている人は既におり、「信長の美濃攻め」と関連付けて考えたり、「美濃の街づくり」と関係している可能性を探ったり、将棋を指す人の中に「美濃」出身者がいたのがその起源である、などといろいろな説があるようです。どれもまだ充分な物証には欠けますが、いずれも従来の説よりは興味を呼ぶものです。

私は『日本書紀』を読んでいて「大海人の皇子」の「吉野」からの脱出の際の行程を見ていて、まるで美濃囲いに入る「王将」のようだなと思いました。
「壬申の乱」の詳細を『書紀』から拾うと、まず、「大海人皇子」は「吉野」へ下野します。その後「天智天皇」死去後「天智天皇」の息子である「大友皇子」の挙動に攻撃の姿勢を感じ、それに対抗する形で挙兵し、「壬申の乱」が勃発するというわけですが、この時の「大海人皇子」の行動に注目です。
彼は戦いが始まる前に、隠棲先である「吉野」から移動を始め、「奈良県宇陀」、「三重県名張」、「三重県桑名」を通過した後「鈴鹿峠」を越えて「美濃の国不破」(関ヶ原町)へ入り、ここで初めて戦闘開始、となります。
 この間全く、戦闘行為は行われず、ただ黙々と「安全地帯」である「美濃」へ移動を行います。(しかも素早く)「美濃」へ入った後はそこから一歩も出ずに、実際の戦いは自分の息子である「高市皇子」に指揮させています。と、ここまで書けば将棋好きの人にはもうお分かりでしょう。この「大海人の皇子」の行動は「振り飛車戦」における「王将」の「動き」(行動)と同じといっていいのではないでしょうか。
「美濃囲い」の手順もいくつかあるようですが、多いのは「玉」が「一目散」に横へ移動して、定位置(先手なら8二、後手ならば2八の地点)へ向かうパターンではないでしょうか。(「藤井流」などは別として)そう考えると、「大海人」の移動の様子は「王将」の動きと良く似ていると思われるわけです。
 これが正しいとすると、「美濃囲い」の命名者は「古代史」というより「古代の戦い」に詳しい人物と見なければなりません。想定できるのは、たとえば「御城将棋」(「御前試合」)などのとき、将軍などと同席して将棋を見物するようなことがあった可能性のある「重臣」の中に古代等過去の戦闘に詳しい「兵法家」がいたという可能性です。あるいは歴史上将棋の進歩と発展には欠かせない存在であった「僧侶」などが命名者である可能性があるのではないか、というものです。

「兵法家」や「僧侶」はいわゆるインテリであり、特に古代の事象に詳しいと考えられます。また、「兵法家」ならば中国や日本の戦いの「戦法」などに詳しい、と考えるのが普通ですから、「美濃囲い」という将棋の「戦法」を目の当たりにしたときに、「壬申の乱」に思いが行く、というのは十分ありうることと考えられます。つまり古代の戦法に詳しい「兵法家」などであれば、「将棋」において「王将」が一目散に移動していくのを見て、「壬申の乱」の時の「大海人」の動きのようだと感じることは十分ありうるものかと推察するわけです。
 ただし、庶民(当時も今も)はそのようなものには縁の薄い人が多いでしょうから、その後は命名の由来については段々と「不詳」となって行ったものと考えられます。
 「戦いが始まる前に囲いに一目散に入り、その後はそこから動かず、実際の戦闘は主役を飛角に譲る」。将棋における「美濃囲い」の命名はこのような故事を踏まえたものではないのか、と考えていますがいかがでしょうか。

 将棋は当初駒の数も多く、ギャンブル的要素もあったものと思われますが、「駒の再利用」と齣数の削減などが平安時代に行われて以降勝負要素が強くなり、戦法も複雑化していったものと思われます。その意味で「鎌倉」以降戦法の研究が進んだものと思われますが、「美濃囲い」が確かな記録として平手戦法で採用されたのは江戸時代の中頃のようです。(明和年間)
 この時点付近で命名されたという可能性が高いものと思われますが、その場合命名者が戦法を使用開始した当の本人であるという可能性もあるでしょうし、上に見たようにその戦いを観戦していた人物が命名したという可能性もあると思われるわけです。