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「古京」と「倭京」(二)


 この「倭京」に対して、同じ「壬申の乱」の記事中に「古京」というものも出てきます。

「壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。古京是本營處也。宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。」

 この「古京」については『日本後紀』の中の「嵯峨天皇」の「詔」の中でも「平城古京」という表現が使用されているように、「新京」である「平安京」と対比して使用されているものであり、「古京」とは「遷都」する前の「京」を意味する用語であることが判ります。
 さらに「古京」に関しては以下のように記事中に表されています。

「癸巳。將軍吹負與近江將大野君果安戰于乃樂山。爲果安所敗。軍卒悉走。將軍吹負僅得脱身。於是。果安追至八口■而視京。毎街竪楯。疑有伏兵。乃稍引還之。」

 つまり「乃樂山」で戦った後、追いかけて「八口」までくると「京」が見え、そこで「堅く守っている」状況が判ったので引き返したと云うことのようです。
 通常「乃樂山」とは「柿本人麻呂」の歌(「…いかさまに思し召せか、青によし奈良山を越え…」)でも判るように、「大和」と北方の域外の領域の「境界線」の役目を果たしていたものであり、「奈良県北部」の「山地」(丘陵)を指すと考えられています。
 そうであるとすると、「大野果安」は「近江側」から南下してきたものであり、それを「大伴吹負」は「境界」領域で迎え撃ったこととなります。
 そもそも「大伴吹負」は「倭京」を制圧していた訳であり(倭京将軍と呼称されている)、また「大野果安」も「倭京」を同様に支配下に置くために前進してきたと考えられます。両陣営とも「倭京」が重要拠点であり、これを自陣営のものにすることが至上命題であったことが判ります。「近江朝廷」側が「使者」を派遣したのも趣旨は同じであり、また「大伴吹負」が「倭京」に「奇計」を用いて制圧したのもこの「倭京」という場所が戦略上欠かすことのできない拠点であったことを示すと言えるでしょう。
 このようにここでは「倭京」をめぐる戦いが行なわれていたはずですが、しかし「大野果安」の軍は「古京」の手前「八口」(これは「八街」と同義と思われます)で引き返しており、その結果「古京」には入れなかったとされています。
 その後「壱岐史韓国」の部隊が同様に「近江」から南下して攻め入り「當麻衢(ちまた)」で戦闘になったことが書かれています。この「衢」というのは「神話」の中で「猿田彦」が待っていたという「天八達之衢」というものと同じであり、「衢」は「交差点」を示す言葉ですから、「八口」と同じ場所を意味するものと思われます。そしてそれは「古京」の入口であったものと思料されます。
 
「…到當麻衢與壹伎史韓國軍戰葦池側。時有勇士來目者。拔刀急馳直入軍中。騎士繼踵而進之。則近江軍悉走之。追斬甚多。爰將軍令軍中曰。其發兵之元意非殺百姓。是爲元凶。故莫妄殺。於是。韓國離軍獨逃也。將軍遥見之。令來目以俾射。然不中而遂走得免。…」

 また「古京」について「本營處」と称されていることにも注目です。「本営」とは「本陣」と同じく通常「総大将」や「総司令官」の「軍営」を意味するとされますから、通常では「大伴吹負」の拠点という意味で使用されていると考えられているわけですが、それであればさらに「倭京」と「古京」が同一となってしまうこととなります。しかしそれは一見「矛盾」といえるものです。

「…壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。『古京是本營處也。』宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。…」

 これらの記述はあたかも「倭京」と「古京」が同一であるように理解できそうですが、そうとすれば「遷都」以前の「京」に「留守司」が置かれたこととなってしまいます。

 すでにみたように「留守司」は「京師」から行幸などで「王」や「皇帝」「天皇」などが不在となる場合に置かれる臨時の官職であり、多くが「軍事」に関係する人物が充てられたものですが、そうであれば「倭京」は「現在の京」を指すこととなるわけであり、すでにそれ以前に「近江京」への遷都が行われていたわけですから、本来であれば「近江京」にこそ「留守司」がおかれて然るべき事となるわけですが、実際には「遷都」以前の「古京」に「留守司」がいるという不自然さが発生してしまうわけです。
 「近江京」が「倭京」ではないのは「壬申の乱」記事の「近江京」から「倭京」までという書き方をみてもわかります。

「…或有人奏曰。『自近江京至于倭京。』處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。…」

 このように「近江京」は「倭京」ではないわけであり、それは「現在時点」の「京」でもなかったことも意味します。しかし遷都以前の京師に「留守司」が置かれたとすると「矛盾」といえるわけですが、前述したように「倭姫」が「天智」の後継としていわば「称制」していたとして、彼女が「古京」に戻った上で「高坂王」達を「留守司」とし、その間どこか近くに「新宮」を作り「殯」の儀式を行っていたとしたら、「倭京」に「留守司」がいて不思議ではないこととなります。それが窺える徴証は確かに『書紀』にはみられないわけですが、「敏達」の死去の際、死去当時の「宮」ではなくそれ以前に「宮」であった「百済大井」の地の至近(廣瀬)に「殯」が営まれた前例もあり、それ以前の「宮」つまり「京」に深い関係がある場合は現在の「京」とは違う場所に「殯」を営むこともありうるものともいえるでしょう。その意味で「倭姫」が「古京」に帰還しそこで仮に「政務」をとるような状況があったという可能性は充分考えられるわけですが、そこを「倭京」つまり現在の「京」として扱ったとすると「倭京」と「古京」が一致するという事態もある得るものとなります。そして「倭姫」が至近の「殯宮」に隠ったとすると「留守司」を「倭京」(つまり「古京」)に置いたことも理解できる事となります。
 
 上の推定が正しいとすると、このとき「倭姫」は「近江京」から「古京」へ戻ったこととなりますが、その理由を考えてみると、「近江朝廷」という「革命王権」の限界を悟ったからではないかと思われ、旧王権の勢力と合流することで倭国王権の存続を図ったものと思われます。
 そもそも「天智」が(「大海人」の提言どおり)「大友」を執政とし「倭姫」に国事を行わせることを遺詔したとすると、彼自身「近江朝廷」の先行きに強い不安を持っていたと考えられるわけです。
 「近江朝廷」が「革命王権」であったとしても「天智」そのものは血筋もそれほど卑しくなかったと思われ、(前述)彼については一定の「権威」が備わっていたと思われるものの、生き残った唯一の男子である「大友」は「釆女」に産ませた子であり、皇后でも夫人でも妃でもないという立場の子である彼が王権を相続する事に対する周囲の同意を固めるのは大変困難であったのではないでしょうか。
 結局、「天智」同様に「権威」を身に付けた「大海人」に王権が委ねられることとなるのは当然の成り行きであり、「皇后」である「倭姫」は自ら「倭国王」の国事を代行する形で「称制」し、せいぜい「時間を稼ぐ」という方法しかなかったということかもしれません。その間に「大海人」を初めとする旧王権と折衝し「平和裏」に「倭国王」の地位を継承する予定であったと思われ、そのため「近江」に止まるのは旧王権の勢力と距離ができてしまい妥協に必要な折衝を行う余地が薄くなるのは必定であり、その意味もあり「殯」を「古京」で行うこととし、旧王権との調整を図ろうとしたと思われます。
 しかし「大友」は自らの権力欲を先に立たせ、「倭姫」の「殯」に同行せず、「近江」に残り、権力の空白を衝いて武力で王権を奪取しようとしたものであり、そのため各地に「挙兵」するよう指示を出したと言うことではなかったでしょうか。このため戦いが起きることとなったと思われますが、「倭姫」は多分「大海人」の側についた事と思われ、「大海人」即位の儀式に立ち会ったものと推測するわけです。
 「倭京」と「古京」が同一である経緯としては以上のことが考えられるものです。

 また「倭京」と「留守司」について別の考え方があるとすると、「近江京」という存在についての解釈でしょう。つまり「古京」から「近江京」へ「遷都」したという理解に問題があるという可能性もゼロではありません。そう考えると「近江朝廷」という存在そのものに対する疑問が浮かびます。このことは本当に「天智」は「倭国王権」の正統であったのかという点につながるものですが、すでに考察したように「天智」の開いた「近江朝廷」が「革命」王権であったとすれば、「倭京」は「天智」側からみて「古京」とは言えないこととなるでしょう。「近江京」は「遷都」ではなく「新都」であるということです。そして「留守司」が「倭国王権」に直結するものであるとすると「近江朝廷」からも「大海人」側からも「敬意」を以て対応されている事も了解できるものです。
 また「近江朝廷」が「倭国王権」からスピンアウトした「革命王権」であると同時に旧「倭国王権」もまだその組織等が骨格としては残っていたという事態が考えられ、「国内的」には「近江朝廷」の王権と「倭国王権」がまだ並立していたという事態も考えられることとなりそうです。

 この「倭京」についていうと、『書紀』では『孝徳紀』に「難波京」への遷都後に初出します。ところで、『二中歴』の「都督歴」には「蘇我日向」が「筑紫本宮」で「大宰帥」として任命されたという記事があります。この記事は『書紀』では「筑紫本宮」という語が脱落した状態で現れますが、基本的には『二中歴』の記載が真実と見るべきであり、「筑紫」に「本宮」があったとみるべきこととなります。
 またこの記事は「倭京」初出時点に近接しており、「倭京」という呼称が使用されるようになる事情と「筑紫本宮」とが強く関連した事象であることを推察させるものです。


(この項の作成日 2013/06/20、最終更新 2017/03/19)