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童謡(わざうた)について


 「天智天皇」が「死去した」とされている際に「童謡(わざうた)」が行われたとされ、『書紀』には三つ書かれています。これは従来は「近江朝廷」と「大海人」のことを揶揄したものと考えられていますが、実際にはいずれも「天智」と「薩夜麻」のことについてのものと考えられるものです。
 まずひとつは以下のものです。

「美曳之弩能 曳之弩能阿喩 阿喩挙曾播 施麻倍母曳岐 愛倶流之衛 奈疑能母縢 制利能母縢 阿例播倶流之衛 」(み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島傍も良き え苦しゑ 水葱の下 芹の下 吾は苦しゑ)

と言うものであり、この「曳之弩」が佐賀県吉野ヶ里の「吉野」であり、「阿喩(鮎)」に例えられているのが、「薩夜麻」と思われ、「吾」というのがというのが「天智」と考えられるものです。
 この「童謡」は「施麻(嶋)」つまり「朝鮮半島」に「薩夜麻」がいる間はよかったけど、帰ってきたら苦しくなる「天智」の立場を風刺したものと思われます。
 古来「鮎」は「鵜飼」という漁法により採集されるものですが、『隋書俀国伝』などでわかるように「鵜飼」は「筑紫」(九州)の風習でした。

「以小環挂廬鳥滋鳥項令入水捕魚日得百餘頭。」

 ここで「曳之弩(吉野)」という地名と「鵜飼」という漁法が連結していることから、ここでいう「吉野」が「筑紫」に存在している事が強く示唆されます。
 また、次の歌は「天智」を臣といい、「薩耶麻」を御子(皇子)と呼んでいるようであり、「薩夜麻」の戦闘準備が整っていることで「天智」が苦しくなっていることを風刺していると思われます。

「於彌能古能 野陛能比母騰倶 比騰陛多爾 伊麻?藤柯禰波 美古能比母騰矩」
(臣の子の 八重の紐解く 一重だに いまだ解かねば 御子の紐解く)

さらに次は「天智」に対し直接「薩耶麻」に会いに行くしかないことを言っている「童謡」と思われます。

「阿箇悟馬能 以喩企波々箇屡 麻矩儒播羅 奈爾能都底擧騰 多?尼之曳鶏武」
(赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし良けむ)

 これらは直接面会に行って申し開きした方がいい、と言う周囲の判断を反映していると思われるものです。「天智」はこれらを考慮した上で、近江を離れ、近臣だけで太宰府に行ったものと推定されます。そして、「近江」に帰ってくることはなかったと思われ、薩摩に隠棲することとなったことは「伏せる」こととなったのだと思われます。でなければ「薩夜麻」が復帰したことを書かなくてはいけなくなるからです。


(この項の作成日 2011/01/31、最終更新 2011/01/31)