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吉野と曳之弩


 「壬申の乱」の際に「大海人」が当初立て籠もったとされる「吉野」という場所については、元々「えしの」と発音していたものと考えられています。(古語辞典などによる)この「えしの」という言葉の表記として使用されている「万葉仮名」ではいくつか種類があるようです。
 たとえば、『古事記』の「雄略天皇」の記事の中では「延斯怒」として現れます。

「天皇幸行吉野宮之時」と題された「歌謡」の中に現れる例
「…美延斯怒能 袁牟漏賀多氣爾 志斯布須登 多禮曾意富揺巫爾揺袁須 夜須美斯志 和賀淤富岐美能 斯志揺綾登 阿具良爾伊揺志 斯漏多閉能 蘇弖岐蘇那布 多古牟良爾 阿牟加岐綾岐 曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 加久能碁登 那爾淤波牟登 蘇良美綾 夜揺登能久爾袁 阿岐豆志揺登布」

 また、『万葉集』では「吉野」を歌った歌は多く、その中では「吉野」か「芳野」が大部分ですが、「能野」とする例(一一三四番歌)及び「与之努」「余思努」と表記する例(これはいずれも「大伴家持」の作で「四〇九八、四〇九九、四一〇〇番歌」)があります。
 また『書紀』では『天智紀』の「天智天皇十年」(六七一年)の十二月条に書かれてある「天智死去」とされる際の「童謡」記事で「曳之弩」という表記があります。

「(天智)十年(六七一年)十二月癸酉条」「殯于新宮。于時童謠曰。美曳之弩能。曳之弩能阿喩。々々擧曾播。施麻倍母曳岐。愛倶流之衞。奈疑能母縢。制利能母縢。阿例播倶流之衞。(其一)於彌能古能。野陛能比母騰倶。比騰陛多爾。伊麻?藤柯泥波。美古能比母騰矩。…」

 これらから見ると『万葉集』では「よしの」ないしは「よしぬ」と発音するものと考えられるのに対して、『古事記』と『書紀』では「えしの」ないしは「えしぬ」と発音されるもののようです。このようにいくつか種類があるわけですが、中でも上で見た『天智紀』の「ぬ」ないし「の」の表記に使用されている「弩」という字が注目されます。
 『書紀』中ではこの「文字」が「ぬ」(ないし「の」)という「音」の表記として使用されているのはこの「一個所」しかありません。また、『書紀』以外でも「努」ないし「怒」は上に見たように数例あるのに比べ、「弩」は『万葉集』でも『古事記』においても全く見かけない文字なのです。そのような文字が「敢えて」使用されていることに注意を払うべきであると思われます。

 この「弩」という文字は「いしゆみ」或いは「おおゆみ」のことであり、大型の弓を意味しています。また、その構造、原理が現代の「ボウガン」によく似ており、殺傷能力、到達距離ともそれまでの弓に比べ飛躍的に大きいものです。
 「曳」は「引く」と同義で「弓を引く」と言うときにはよく使われる書き方です。したがって「曳之弩」とは「おおゆみを引く」という意味の言葉であり、この言葉(万葉仮名)が「吉野」という地域を表す言葉として「名詞」として使われていることは、「吉野」という地域が軍事拠点であったことを示すものではないかと考えられます。
 そこに「弩」がなく、「弩」の引き手がいないにもかかわらず、この万葉仮名が使用される必然性がないことは自明と思われ、「吉野」には「弩」で武装した軍団があったものと推定されます。(後の白川軍団を彷彿とさせるものです)
 例としてあげた『書紀』の年次は「壬申の乱」の前年であり、その「壬申の乱」(六七二年)の際には「瀬田の唐橋」の戦いの際「弩」が使用されています。
 『書紀』ではその情景について以下のように「列なれる弩乱れ発ちて、矢の下ること雨の如し」と表現しており、かなり多数の弩が使われたものと推定されます。

「辛亥。男依等到瀬田。時大友皇子及群臣等共營於橋西而大成陣。不見其後。旗■蔽野埃塵連天。鉦鼓之聲聞數十里。列弩亂發。矢下如雨。其將智尊率精兵以先鋒距之。仍切斷橋中須容三丈。置一長板。設有搨板度者乃引板將墮。是以不得進襲。」

 この「瀬田の唐橋」の戦闘の描写における「弩」がどちらの軍から放たれたものかと考えると、その直後の文章で「矢下如雨。其將智尊率精兵以先鋒距之。」とあり、ここで「智尊」が防いでいる「之」が放たれた「矢」を指すものと考えると、この「智尊」が「近江方」の将軍ですから、「反近江朝廷」軍から放たれたものであることとなります。
 このように「大量」の「弩」を駆使できたのは出発地が「吉野」(「曳之弩」)であり、そこはその表記通り、「弩」を多数擁する軍事基地であったことの証左であると考えられます。
 後の養老律令「軍防令」によると「各軍団のうちの一隊(五十名)程度から使い手として屈強のもの二名を当てる」と規定されていることから考えて「弩」は各隊に一台ずつあったわけであり、一軍団について少なくとも二十台程度はあったこととなりますが、この時「弩」に関する描写から考えて、かなりの数の兵士(軍団)が「吉野」に集結していたことを想像させるものです。

 「壬申の乱」の際に「筑紫大宰」であったとされる「栗隈王」の子供に「美奴王」がいます。彼は他にも「美濃王」「三野王」とも書かれますが、死去した際の表記は「美弩王」でした。

「和銅元年(七〇八年)五月条」「辛酉。從四位下『美弩王』卒。」

 死去した時点で書かれていると言う事から、これは一種の「諱」とも考えられ、この「表記」が彼の「本来」の名前であったという可能性も考えられますが、ここにも「弩」が現れており、それは「美弩」(「美濃」)が「壬申の乱」の際には「高市皇子」が陣取った場所であり、「軍事基地」であったと思われる事につながっています。
 ここは「西」の「吉野」と同様、「弩」とその使い手を多数擁する「軍団」があったものと推量され、ここを本拠としていた彼に強力な軍事力というものが備わっていたことを示していると考えられます。

 この「童謡」の「吉野」が「どこ」を指すかはこれだけでははっきりしませんが、「奈良」の「吉野」ではないと思われます。なぜならここは「平野」が狭く、そのような軍団が集結する為の利便性がないからです。
 明らかに「奈良」の「吉野」は「辺地」であり、他の地域と連絡の良くない場所と考えられます。しかもここには「古代官道」が整備されていなかった可能性が高いと思われます。この「官道」はいわば「軍用道路」ですから、そのようなものがこの場所には整備されていないということからも、この「奈良」の「吉野」という場所は「軍事基地」としては最悪であったと思われます。
 つまりここで「美曳之弩」と表記されるような「吉野」は、「奈良」とは別の場所に探す必要があるものと考えられ、可能性の高いものは「筑後」の「吉野」であると思われます。ここには「官道」が整備されていたことが判明しています。

 上の「和歌」の例で言うと『万葉集』では「よしの」と発音される例しか見えていません。たとえば「天武」の作と言われる「芳野吉見與良人四来三」などを見ても「同一発音」と思われる「芳」「吉」「良」と並んで「四」があり、これは明らかに「よ」という発音と考えられますから、「吉野」が「よしの」と発音されていたことは明白です。
 これは「成立時期」の違いであると考えられ、古代では「えしの」という発音であったものが「八世紀」以降のどこかで「e」から「o」へと母音変化(母音交替)が起きたものと思料します。
 似たような例として「住吉」があります。こちらは『万葉集』でも「須美乃延」(四四〇八番歌)というような「すみのえ」表記が遺存しており、それは現代まで続いています。「すみよし」という呼称も平行して行なわれていますが、古型である「え」系も未だに残っているわけです。
 「住吉」という地名は「住吉大社」に起源があると考えられるものであり、「住吉三神」は「筑紫」に本来鎮座していたものですから、「筑紫」でも「すみのえ」と発音していたこととなります。
 このことから「えしの」と発音される「吉野」は同様に「九州」の中に求めるべきこととなり、「筑後」の「吉野」(吉野ヶ里)もその候補であることとなるでしょう。
 この場所であれば「太宰府」(筑紫宮殿)からも交通の便が良いことは確かです。また、このことは逆に考えると「吉野」を拠点として行動すること自体「筑紫宮殿」にそれと知られずには不可能であることとなります。
 つまり、この時の「吉野」からの軍事的行動については「筑紫宮殿」の主は正確に把握していたと言うより、それに対し「全面的協力」ないしは「本人」がその行動の「主体」であった可能性を示していると考えられます。

 また、この「弩」という武器は『書紀』によれば「推古天皇」の時代「六一八年」(推古二十六年八月の条)に「高麗(高句麗)から伝わった」という記事があり、「高麗」から「対隋戦」の「戦利品」として「弩」の他、「鼓吹」、「抛石(投石器か)」などももたらされたと書かれています。
 この「六一八年」という年次は「隋」が対「高麗」征服戦の失敗などから、滅亡に至った年でもあります。このときになって推古王朝は「高麗」から多数の武器を入手したことになっているのですが、しかし、それをさかのぼること十八年前の「六〇〇年」に、倭国から送られた「遣隋使」が「隋」の皇帝(高祖)から「風俗」を問われて答えた文章中に「弓」、「矢」、「刀」などと並び「弩」があると書かれています。(この「遣隋使」の真の時期は前述したように「隋初」であると思われます。)つまり、倭国では「阿毎多利思北孤」の時代にすでに「弩」という武器が存在していることとなるわけです。
 この「弩」という武器の存在が『隋書』に書かれていることから、これが「隋」にとって新しい情報であり、それはこの「弩」が「隋」から流入したものではないこととなり、「隋王朝」成立以前にすでに倭国内にもたらされていたこととなるものと考えられます。その場合想定されるのは「百済」からか或いは直接「南朝」からでしょう。

 現代でもそうですが、有力な武器に関する情報は「軍事機密」であり、その武器本体も含め基本的には門外不出と考えられ、「南朝」などから倭国に武器がもたらされたとしてもそれが直ちに倭国内の各地域に普及することはなかったものと考えられます。それは『隋書俀国伝』にも「兵はあるが征服戦はない」、と言う記事からも推測できます。戦闘を行えば山野に武器が散逸する可能性もありますが、戦わない限りは武器庫からは出ることがなくなり、秘密の保持も容易です。
 もっとも、この『書紀』の記事については素直に従えないものです。それは「六一八年」という年次に「なぜ」「高句麗」が「近畿王権」に「対隋戦争」の「戦利品」を持ってくるのか、その「必然性」が不明だからです。

(以下、以前この「六一八年」という年次を信憑し「近畿王権」と「高句麗」の接触というような記述に理解していたものを改め、『書紀』の記事について大幅に遡上する可能性を含んだものに変更する事とします…2016/08/11)

 そもそもこの『書紀』の「六一八年」とという年次が正しいかどうかが非常に疑問であるわけです。なぜならすでに述べたように『書紀』は『隋書』を見て書かれていると共に、その「隋」という存在を極力「消す」ことを狙いとしているように見えるからです。特に「高句麗大興王」という表現でもわかるように「隋」との関係を「高句麗」のものと書き換えている可能性が考えられるわけですが、そう考えた場合この「戦利品」を持参したという「高句麗」も実祭は「隋」との関係を記述したものが下敷きにあるという可能性が考えられます。なぜならそこに「鼓吹」があるからであり、これが「隋」の楽を奏する際に必需のものであり、その「隋」の使者を迎える際に「鼓吹」を吹き鳴らすという外交儀礼を果たすために必須のものであったからです。これは「隋」の「楽制」に関する記事からも「倭国」と早い時期に交通があったことを示すものであり、そうであれば必ず「隋」の「楽」も「倭国内」に入っていて当然となるわけであり、その「鼓吹」が入った時点を記す記事であるということも考えられるでしょう。それを「隋」滅亡に対する戦利品というように全く真逆の内容の記事に書き換えているとみられるわけです。


(この項の作成日 2010/10/06、最終更新 2016/08/11)