薩摩に伝わる伝承として「大宮姫伝説」というものがあります。(以下は古賀達也氏の研究に準拠します)
この話の概要は以下のようなものです。
「孝徳天皇」の白雉元年庚戌の時、開聞岳の麓で鹿が美しい姫を産みます。その姫は二歳の時入京し、十三歳で「天智天皇」の妃となりましたが、訳あって都を追われ開聞岳に帰って来ました。
「天智十年」辛未の年(通常六七一年とされる)、「天智天皇」がこの地にやって来られそのまま当地に残り慶雲三年(七〇七年)まで存命し七十九才で亡くなられ、後を追うように大宮姫は和銅元年(七〇八年)に五十九歳で亡くなられた、というものです。
この伝承は常識とされていることと大きく異なる部分があります。第一に『書紀』には天智天皇にそのような姫の存在が記されていません。また、死亡年次も年齢も異なっています(天智天皇より三才年上になる)。薩摩に行った、という伝承もないのです。しかし、既存の知識と大きく衝突する地点には何かの真実の反映があるものと考えられ、頭から無視するのは科学的態度ではないと考えられます。
(開聞古事縁起)天智天皇十年(六七一年)辛未十二月三日大長元年、都を出て太宰府へ着く。その後、薩摩へ行き大宮姫と再会。
(書紀)天智天皇十年(六七一年)十二月癸亥朔乙丑(三日)天皇崩于近江宮。…十二月癸酉(十一日)殯于新宮。
この伝承によれば「天智天皇」は天智十年に薩摩の地に来たことになっていますが、「日付」を見ると、『書紀』の「日付」と関係しているのがわかります。
「太宰府到着」とされる「天智十年十二月三日」という伝承の日付は、『書紀』の「天智天皇」の死去した日付と同じなのです。
つまり、死亡したとされている日時には「太宰府」に「到着」しているわけで、『書紀』中の別の説として書かれている「行方不明になった」というものと整合するようです。
「近江」では「十一月二十三日」に「大友皇子」等による「血盟」が取り交わされていますが、それは「筑紫」から「薩夜麻」が帰国したという知らせを受けたことに対する行動として「時間的」な部分では不自然ではありません。この当時「山陽道」はすでに完成していたと思われ、それを使用して連絡のため「早馬」が来たとすると「二週間」は充分に長いといえます。
この直後の「壬申の乱」では「官道」を使用する権利を表す「駅鈴」を渡すよう「倭京」の「留守司」である「高坂王」に「大海人側」の使者が要請する場面が出てきます。この事でわかるように、このときすでに「筑紫と「難波」の間、あるいは「難波」から「東国」につながる「官道」と「駅馬」の制度が整備されていたとみるべきですが、「八世紀」段階の史料を見ると「山陽道」には「五十一駅」あり、これに「筑紫」周辺の十一駅と加え六十二駅あったと考えられます。『養老令』では「緊急」の場合(これは「海外から邦人が帰国した場合など」も含むとされています)「早馬」の使用が認められていたものであり、その場合は「一日十駅」の移動を認めていますが、これであれば「筑紫」〜「難波」の移動に必要な日数は「一週間」程度ではなかったかと考えられます。(また実距離としても一日40km程度の行程を考慮すると「馬」に乗れば問題なく移動可能と思慮されます。)
これに関しては、『扶桑略記』(平安時代末期に僧「皇円」によって書かれた書)の記載が注目されます。
「一云 天皇駕馬 幸山階? 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」
つまり、「天智天皇」は馬に乗って山階(山科)の里へ出かけたが還らず、亡くなったところもわからなかったので、「沓」(靴)が見つかった所を「山陵」としたというのです。
このような伝承は「天智」が「馬に乗って行った」しかし「還ってこなかった」という事実を「内包」していると考えられ、「薩夜麻帰国」の報に接し、急遽「筑紫」へ「馬」で出かけていったことを指し示していると思われます。
この時「天智天皇」が「筑紫」に向かった理由を考えてみると、彼は帰国した「薩夜麻」を「歓迎」するために向かったのではないかと考えられます。「筑紫君」という高位の人物が帰国したのを歓迎しなかったはずがないからです。少なくとも「太宰府」では「我が君」の帰国を歓迎したことでしょう。この「薩夜麻」の帰国、という事態に対して「天智」が素早く対応しようとしたことが窺えるわけです。「薩夜麻」はそれほどの「重要人物」であったものと推察されます。
このように「大宮姫伝説」に従えば、「天智」は帰国した「薩夜麻」に「面会」に行き、そこで「日本国」を創始し、「天皇位」についたことを「詰問」されたのではないかと思われます。これに対し「天智」は従順の姿勢を示したのではないでしょうか。
彼は、「薩夜麻」が「唐」から帰国することはない、あるいはもっと先のことと思っていたのかもしれません。そのため、天皇位を空白にしているよりは自分が即位してでも国内の人心を収攬しようと考えたと思われ、そのことを「薩夜麻」に「説明」ないしは「申し開き」したのでしょう。しかし、本来の「倭国王」が帰国したとすれば、それを重視し尊重するつもりでいたように思われます。自ら身を退くことで、事態を沈静化しようとしたと推察され、結果、彼は「薩摩」に引きこもることとなったものか、あるいは「流罪」になったかと思われるのです。
「死罪」を免れたものと考えられるのは、(『書紀』によると)「天武」は「天智」の娘四人を妻にしていることからも明らかです。これは「天武」が「正統」な「倭国王」であり、彼が「薩夜麻」と同一人物であるとすれば、彼が帰国後、「天智」が「彼」に対して恭順の意を示し、その証しとして「娘」を「妻」として差し出して「許し」を請うたと考えれば納得がいきます。
『書紀』や『古事記』では「謀反」など重い罪に問われた場合「妻」や「娘」を没収された上「死罪」にされるという場合と、「死罪」は免れる場合とがあり、この場合は後者であったのではないでしょうか。それは「天智」に対する「隠然」たる支持が東国を中心に遺存していたからではないかと考えられ、それを沈静化させる意味でも「極刑」は適用しなかったと推測されるものです。
(この項の作成日 2011/01/20、最終更新 2017/04/23)