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手に香廬を持っての誓いとは


 『書紀』には「薩夜麻」の帰国記事の直後に以下の記事があります。

「天智十年(六七〇年)十一月丙辰(二十三日)。大友皇子在内裏西殿織佛像前。左大臣蘇我赤兄臣。右大臣中臣金連。蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣侍焉。大友皇子手執香鑪先起誓盟曰。六人同心奉天皇詔。若有違者。必被天罸。云々。於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起。泣血誓盟曰。臣等五人。隨於殿下奉天皇詔。若有違者。四天王打。天神地祇亦復誅罸。卅三天證知此事。子孫當絶。家門必亡。云々」(『天智紀』より)

 ここでは、「大友皇子」が「右大臣」「左大臣」など重要閣僚を集め、「泣血誓盟曰」をしていますが、そこには「天智」が存在していません。
 また、ここで彼らが行った、「天智」の「詔」を互いに奉じる事を確認するために行った「誓いの儀式」は、はなはだ「異例」であり、これは「手に香廬を持って」、と表現されているように「天智」が死去したか、すでに死を覚悟して「近江」を離れたかどちらかの状況であったと考えられ、「大友皇子」に何らかの「遺詔」を残していったものと推察されます。

 ちなみにこの「儀式」については仏教的誓約の作法であり、重要な内容の誓約を行う場合に行われる性質のものであったようです。
 この儀式の淵源は『大方便佛報恩經』という経典にあると思われます。そこでは「善友太子」が「如意(摩尼)寶珠」を得た際にやはり「手に香廬」を持ち「立って」「誓願」しており、これがその後の「「誓願」あるいは単に「願」を立てる際のとるべき作法となったものではないでしょうか。 

「爾時善友太子於月十五日朝,淨自澡浴,著鮮淨衣,燒妙寶香。於高樓觀上,『手捉香爐,頭面頂禮摩尼寶珠,立誓願言』:『我為閻浮提一切衆生故,忍太辛苦,求是寶珠。』爾時東方有大風起,吹去雲霧,?空之中皎然明淨,并閻浮提所有糞穢、大小便利、灰土、草?,涼風動已,皆令清淨。以珠威コ,於閻浮提遍雨成熟自然粳米,香甘軟細,色味具足,溝渠盈滿,積至于膝;次雨名衣、上服、珠環、釵釧;次雨金銀七寶,?妙伎樂。舉要言之,一切?生所須樂具,皆悉充足。菩薩修大慈悲,行檀波羅蜜,給足?生一切樂具,其事如是。」(大方便佛報恩經七卷/卷四 惡友品)

 この「大方便佛報恩經」は「北朝」で流布していたものであり、日本神話の『海幸彦・山幸彦神話』に深い影響を与えたとされていますが、それが「七世紀」の倭国王権の中枢で信仰されていたとするとある意味自然です。 
 これを承けたものとしては、たとえば『藤氏家伝』にも以下のような文章があります。

「…。故賜純金香爐、持此香爐、如汝誓願、従観音菩薩之後、到兜率陀天之上。日々夜々、聴弥勒之妙説。朝々暮々、転真如之法輪。…」(『藤氏家伝』上巻)

 ここでは「天智」より「純金の香爐」を下賜しそれを用いて「請願」するように「弔辞」(誄)を呈しています。
 さらに『法隆寺伽藍縁起並びに資財帳(西院資材帳)』にも「許世徳陀高臣」が「香炉」を手に「撃ち」、誓約している情景が描写されています。

「…天皇大化三年歳次戊申九月二十一日己亥許世徳陀高臣宣命為而食封三百烟入賜《岐》又戊午年四月十五日請上宮聖徳法王令講法華勝鬘等経《岐》其義如僧諸王公主及び《臣》連公民信受無不喜也講説竟高座《尓》坐奉而大御語《止》為而大臣《乎》香爐《乎》手撃而誓願《弖》事立《尓》白《之久》七重寶《毛》非常也人寶《毛》非常也是以遠《岐須売呂次乃》御地《乎》布施之奉《良久波》御世御世《尓母》不朽滅可有物《止奈毛》播磨国依西地五十万代布施奉此地者他人口入犯事《波》不在《止》白而布施奉《止》白《岐》…」

 ここでは「大臣」(許世徳陀高臣か)が「上宮聖徳法王」講説を聞き「香爐」を「手撃」しながら「誓願」し「事立」ています。
 その他『皇極紀』には「蘇我蝦夷」が「雨乞い」のため「大雲経」を転読する際にやはり「手に香廬を執って」請願しています。

「(六四二年)(皇極)元年秋七月甲寅朔…戊寅。羣臣相謂之曰。随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。蘇我大臣報曰。可於寺寺轉讀大乘經典。悔過如佛所訟。敬而祈雨。
庚辰。於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像。屈請衆僧。讀大雲經等。于時。蘇我大臣手執香鑪。燒香發願。」

 また(後代ではありますが)『宋史紀事本末』(明代に書かれた歴史書)の卷六「平江南」の中に以下の記事があります。

「…一日,彬忽稱疾不視事,諸將皆來問疾。彬曰「某之疾非藥石所能愈,惟須諸君誠心自誓,以克城之日,不妄殺一人,則自愈矣」諸將許諾,共焚香為誓。明日,彬即稱愈。…」(『宋史紀事本末』卷六平江南」より)

 ここでは(北宋の)皇帝からの「むやみに人を殺すな」という「殺戮禁止」を諸将が守るのかを問われ、諸将がそれを「香を焚いて誓った」ので、それを受け入れたとされており、ここでも「誓う」ために「香を焚く」という作法が行われています。これはまさに『天智紀』の「大友皇子」と諸臣による「香炉」を手にしての「血の誓約」と同義の儀式であると思われます。これら以外にも(当然のように)誓約をするようなシチュエーションはあるわけですが、必ず「香焚」という作法を行うわけではなく、こと「仏教的」な雰囲気の中での作法であり、特に仏教に深く傾倒している人がその中心人物である場合に行わせるようです。
 また『三国史記』においても「新羅」に初めて仏教を伝えた「墨胡子」という人物に「王女」の病気を占ってもらったシーンでやはり「焚香表誓」しています。

「(法興王)十五年 肇行佛法 初訥祇王時 沙門墨胡子 自高句麗至一善郡 郡人毛禮 於家中作窟室安置 於時 梁遣使 賜衣着香物 君臣不知其香名與其所用 遣人香問 墨胡子見之 稱其名目曰 此焚之則香氣芬馥 所以達誠於神聖 所謂神聖未有過於三寶 一曰佛 二曰達摩 三曰僧伽 若燒此發願 則必有靈應 『時王女病革 王使胡子焚香表誓 王女之病尋愈 王甚喜 餽贈尤厚』…」

 このように重要な誓約を行う際に「天」にいる「仏」に対して行う事が行われていたものであり、その際の荘厳として「香を焚く」「香廬を手に持ち立つ」という儀礼が要求されていたものと思われるわけです。(清浄さを要求されるため)
 さらに「大友皇子」達の場合は「血盟」も行われており、厳格さにおいて比類なきものであったことが窺え、ここで誓われた約束は「死」を賭して守るべきものとされていたことが判ります。それほど重要な「詔」を「天智」が残していったとするなら、それは何があっても「近江朝廷」を守り、「唐」の圧力に屈するなというものではなかったでしょうか。そのことが「壬申の乱」を誘発することとなったものと推量します。

 またここで彼等が「泣血誓盟曰」を行った「内裏西殿」については、後の「平安京」では「安福殿」という「医師」などが待機している「薬殿」が「紫宸殿」の南庭の西にあったとされており、ここが「西殿」と呼ばれていたものです。ここでも同様に「医療」に関係した場所ではないかと思われ、「天智」の健康に異常があったことを「示唆する」ために書かれたものと推察されます。(実際に死去したかどうかはともかく)

 「薩夜麻」が「対馬」に到着したことを「対馬」から「筑紫太宰府」へ知らせてきたのが「天智十年十一月十日」であったと思われ、「大友皇子」等の「泣血誓盟曰」はこの二週間足らず後のことです。これについては「山陽道」を使用して「早馬」により「筑紫」から「近江」へ知らせが来たものでしょう。これに対する「措置」というのが「泣血誓盟曰」というわけですから、その知らせが「天智」にとって破局的なものであったことは充分考えられるところであり、この知らせを受けた後早々に「天智」は「近江」を離れたものと考えられます。
 この後「十二月三日」に死去した、という記事になるわけですが、それはこの「泣血誓盟曰」からわずか「一週間後」の事であり、「天智」の運命に「薩夜麻」が深く関わっていると考えるのは当然と言えるものです。


(この項の作成日 2011/01/16、最終更新 2017/09/30)