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「淡海天朝」とは


 既に見たように、「天平」年間に出された「太政官符」に「興福寺」と「元興寺」の関係について述べた下りに「内大臣割取家財爲講説資」つまり「家財」を出してまで「元興寺」の僧から「講説」を受けていたということが書かれており、それが「従白鳳年迄干淡海天朝」という年次範囲のこととされています。

「類従三代格」「太政官符謹奏」天平九年(七三七年)三月十日
「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事/右得皇后宮識觧稱。始興之本従白鳳年迄干淡海天朝、内大臣割取家財爲講説資。伏願、永世万代勿令断絶。…」

 この「従白鳳年迄干淡海天朝」という表現は良く見てみると不自然な感をぬぐえません。ここでは「開始」の年として「聖武」の「詔」と同様「白鳳」という「九州年号」が言及されている点で異色ですが、にも関わらず「終了」時点の年次表記としては「年号」ではなく、「淡海天朝」とされています。これは「淡海天朝」と「白鳳年」という時点の権力者が「異なる」という意味を言外に含んでいると考えられます。というよりこの場合「別王朝」という可能性が高いでしょう。もし同一王朝ならば年次の範囲の「終わり」についても「白鳳年号の何年」というように示せばいいはずであるのに(「白鳳年号」が記録によれば「二十三年間」継続したこととなっています)そうしていないことや、「遷都」やそれにともなう「改元」が行なわれたのなら「新元号」を示すべきであるのにそうしていないことなどから、「白鳳年」の代の「倭国王」と「淡海天朝」の「倭国王」とは別人であり、「別王朝」であると考えられる事となります。(しかもそれは並立していたという可能性が高いものであり、「鎌子」が「淡海天朝」側の人間であったことを示していると言えます)

 『書紀』では「近江遷都」は「六六七年」のこととして書かれています。

「(天智称制)六年(六六七年)三月辛酉朔己卯条」「遷都于近江。是時天下百姓不願遷都。諷諌者多。童謠亦衆。日々夜々失火處多。」

 この「遷都」時点以降を「淡海天朝」と称しているという可能性もありますが、ここで「淡海『天朝』」という表記があるのが重要です。
 「六九〇年」に「大伴部博麻」へ出された「顕彰」の「詔」には「天朝」と「本朝」いう言葉が出てきます。
 
「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通『天朝』。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」
 
 ここで「博麻」は自らが属する「薩夜麻」の朝廷を「本朝」といい、「持統」はその同じ「朝廷」を「天朝」と称している訳ですが、ここでいう「天朝」については『書紀』全体からの帰結として「諸国」から見た「九州倭国王朝」を指して言う用語であると推察されますから「淡海天朝」についても(「琵琶湖」至近の「近江」ではなく)「九州島」の中に存在することが強く示唆されます。

 既に『懐風藻』の「淡海帝」が「阿毎多利思北孤」あるいはその太子である「利歌彌多仏利」さらには「弟王」(これは「難波王」に擬される)を指すものと推定したわけであり、その「淡海」とは「筑紫」の「伊勢」の「淡海」であるという事について述べたわけです。
 このことから、「淡海天朝」の「都」と「阿毎多利思北孤」が「キ」を構えた場所とは同じ場所であるという可能性が高いことが判ります。
 この「淡海」がどこを指すか具体的には確定してませんが、「筑後」界隈ではないかと考えられ、「持統」が「三輪高市麻呂」の制止を振り切って「行幸」し、「曲水の宴」を行ったという「筑後国府跡」付近が「伊勢」であったとも推定されるものであり、「淡海」はその至近にあったと考えられます。

 『倭姫命世紀』という「伊勢神宮」に関わる伝承を記録した文書によれば、「伊勢」の海についての説明として「海塩相和而淡在、故淡海浦号」(塩味が淡いことから淡海浦と名付けた)という記述があり、これは「伊勢」と「淡海」が関連しており、互いに近接して存在することを示しています。
 その「倭姫」という人物は「垂仁紀」では皇后である「日葉酢媛命」の子供とされますが、その「日葉酢媛命」は、彼女が死去した際にそれまでの「殉葬」をやめて「埴輪」に変えたというエピソードの渦中の人物であり、この説話が「近畿」の実態とは合わないというのは有名であり、『書紀』不信論の代表となっています。しかし、「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」にかなりの数が現れるのに対して、「筑紫」ではその出現がかなり遅れ、(それは「埴輪」全体に言えることですが)特に「人物埴輪」は「筑紫」では非常に少なく、「六世紀」に入ってすぐの時代に僅かに見られますが、それもまた短期間で消えてしまいます。その直後「古墳」そのものの小型化が始まる訳です。
 これらのことから、この「垂仁紀」の「日葉酢媛命」と「埴輪」のエピソードも「筑紫」周辺のものであったと考えることで整合すると考えられます。(この点については既に古田氏により論究されています)
 そうであれば「彼女」の子供とされる「倭姫」についても「九州」に関連が深い人物であることとなりますから、「伊勢」も「九州」の中に探すべきであることを示唆しています。しかも、『万葉集』に現れる「淡海」は「鯨」が採れるとされています。
 (以下は「天智」の「后」(大后)と考えられる人物が「天智」の「殯」に際して詠ったとされるものです)

(原文)万葉主巻二一五三番歌
「<太>后御歌一首 鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立」

「(大意) 鯨魚取り 近江(淡海)の海を 沖放けて 漕ぎ来る[舟エ]辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の嬬(夫)の 思ふ鳥立つ」

 このように「淡海」では「鯨」が採れるという訳ですが、もちろん「琵琶湖」では鯨は捕れませんので、この「淡海」が「琵琶湖」を指すものでないことは明白です。(これも既に「水野氏」などにより論究されています)「琵琶湖」は古い表記には「水海(みずうみ)」として現れ(現在でも「みずうみ」と呼称されています)、「淡海」というような表記が「みずうみ」の呼称として使用されたとは思われません。
 しかし、「淡海」が「筑後川河口周辺」あるいは広く見て「有明海」を指すとすれば「鯨」が捕れないと云うことはありません。(例は多くありませんが過去には鯨が捕れたという記録はあります)

 こう考えると「淡海天朝」は「六六〇年代前半」に「九州島」の中の「淡海」を「母なる海」としていた「王朝」を指すと考えられる事となるでしょう。


(この項の作成日 2003/05/15、最終更新2013/09/08)