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「従白鳳年迄干淡海天朝」とは


 既に述べたように、「鎌足」が「元興寺」の門徒を保護していたことを思わせるものが「太政官符」として出されています。

「類従三代格」「太政官符謹奏」天平九年(七三七年)三月十日
「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事/右得皇后宮識觧稱。始興之本従白鳳年迄干淡海天朝、内大臣割取家財爲講説資。伏願、永世万代勿令断絶。…」

 また同様の趣旨を示す記事が他にも確認されています。

『扶桑略記』「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。

同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」

『日本帝皇年代記』「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」

 この「白鳳」年号については「天智」に関わるものとする系統と「天武」に関わるものという系統の二つが確認されていますが、ここでは「内大臣」つまり「鎌足」に関する事として書かれており、彼は「天智」の腹心であったものであり、また「天武」即位以前に死去していますから、この「白鳳年」とは「天智称制元年」である「六六〇年」を意味する表記と推定できるでしょう。その場合「淡海天朝」とは彼が「近江京」へ遷都した時点の呼称と考えられます。「鎌足」は「近江遷都」とされる「六七〇年」の前年である「六六九年」に死去していますから、その意味では整合していると言えるでしょう。
 しかし、上に示した『扶桑略記』と『帝王年代記』に示された年次は推定した「六六〇年」以前の「六五七年」及び「六五八年」の事実として記録されています。
 特に「帝王年代記」では「智通」「智達」の「唐」への派遣記事と併記されていますが、これは『書紀』の記事内容と整合しています。

「(六五八年)四年秋七月是月条」「沙門智通。智達。奉勅乘新羅船往大唐國。受無性衆生義於玄弉法師所。」

 このことから、その前段の「鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経」という記事についても「書紀年次」と整合しているという可能性が期待できるでしょう。
 しかし、そうであれば「太政官符」の中の「従白鳳年」という表現と「齟齬」していることとなります。つまり「白鳳年」が「六六〇年」を指すとすると、「六五八年」ないしは「六五七年」が「白鳳年」とされているように見えることとなり、「食い違い」があるように考えられるわけです。(たかが二年や三年とは言えないのは当然です)
 それを考える上で重要な資料が『新唐書日本伝』です。

 『新唐書』には歴代の「倭国王」を列挙した部分があり、その中に以下の記事が存在しています。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。…」

 つまり「天豐財」の死後「天智」が即位したこと、その「明年」に「蝦夷人」を伴って「遣唐使」が派遣されたことが記されているのです。
 ここに書かれた「蝦夷人」を伴った「遣唐使」というものについては一般には「六五九年」に派遣された「伊吉博徳」を含むものが該当すると考えられているようであり、これが「天智即位」の明年と記録されていることから判断して、即位の年は「六五八年」であったらしいとされています。しかしすでに述べたように「唐」の「高宗」ではなく「太宗」の時代に「蝦夷国」の使者が「倭国」からの使者に伴われ、唐へ来ていたことが推測されています。そうであればこの「遣唐使」の年次としては「六四〇年代」と言う事も可能性としては有り得ることとなります。その場合最も考えられるのは「甲子朔旦冬至」という珍しい現象が起きた「六四〇年」が想定されます。
 この「朔旦冬至」という現象は「皇帝」の統治に関して重要なものであったと思われ、「六五九年」の高宗の時と同様周辺諸国を含め多くの参加者が一堂に会していたものと推測されます。ましてこの時はその「冬至」の日が「甲子」に当たるという特別な日であり、この「甲子」が「十干十二支」の組み合わせてでできる六十通りの第一番目であることが重視されたものであり、「統治」の開始という意味づけがされていたものと思われます。そしてそのイベントに参加した「蝦夷国使」がその特別な技能を発揮したというわけです。そう考えると「天智」の即位はその前年とされますから、「六三九年」が想定されます。
 「六五九年」の「遣唐使」の年次については、その行程と「百済滅亡」との間に強い関連があることが理解できますから、その年次には高い確度で信憑性があると考えられています。(ただし、それは『伊吉博徳書』の記事内容に大部分を負っています)
 つまり「太政官符」にいう「白鳳年」というのは「六六〇年」ではなく「六三九年」を意味していたのではないかと考えられることとなります。


(この項の作成日 2003/05/15、最終更新2015/05/12)