「古田史学の会」の会編として出版されている『古代に真実を求めて』第十八集(副題が『盗まれた「聖徳太子」伝承』というもの)に「服部静尚氏」による「難波朝廷」周囲の関塞の状況についての考察が書かれていました。(「関から見た九州王朝」)それによれば「龍田」「大坂」の二つの関は峠の「明日香側」に築かれていたとされ、これは「明日香側」からの侵入に対する警戒であり、当然「近畿王権」に対する警戒であったと理解できるとされます。それはこの時点で「倭王権」と「近畿王権」の間に一種の緊張関係があったことを意味すると思われますが、それを端的に示すものが「乙巳の変」ではないでしょうか。
いわゆる「大化の改新」の契機となったとされる「乙巳の変」については『書紀』では「中大兄」がその主役であったかのように書いています。しかし、それは不審です。
(以下「乙巳の変」の状況)
「時中大兄即自執長槍隱於殿側。中臣鎌子連等持弓矢而爲助衞。使海犬養連勝麻呂授箱中兩劔於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田曰。努力努力急須應斬。子麻呂等。以水送飯。恐而反吐。中臣鎌子連嘖而使勵。倉山田麻呂臣恐唱表文將盡而子麻呂等不來。流汗沃身。亂聲動手。鞍作臣恠而問曰。何故掉戰。山田麻呂對曰。恐近天皇。不覺流汗。中大兄見子麻呂等畏入鹿威便旋不進曰。咄嗟。即共子麻呂等出其不意。以劔傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂運手揮釼傷其一脚。入鹿轉就御座叩頭曰。當居嗣位天之子也。臣不知罪。乞垂審察。天皇大驚詔中大兄曰。不知所作。有何事耶。中大兄伏地奏曰。鞍作盡滅天宗。將傾日位。豈以天孫代鞍作耶。蘇我臣入鹿更名鞍作。天皇即起入於殿中。佐伯連子麻呂。稚犬養連網田斬入鹿臣。」(皇極紀)
ここでは宮中(しかも天皇の眼前)であり、そのような場所で「刀」を振り回すようなことを「太子」である「中大兄」が行ったとは思われません。これは本来「武人」の所為であり、また役目であったはずです。仮に主役が「中大兄」であったとしても、実行役としては誰か別の人物を任命したはずと思われます。それは「佐伯」「大伴」「犬養」などの「武衛」を本分とする氏族がそれにあたったものと思われ、確かに彼等は『書紀』の記事中にその場にいたことが確認できますが、『続日本紀』では「鎌足」(藤原内大臣)の功績が論功行賞では最大とされ、「大功」とされています。
このように「乙巳の変」について、それが「中大兄」ではなく「鎌足」が主体として行われたと見られることを『続日本紀』の「天平宝字元年」の記事を挙げて考えてみます。
(以下「乱」や「イベント」ごとに分けて褒賞を記してみます。)
「天平宝字元年」(七五七年)「十二月壬子。太政官奏曰。旌功。錫命。聖典攸重。襃善行封。明王所務。我天下也。乙巳以來。人人立功。各得封賞。但大上中下雖載令條。功田記文或落其品。今故比校昔今。議定其品。
@(乙巳の変)
大織藤原内大臣乙巳年功田一百町。大功世世不絶。
A(壬申の乱)
贈小紫村國連小依壬申年功田一十町。贈正四位上文忌寸祢麻呂。贈直大壹丸部臣君手。並同年功田各八町。贈直大壹文忌寸智徳同年功田四町。贈小錦上置始連莵同年功田五町。五人並中功。合傳二世。
B(律令編纂)
正四位下下毛野朝臣古麻呂。贈正五位上調忌寸老人。從五位上伊吉連博徳。從五位下伊余部連馬養。並大寳二年修律令功田各十町。四人並下功。合傳其子。
以上十條。先朝所定。
C(乙巳の変)
贈大錦上佐伯連古麻呂乙巳年功田■(四十)町六段。被他駈率。効力誅姦。功有所推。不能稱大。依令上功。合傳三世。
D(壬申の乱)
從五位上尾治宿祢大隅壬申年功田■(四十)町。淡海朝廷諒陰之際。義興警蹕。潜出關東。于時大隅參迎奉導。掃清私第。遂作行宮。供助軍資。其功實重。准大不及。比中有餘。依令上功。合傳三世。
贈大紫星川臣麻呂壬申年功田四町。贈大錦下坂上直熊毛同年功田六町。贈正四位下黄文連大伴同年功田八町。贈小錦下文直成覺同年功田四町。四人並歴渉戎塲。輸忠供事。立功雖異。勞効是同。比校一同村國連小依等。依令中功。合傳二世。
E(古人大兄の乱)
大錦下笠臣志太留告吉野大兄密功田廿町。所告微言尋非露驗。雖云大事。理合輕重。依令中功。合傳二世。
F(橘奈良麻呂の乱)
從四位下上道朝臣斐太都天平寳字元年功田廿町。知人欲反。告令芟除。論實雖重。本非專制。依令上功。合傳三世。
小錦下坂合部宿祢石敷功田六町。奉使唐國漂著賊洲。横斃可矜。稱功未■。依令下功。合傳其子。
正五位上大和宿祢長岡。從五位下陽胡史眞身。並養老二年修律令功田各四町。外從五位下矢集宿祢虫麻呂。外從五位下鹽屋連古麻呂。並同年功田各五町。正六位上百濟人成同年功田四町。五人並執持刀筆刪定科條。成功雖多。事匪匡難。比校一同下毛野朝臣古麻呂等。依令下功。合傳其子。
以上一十四條當今所定。
以上のように「歴史的事件」ごとに「褒賞」を定めているわけですが、この「太政官」の奏上はすぐ直前に起きた「橘奈良麻呂」の反乱の鎮圧が行われた際の「論功行賞」(褒賞)を下賜する際に「以前」の「功」との格差が問題になったために出されたものと推量されます。
つまり、至近の方が「手厚く」思えた「以前」の「功」の関係者が、こちらにも追加で褒賞が欲しい、と言う事を申し立てたのではないかと考えられます。そこで「乙巳」の「功」と「壬申」の「功」の関係者について「先朝」(ここでは「文武朝」を指す)で指定していなかった人物について改めて「功」に対する「褒賞」を決めたものでしょう。そして「基準」は「先朝」において「乙巳年」の「功」ですでに「褒賞」をもらっていた「藤原内大臣」以下のメンバーであったと思われます。彼らと「比較」してその「功」の軽重を判定したものでしょう。そのことが「今故比校昔今。議定其品。」の中に象徴されていると思えます。
そして「大錦上佐伯連古麻呂」の「乙巳」の功については「遡って」新たに決められた「褒賞」が決められ、それが「上功」とされ、「合傳三世」というわけです。
つまり、この時点で「大錦上佐伯連古麻呂」の関係者から申し立てがあったものと考えられ、彼らは「大功世世不絶。」とされた「鎌足」と同じ扱いを要求したものと推察されます。しかし「朝廷」はその「佐伯連古麻呂」の功績について「被他駈率。効力誅姦。」つまり他の人間を率いて「姦」を誅するのに功績があったというわけですが、「大功」とはしていません。しかし『書紀』の記事では実行役であったものであり(中大兄と共に最初に斬りつけたとされています)、そのような役割に対するものとしてはやや評価が低いともいえるでしょう。
しかも、「中臣鎌子」は「助衞」として「弓矢」を持って「中大兄」の側にいただけであり、実際の「入鹿」を討つシーンでは「鎌子」の行動は何も記されていません。(とどめを刺したのも「佐伯連古麻呂」(と「稚犬養連網田」)でした。)
このことから「佐伯連古麻呂」が自分も「大功」であると主張するのはあながち理由のないことではないと思われるわけです。しかし、『続日本紀』中では、「大功」ではないとにべもなく拒絶されており、「壬申の乱」の際の「尾治宿祢大隅」の功と大差ないとされます。その「尾治宿祢大隅」の功は「淡海朝廷諒陰之際。義興警蹕。潜出關東。于時大隅參迎奉導。掃清私第。遂作行宮。供助軍資。」と書かれており、これはせいぜい「援助」であり、乱で主たる功績を挙げたというわけではありませんでした。
彼と同格の扱いをされていることから考えて、それが実態を表わすとすると「鎌足」の行動は「古麻呂」を上回るものであったことにならざるを得ません。その意味では「計画」と「実行」の両方の主役であったことが推察され、宮中において抜刀して白昼の暗殺劇を演じたのは他ならぬ「鎌足」であったと見るべきこととなるでしょう。
『日本帝皇年代記』にも「鎌足」の功績として「入鹿」を討ったことが挙げられ、その功績から「中臣」から「藤原」へ「賜姓」され、「鎌足」という名を号することを許されたとされています。(しかもその時「丈六釈迦像」を祈願のため「刻」したとされています。)
丁卯(白鳳)七《三月十九日自和州遷都於江州志賀大津宮、十月三日道宣律師入滅、/大織冠鎌足始賜藤原姓、以謙誅入鹿(蘇我)、故号鎌足、七十二歳》
庚戌(和銅)三《三月不比等興福寺建立、丈六釈迦像大織冠誅入/鹿時所誓刻像也、三月従難波遷都於奈良》
しかし、これらの情報は『書紀』からは完全に脱落しており、あたかも「鎌足」はいなかったの如くになっています。これらのことは当初の『日本紀』では「入鹿」誅殺の主役は「鎌足」として描写されていたものではないかという疑いを抱かせるものです。それであれば「大功」は当然であり、「佐伯連古麻呂」よりはるかに上位の「褒賞」を受けて当然となるでしょう。
しかもそれは「孝徳」つまり「軽」の意向を受けて行われたことである可能性が高いと推量します。それは「文武」の「不比等」に対する詔の中で、「難波朝」において「建内宿禰」に擬されるという高い功績を讃えられていることからです。
「(慶雲)四年(七〇七年)…夏四月…壬午。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。」(『続日本紀』文武紀より)
その「建内宿禰」は歴代の「天皇」に仕えたとされますが、特に「仲哀」「神功皇后」の代の功績が注目されます。そこでは「成務」「仲哀」後継の「近江朝」に対する「武力」による侵攻が特記すべき功績であり、そのことが重視されたとすると、「鎌足」においても同様に「武力」が功績の第一と見られたものと推量できます。
基本的に「中臣氏」は軍事氏族ではなく、祭祀氏族であったはずであり、その意味では違和感がありますが、「物部」勢力の衰退を背景に「軍事」に進出していたことが窺えます。
この時「鎌足」が受けた「百町」という功田は破格であり、それは彼の功績が「難波朝」創立に多大な功績であったことを示すものです。しかし「難波朝」は「九州王朝」の副都であり、そのような「変」の後に成立したわけではありません。ここで「難波朝」と称しているのは「近畿王権」が「難波朝廷」の至近に造った「宮殿」であったと思われ、それは「近畿王権」の「倭王権」に対するスタンスがこれ以降変更となったことを示すものと思われます。(敵対性を含んだものとなったか)それを反映して「難波京」はその周囲に「関塞」を設け「近畿王権」に対する警戒を怠らないようにしたものと理解されます。
(この項の作成日 2011/11/01、最終更新 2016/08/21)