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称制期間の紀年干支の「ズレ」について


 「百済禰郡」墓誌の解析からは「六六〇年」に行われた「百済」に対する戦闘に「倭国」が当初から関係していると理解されるものであり、『書紀』や『旧唐書』などで、戦いの当事者はあくまでも「唐」「新羅」対「百済」(+高句麗)であったと思われることと、この「墓誌」の文章とでは食い違っていると考えられます。この「墓誌」の文章を素直に理解すると、「唐」は「百済」が滅びた段階ですぐに「倭国」に対し「残存勢力」の追求をしようとしているように見えます。
 このことから「実際」には「六六〇年八月」とされる「百済滅亡」の戦いの時点ですでに「倭国」は軍を派遣しているのではないか、という疑いが生じます。
 つまり、「百済」と「倭国」は最初から連合してこの「戦い」に臨んだのではないかと考えられるものです。
 『書紀』によれば「救援軍派遣」は「百済滅亡」の一年後である「六六一年八月」であり、また「倭国」に「人質」となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えるべく派遣したのが翌九月とされています。
 しかし、この記事自体がすでに『旧唐書』や『資治通鑑』とも食い違っていると考えられるのです。

『資治通鑑』
「龍朔元年(六六一年)(辛酉)三月初,蘇定方即平百濟,留郎將劉仁願鎭守百濟府城,又以左衞中郎將王文度爲熊津都督,撫其餘衆。文度濟海而卒,百濟僧道琛、故將福信聚衆據周留城,迎故王子豐於倭國而立之,引兵圍仁願於府城。」

 これによれば「六六一年三月」には旧「百済」の将である「鬼室福信」などが「扶余豊」を王に迎えて、「百済」に居残っていた「唐」の将軍「劉仁願」の城を包囲したと書かれています。
 このことは上に挙げた『書紀』の「六六一年九月」の「扶余豊」帰国記事と大きく食い違うものです。
 従来の考え方では、滅亡した「百済」の残存勢力の代表である「鬼室福信」から「百済再興」の計画を持ちかけられ、「倭国」に人質となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えることとして、軍を添えて送ったのが「六六一年九月」のことであり、この時点以降、「唐」「新羅」と戦いになったというように理解されてきましたが、「百済禰軍」の墓誌からも、『資治通鑑』によっても、それとは異なっていることとなります。
 そもそも「百済」滅亡という「緊急事態」に対して、すぐに行動せず、「一年後」の軍の派遣というのでは「遅きに失する」と思われます。「危急」の事態に対する対応として、はなはだ「不自然」ではないかと思われるわけです。
 また、「百済を救う役」という名称も「百済滅亡の瀬戸際」でこそ意味があると考えられ、すでに滅亡し、国王、王子らが国外に連れ去られた後、「一年後」の軍の派遣に際しての命名としてはいささか「不審」と言うべきであり、「そぐわない」ものと考えられます。
 しかも「墓誌」ではすでに「餘?」といい「遺?」と言うとらえ方をしているわけですから、彼ら「倭国」の「残余」の勢力の本来の指導的立場の人間は既に「いない」こととなってしまっています。つまりこの段階で既に「倭国王」は「捕囚」となっていたことを示唆するものであり、「持統」の「大伴部博麻」への詔に言う「百済を救う役」で「唐軍」のために虜にされた、という中に「筑紫君薩夜麻」が居るのはまさに整合していると言えます。

 ところで、この時の「劉徳高」達は実は「泰山封禅」への参加命令も伝達に来たものと考えられ、それに応じて、「薩夜麻」本人とは別に「参列」するための人員を急遽派遣することとなったと考えられます。 
 この「泰山封禅」は「六六六年正月」に実施する、という詔が出されたわけですが、それが出されたのは「六六四年七月」とされています。この月の「朔日」(一日)に出されたものですが、当然周辺諸国も含め多数の参加者が想定され、またそうでなければ「権威付け」にならないわけですから、多くの国に「泰山封禅」開催を知らせる「使者」を出したものと考えられます。
 当然倭国にも「来るはず」であり、それが「劉徳高」の来倭であったと考えられるのですが、その年次が「六六五年七月」というのでは、余りに遅すぎるのではないでしょうか。
 倭国のように海を隔てて「遠絶」した地域や、「西域」からも参加が考えられるわけですから、これらの国々に対しては「早期に」使者を派遣する必要があるはずですが、倭国への到着が「六六五年」では「高宗」が詔を発してから一年以上経過していることとなり、まさに「遅きに失する」こととなってしまいます。直後の「十月」にはすでに「高宗」に従駕する行列が始まっていますから、全く間に合わないと思われます。

『書紀』
「(天智称制)四年(六六五年)是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

 この記事は「是歳」条記事であるものの、これはその記事の中でも触れられているように「唐使」を送る役割であったと思われますから、配列から考えて「十二月」のことであったのではないかと考えられ、そうであれば「守君大石等」達は「泰山封禅」の儀式そのものにさえ間に合ったかどうか疑わしいものです。このような「間に合わない」使節派遣などあり得るはずがありません。
 そもそも「白村江の戦い」の年次について、『旧唐書』と『三国史記』では「六六二年九月」と考えられ、『資治通鑑』と『書紀』では「六六三年九月」となっており、「一年」ずれて書かれています。このどちらかが誤りであるわけですが、記事の内容を見ていくと『資治通鑑』には「不審」な点があります。それは「六六二年十二月」の条の記事です。

(六六二年)冬十月(中略)癸丑 詔以四年正月有事於泰山 仍以來年二月幸東都。
(同)十二月戊申 詔以方討高麗 百濟 河北之民 勞於征役 其封泰山 幸東都並停。

 上の記事では「高麗」と「百済」を「討つ」よう「詔」を出したと書かれています。しかしこの記事時点では「高麗」も「百済」もすでに遠征軍が派遣され、「征討戦」が実施されています。「百済」に至っては「六六〇年八月」の段階で「国王以下主要メンバー」が投降し、「唐」の皇帝の面前まで連行されています。「六六二年十二月」になってからの「百済」を「討つ」という「詔」とは整合していないと考えられます。
 
 また「十月」に「泰山封禅」を行う、という詔が出ていますが、そうすることとした理由としては「白村江の戦い」で「百済」と「倭国」に打撃を与えたことで「東夷」が安定したと思ったことが大きな理由と考えられます。
 ここで、もし「東夷」がまだ「征伐」されておらず、「百済」残党も「高麗」も「倭国」も活発に活動し、「唐」遠征軍と激闘を繰り広げていて、遠征軍からは「勝利」の報告が来ていない段階で、「泰山封禅」を企図したとすると、そのこと自体がはなはだ不審なことと思料されます。
「泰山封禅」は、後に実施に移された際の参加国も膨大なものであり、「唐」の力と権威を見せつける場にするつもりであるはずですが、「東夷」が平定されていないのであれば、その「東夷」からは参加する国がない、と言う事になりかねません。(新羅は参加するかもしれませんが)そのようなことは逆に「唐」の権威に「傷」をつけることとなってしまいます。
 つまり、この段階で「泰山封禅」を企図した、と言う事は「東夷」が平定された、と「高宗」が判断したからに他ならなく、そうであれば「十二月」の条にある「詔以方討高麗 百濟」という一文の存在が「矛盾」となると考えられます。
 このことはこの『資治通鑑』の「六六二年十二月」の条の記事に何らかの混乱があると考えられるものです。つまり「泰山封禅」を取りやめるという記事の前段の「征討」の詔は「何らか」の理由により「六六〇年」の条から紛れ込んだのではないでしょうか。
 これらのことは「白村江の戦い」が「泰山封禅」を企図したという記事の日付である「六六二年十月」より「以前」に行われた可能性が高いことを示していると考えられ、『資治通鑑』とともに「白村江の戦い」を「六六三年」のことと記している『書紀』にも何らかの混乱が生じていることが示唆されます。
 『書記』にも「唐側資料」にも共通しているのは「百済」の滅亡が「六六〇年八月」ということです。

 この年次のズレについては「青木一利」氏の研究もありますが、(「古田史学会報一〇二号」)その中でもやはり『旧唐書』『三国史記』が正しいとされているようであり、『日本書紀』の影響を受けたと考えられる「後期中国側資料」については「信」がおけず、その年紀は真の年次に対して「一年」ズレているのではないかと考察されています。
 この推論に従えば、「劉徳高」の来倭の日付は「六六五年」ではなく、「六六四年」であった可能性が高いと考えられるものです。
 「高宗」は「倭国」等遠絶した地域からも参加が可能なように「時間的余裕」を考え「六六四年(麟德元年)七月朔」にこの式典開催を宣言しているのです。つまり、「封禅の義」まで、約一年半の猶予があるわけであり、この詔勅の「直後」に各国に使者が発せられたと考えるべきでしょう。まさに「劉徳高」の来倭はそのタイミングで為されたと考える方が正しいと思われます。
 中国の歴史上「封禅」の規模は皇帝の「即位の儀式」さえも超えるものでした。そのため、「唐」の高宗はこの儀式を自身の威信をかけたものにするために、周辺の「唐に封ぜられた」諸国王も含め大量招集をかけたものでしょう。そのような中にははるか遠方の国もあるわけですから、かなり余裕を持った伝達でなければ間に合わないという可能性も出てくるため、特に遠方の国については「迅速」な伝達を行ったものと考えられます。
 この時派遣されたという「劉徳高」の官職名は「沂州司馬」というものですが、「沂州」が現「山東省」付近の事であり、遣唐使船などが往復に利用する港があるところですから、倭国へ使者を送るのには「最適」「最短」の場所にあると言えます。(だからこそ彼が選ばれたものでしょうか)
 『書紀』の日付が一年ずれているとすると「劉徳高」は「対馬」に「六六四年」の「七月二十八日」についたこととなり、「高宗」が「詔」を発したその月のうちに来た事となります。(事前に詔の内容が内示としてあった可能性もあるでしょう。この場合はそれ以前に準備はすでにされているわけです)
 また、当時の「唐」の船の構造も倭国の船に比べ外洋航海に適しており、(竜骨構造の採用など)ここから船出したとすると、修正年次の「六六四年七月二十八日」の到着も可能でしょう。

 実際の「遣唐使船」の行程を「六五九年」に派遣された「遣唐使」である「伊吉博徳」の記録である「伊吉博徳書」で確認してみると、「遣唐使」として訪れていた「唐」から「六六一年」に帰国した際には「四月一日越州から出発、四月七日『ちょう岸山』の南に到着、八日暁西南の風に乗って大海に乗り出したものの、『漂流』し、九日後(四月十七日)『耽羅』に到着した。」とあり、「劉徳高」の出発地である「沂州」にほど近い「『ちょう岸山』の南」から出航しています。そこから「最短ルート」を取ったものでしょう。この時の倭国の遣唐使船は、多少「彷徨」したようですが、「耽羅」(済州島)まで九日間で来ています。「劉徳高」が同じような、東シナ海横断ルートを取ったとすると、この日数と大きくは違わなかったのではないでしょうか。

 特にこのように急いで倭国に使者を送ったのは、もちろん「倭国」との間の「戦争状態」を集結させるためであり、「泰山封禅」に「捕虜」を連れて行くわけにはいかないわけですから、「倭国王」の出席を促すと共に「至急」降伏の意思表示を示すように督促したものと推量されます。
 「倭国」との折衝を通じて「薩夜麻」捕囚の情報を得たと考えられる「百済禰軍」達はその後(「百済国」内某所と推察されます)「薩夜麻」に面会し、引率して来た「守君大石」達と合流した後、「薩夜麻」を「劉仁軌」に引き渡したものと推量します。
 その後「劉仁軌」により「薩夜麻」を含む「百済王」「耽羅国王」などは「船」で「泰山」の麓まで運ばれています。

「旧唐書劉仁軌伝」
「麟德二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

「冊府元龜」
「高宗麟徳二(六六五)年八月条)仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。」

 この時「劉仁軌」は占領軍司令官として「百済」(熊津都督府)に滞在していましたから、「百済王」はもちろん「倭国王」もこの時点で「劉仁軌」の支配下に入ったものと考えられ、彼らを船に乗せて「黄海」を横切り、「泰山」の麓の港まで「連行」した、というわけです。
 ここで「高宗」は間近に「東夷」の国王達を見て、「東夷」が平定されたことを実感して、大変喜んだものと思われます。
 「劉徳高」の来倭の結果「派遣」されることとなった「守君大石」「坂井部石積」等は「劉徳高」達の帰国に併せ、「熊津都徳府」に向かったものと考えられ、そこで「薩夜麻」と合流したものと推量します。この後彼らはこの「倭国王」達の「高宗会見」などにも同船して向かったものと考えられます。
 このように「謝罪」を承けた「高宗」は「倭国」が「絶域」(遠距離)であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、「百済王」達にそうしたように「謝罪」と「降伏」を受け入れたものとみられます。ただし、処分は下され「千里の外で三年間の強制労働」というものが適用されたものと思われます。これは実質的には「熊津都督府」至近で「軟禁」状態になったことを示していると思われ、いってみれば「経過観察」状態に入れられたものであり、「反抗的態度」や「謀反」などの気配がないか観察されていたのではないかと考えられます。

 また、この「劉徳高」の倭国への遣使が「唐」の史書にありませんが、これは「泰山封禅」の式典に参加する各国への使者が余りに多く、記録上書ききれないため省略されたのだと考えられます。この時は国内全州、及び「柵封国」、「友好国」など非常に多くの参加者があったようであり、『資治通鑑』にも以下の文章があります。

『資治通鑑』「六六五年」(麟德二年乙丑)「冬十月丙寅上發東都從駕文武儀仗數百里不絶。列營置幕彌亙原野。東自高麗西至波斯烏長諸國朝會者各帥其屬扈從穹廬毳幕牛羊駝馬填咽道路。」

 東西の各国からの使者や高官がその随行員を率いて「唐」の「高宗」に「從駕」し、その長さが「数百里」に及んだように書かれています。当然これに参加した彼ら「東西諸国」からの使者なども「唐」からの「使者」によりこの式典に来るよう指示なり招待なりを受けたものと思われます。しかし、このような各国への「唐使」派遣記事は唐側の史書には記載されていないのです。
 ただし、上の『資治通鑑』記事では「東自高麗」と書かれ「新羅」や「倭国」などのことが書かれていません。一見彼らは「泰山封禅」に参加しなかったかのようですが、これは「東都」(洛陽)から「泰山」への陸上移動の様子であり、「倭国王」達はそれとは別に「船」で直接「泰山」(太山)へと「劉仁軌」により運ばれていたものですから、この「従駕」の列には書かれていなくて当然であるわけです。

 また、これに参加したと考えられる「坂井部石積」などの帰国の日時も「一年ズレ」の対象記事と考えられます。

「(天智称制)六年(六六七年)(中略)十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この年次についても「修正」の結果「一年前」の「六六六年」十一月となり、従来「六六六年」正月に行われた「泰山封禅」から二年近くも経過した「六六七年」十一月の帰還というものがはなはだ不自然であり、その理由が不明であったものが解消されます。
 つまり、「守君大石」「坂合部連石積」らについての「泰山封膳」への出発が「六六四年」十二月、「泰山封禅」が約一年後の「六六六年」正月、帰国がさらにその約一年後の「六六六年」十一月となれば、使者の往還に要する時間もきわめて自然なものになります。
 この時「薩夜麻」が同行帰国しなかったのは上に見たように「軟禁」されていたからと思われ、それが解かれたのは「三年後」の「六六八年」のことであったと思われますが、これに関しては『書紀』では「六七一年」のこととして書かれており、この「年次」については「三年」のズレが確認できます。
 『天智紀』は「即位年」と「称制年」の混在を始め、かなりの年次の混乱が確認されており、この「薩夜麻」の帰国についても同様に混乱の中のものと推量されます。
 『書紀』の中に「唐将」「劉仁願」が「熊津都督府」から「倭国」へ「使者」を派遣したという記事があります。しかし「劉仁願」は「戦闘」に参加しなかったという罪で「姚州」に「流罪」となっており、「六六八年段階」では「熊津都督府」には所在していなかったと見られます。このことからこの記事について本来の位置から移動させられていると見られます。これと同じ「ズレ」が「薩夜麻」帰国記事にもあるのではないかと考えられる訳です。
 そう考えることの根拠らしいものは『善隣国宝記』の中に見えています。


(この項の作成日 2011/03/11、最終更新 2015/03/13)