『古事記』序文には「投夜水」(夜水に「投」(いた)りて)という表現があります。
「夢の歌を開きて業を纂がむことを相はせ 夜の水に投りて基(もとひ)を承けむことを知りたまひき」
この文章の前半部分は「夢占い」のこととされていますが、後半はやや意味不明に受け取られています。一般には「投」を「至る」意味で解釈していますが、「夜水」に「至った」事と、基を承ける事との関係が曖昧です。諸々の解説書を見ても納得のいく説明が為されていません。
以下は、全くの推測になりますが、この部分は「前半」部分同様何らかの「占い」を行なったのではないかと考えられ、「投げる」という表現から考えると、「灌頂」の一種である「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」を行なったのではないか、と推察されます。
「灌頂」とは「頭頂」に水を注いで緒仏や曼荼羅と縁を結ぶ儀式一般を指し、多く見られるのが「投華得仏」を行なう「結縁灌頂」というものです。これは目隠しをして曼荼羅の上に華(はな)を投げ、華の落ちた所の仏と縁を結ぶ、つまり「帰依する仏を選ぶ」というものです。これは後の「戦国時代」などでは「武運」を祈るための儀式でもありました。
この儀式は仏教発祥地であるインド(天竺)においては「王」の即位や「立太子」での風習であったらしく、それも含めて「天智」のこの行動が自らの「大義名分」を求めてのものであったことが窺えるものです。
「天智」は「夜水」でこのような「儀式」を行ない、「帰依する仏」を選び、それを名目に自らの行動を正当化しようとしたと推測されます。推測すると、特定の「仏」を選ぶことが「基を承ける」事を意味するような「意味付け」が行なわれていたのではないでしょうか。(この事に関して後代「天智」と「弥勒信仰」が関連して語られている説話が多く見られるのが注目されます)
そして、この「儀式」後「夜水」つまり「筑後川」を「渡って」、筑紫側に進入したことを示すものと思われ、「肥後」から続く古代官道もこの時点ですでに存在していたと想定すると、これを通って軍を「筑後川」まで派遣して来たのではないかと推察されます。そして、その時点でさしたる抵抗もなく「容易」にこれを越えることができたため、それ以降に軍を進めることを最終的に決断したのではないでしょうか。
「筑紫」から「筑後」に至る領域は「薩夜麻」が支配していると考えられ、(彼は「筑紫の君」なのですから当然ですが)その分水嶺とでも言うべき「筑後川」を越えることが「決断」の瞬間であったと思われ、それを「灌頂」により正当化したものと思料されます。
また、確かにこの時点の「倭国」は「筑紫」の「南方」地域への備えは薄かった可能性が高いと思われます。それは「伊勢王」時代に「隼人」に対して「内属」させるなどの政策をとった結果、「南九州」に対する警戒が薄くなったということはあり得ます。
また当然「半島」での戦闘発生という事態が、列島内部の「軍事力」の「空洞化」を招いたということもあるでしょう。
同じく「序文」の中では「南山に蝉蛻(せんぜい)し」とされており、この「南山」は「筑後風土記」「磐井」の逃げ込んだ場所を示すのに使用された「南山」と同じとおもわれます。
この「南山」については以下の文章から、「高良山」ではなく、「筑後」と「肥後」などの間にある「高取山」などの山岳地帯を指すと考えられます。
「豊前の國上膳の縣に遁れて、南山の峻しき嶺の曲に終せき。」
つまり「磐井」は「上膳の縣」の「南側にある山」の中に逃れたと言うことのようです。
そう考えるとこの「南山」は「筑後」の「南方」に存在する「阿蘇」に連なる山地を指すと考えられ、「天智」がいわゆる「筑紫」に元々もいたものではなく、「肥後」(阿蘇)に所在していたという可能性が高い事を示すものと思料します。
その場合、現「菊池市」至近に存在する「鞠智城」がその「拠点」として考えられるものです。
この「六六〇年」という「天智」の革命時点以前に「筑紫宮殿」を含むその周辺防備施設の改修が行なわれたと考えられ、この「鞠智城」においても同様に整備されていたと推察され、この段階で「実用」されていたものと考えられます。
この場所は「倭国」の「古都」であり、「倭の五王」以来「利歌彌多仏利」が「筑紫」遷都を行なうまで、二〇〇年余りの間「倭国」の「首都」であったと考えられます。(『隋書俀国伝』の行路記事からも「裴世清」が来たのはこの場所ではなかったかと推察されます。)
この場所は「伊勢王」も元々所在していたものと考えられ、「伊勢王」が「難波副都」に常住するようになった時に、臣下中の有力者であったと推定される人物に後を託したものと考えられるものですが、それが「天智」であったという可能性もあります。
「天智」の出自については、彼が「天命」を受け、「革命」を起こしたといういきさつからも、「前倭国王」と「親子」や「兄弟」ではないことは明白です。ただし中国の「天命」「寶命」などの使用例を見ると「甥-叔父」の交替の際に「天命」という用語が使用されたことがあり、(「南朝劉宋」の「明帝」の例)、そのような関係が「天智」と「前倭国王」との間にあったという可能性は否定できません。
「天智」はこの「革命」の際に「東」(我姫)の勢力の支援を受けています。また、この「東国」勢力とは、当地の「新羅系」勢力である「中臣」「高向」などと連係した勢力であると考えられます。このことから「天智」と「高向」「中臣」の間に深い関係があることが推測できます。
そもそも「九州」は「親羅系勢力」の一大拠点でした。「筑紫」も「豊」も「肥後」も基本的には「新羅」の勢力が優勢であったものです。それは「宗教」の点においても同様であり、「新羅」から「九州」へという流れがあり、これに沿って「古神道」系統と考えられる「信仰」が「九州」へもたらされていたと考えられますが、他方、同時に「中国」の「北朝」から「高句麗」という流れもあり、この流れに乗った「小乗仏教」もまた「九州」に渡来していたという可能性があります。
これらに対する「相克」というものが「九州」島の中でもかなり先鋭的な形で現れていたと考えられ、内部に矛盾を抱えた形で「倭国」が存在していたと考えられるものです。
これに対し「難波」を含む「近畿」は「百済系勢力」、いわゆる、「百済」から渡来した勢力(「後漢」から「百済」に亡命した漢人を含む)の拠点であったものです。そのため「近畿王権」は以前から「親百済勢力」として存在していたものと思われます。
このような中で「伊勢王」は「唐」に対する政策上のこともあり、「百済勢力」と連係して事に当たることとなったと考えられますが、そのことにより国内の「新羅系勢力」は倭国主流から外れ、冷遇されていたと考えられます。(「高向玄理」の冠位が「降格」になっているなどもそれを表すと見られます)
また、「天智」が武力により国内を制圧した時点以降、「近畿王権」をはじめとしてかなり多くの地域がこの支配下に入ったように見えます。「革命」を起こすという時点でかなりの勢力をが彼の支援に回ったと見られることや、その支援をまとめるのに余り時間が掛っていないようにも見えることから、彼の「実力」が「以前」から「評価される」事が幾度かあったことを示すと考えられます。つまり彼は以前よりそれなりに倭国内では人望も名声もあった人物と考えられます。
そのような人物としてはいろいろ想定できますが、その際には『書紀』の「天智」という人物に対する描写が参考になると思われます。
『書紀』で「天智」について「孝徳」から見て「姉」の「子供」とされており、これは「実際」の「天智」の家族構成を反映したものかもしれません。そう考えると、『書紀』では「伊勢王」と「孝徳」の入れ替わりが行われていると考えられますから、「天智」は「伊勢王」の「姉」の「子供」である、という可能性もあるでしょう。つまり「伊勢王」には「弟王」がいたわけですが、その他に「姉」もおり、その子供が「天智」であるという可能性もあります。
こう考えると、「天智」という人物の立ち位置として「利歌彌多仏利」に対する傾倒が強いと考えられる事も理解できます。彼は「天智」から見て「祖父」に当たるわけであり、「利歌彌多仏利」の時代の政治理念のようなものに「共感」していたのかも知れません。また、彼は「利歌彌多仏利」同様、「東院」という「法号」を貰うほど仏教に強く帰依していた人物であると推定され、それもまた「利歌彌多仏利」からの影響かも知れません。
いずれにしろ「宣諭」されるという事態が発生し「倭国王」が退位するという時点において国内では「有力」な実力者であったという可能性は大きいものと思われます。
(この項の作成日 2012/05/25、最終更新 2015/03/13