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『善隣国宝記』の分析


『善隣国宝記』という書物があります。この『善隣国宝記』は京都相国寺の僧侶「瑞渓周鳳」によって室町時代(15世紀の終わりごろ)書かれたもので、歴代の王権の外交に関する史料を時系列で並べたものです。ここでは「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「菅原在良」が答えた内容について簡単に検討します。

『善隣国宝記』
鳥羽ノ院ノ元永元年
宋國附商客孫俊明鄭清等書曰、矧爾東夷之長、實惟日本之邦、人崇謙遜之風、地富珍奇之産、襄修方貢、皈順明時、隔濶彌年、久缺来王之義、遭逢凞且、宣敢事大之誠、云云、此ノ書叶旧舊例否、命諸家勘之、四月廿七日、従四位ノ上、行式部ノ大輔、菅原ノ在良、勘隋唐以来献本朝書ノ例曰、推古天皇十六年隋ノ煬帝遣文林郎裴世清使於倭國、書曰、皇帝問倭皇、云云、天智天皇ノ十年、唐ノ客郭務悰等来聘、書曰、大唐ノ帝敬問日本國ノ天皇、云云、天武天皇ノ元年郭務悰等来、安置大津館、客上書ノ函、題曰、大唐皇帝敬問倭王書、又大唐ノ皇帝勅日本國使衛尉寺少卿大分等、書曰、皇帝敬到書於日本國王、承暦二年、宋人孫吉所献之牒曰、賜日本國大宰府ノ令藤原ノ経平、元豊三年、宋人孫忠所献牒曰、大宋國ノ明州牒日本國
(ただし訓読のための「返り点」などは(記載があったものの)省略しています)

 これを見て気がつくのは、宋(北宋)の皇帝からの「国書」には、以前の「順明時」つまり「南朝劉宋」の「明帝」と「順帝」の時以降往来がなかったとしており、「北朝」系の「隋」「唐」を無視しているのはある意味当然として同じ南朝系の「斉」(南斉)「梁」の時代の将軍号授与を無視しているように見えるのが注目されます。これは「武」が「順帝」に遣使はしたのが「倭の五王」としての「遣使」の最後であることを示唆しています。
 実際に「武」の「遣使」の後「倭国」は「中国側」の資料に「朝貢記事」が見あたらなくなります。『南斉書』において「安東大将軍」から「鎮東大将軍」へと進号しているものの「朝貢記事」はありません。同じく南朝の「梁」の時代に「征東将軍」へというやや変則的な進号をしている(「百済」など夷蛮の国に対して行われている「特進」が見られない)ケースも同様です。
 つまり「武」の時代に「半島」における権益や「列島支配」の権威の根拠としての「称号」などを「南朝劉宋(順帝)」が認めなかったことで「倭国」からの朝貢が停止されたとみられるわけですが、そのような推測の正当性を「北宋」の皇帝が証明していることとなります。
 
 また「鳥羽院」の指示に対応して検討した「菅原在良」が「隋唐」以降の例だけを挙げて検討しており、このことから「南朝」に遣使していた時代の「倭の五王」が差し出しまた受け取っていたであろう国書がすでにアーカイブとして残っていなかったことが窺えます。「現王権」は明らかに「北朝系」ですから、そのような「前王権」(しかも遙か以前)のしかも外交に関わるものは何も残っていなかったとして不思議はないかもしれません。
 しかし「隋唐」以降と言いながら「唐」の「太宗」が派遣した「高表仁」が持参したはずの「国書」については全く言及されておらず、「不宣朝命而還」という『旧唐書』の記録が正確であることを示しているようです。このような場合、「国書」を「宣」する、つまり読み上げた後に渡す手はずであったものと思われるがそもそも「不宣」ということですから、「国書」を渡さずに帰国したこととなります。当然どのような文章であったか知るよしもないということでしょう。
 またこの事は『書紀』の記述に強い疑いが生ずることも避けられなくなることを示します。少なくとも『高表仁』の来の際の応対は『書紀』に書かれたようなものではなかったことが明らかとなったものといえそうです。

 更に「天智四年」の「劉徳高」の来訪に伴う「国書」についても言及がありません。この前年の「郭務悰」の来倭と持参した「書」については「百済鎮将」である「劉仁願」が発した使者であり、また「書」も同様に「唐皇帝」からのものではないとして「拒否」したことが同じ『善隣国宝記』に引用された『海外国記』に書かれており、これが「菅原在良」が言及していない理由であるなら首肯できるものです。しかし「劉徳高」の場合は『書紀』の記事では「唐国」が「遣わした」という表記があり、このことから彼が「国書」を持参したと見るのは当然であり、これについて書かれていないのは一見不審といえるでしょう。しかしこの時点ではまだ「倭国王」は「捕囚」となっていたと思われますから、宛先も「倭国王」とはできなかったはずですので(当然違う職掌の名称、たとえば「代理」というような)、倭国王権としては(これを継承した「新日本王権」としても)これを「恥辱」として、その「国書」を「門外不出」としていたという可能性が高いと思われ、そのため「例」として挙げられていないものと推量します。

 そして最も重要と思われるのが「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の存在です。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。『書紀』では「天智十年」に「劉仁願」の使者である「李守真」が上表しています。この時点で「天智」に対して何らかのメッセージが送られたと見られるわけです。

(六七一年)十年春正月己亥朔…
辛亥。百濟鎭將劉仁願遣李守眞等上表。

秋七月丙申朔丙午。唐人李守眞等。百濟使人等並罷歸。

 その後の動静を見ると、その3ヶ月後には「天智」は病を得、「大海人」は出家し、直後に「薩夜麻」が帰還しています。これらの推移から考えて「李守真」の書には「薩夜麻」の帰国に関する情報が書かれてあったのではなかったでしょうか。彼の帰国に反対の意思があるかどうか、「倭根子」としての帰還を歓迎するか問う内容ではなかったでしょうか。これに対し「天智」は受諾したものと思われ、それを承けて「薩夜麻」の帰国となったと考えられます。
 但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に何らかの記事の脱落があるように思います。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事がありません。
 「近江」遷都以降は「対馬」まで来ると知らせが来て上陸させるのかを検討した上で「京」(この場合「近江京」か)まで出向くよう指示するか、「筑紫」で対応するか決めるわけですが、この場合それらが全て脱落しています。しかし他の例からは「筑紫」での対応であっただろうと思われますが、「天武元年」の際には「筑紫」に彼等は滞在しており「大津の館」に「安置」とされていますから、それ以前に彼らがここから「近江」まで移動していたという可能性は低いと思われ、「李守真」も「筑紫」から動くことはなかっただろうと思われるわけです。
 この前後「百済」「新羅」などからの調使が来ていますが、たとえば「耽羅」からの使者(王子)は1週間の滞在で帰国しています。

(六六九年)八年春
三月己卯朔己丑(十一日)。耽羅遣王子久麻伎等貢獻。
丙申(十八日)。賜耽羅王五穀種。是日。王子久麻伎等罷歸。

 これは明らかに「筑紫」で饗応し、そこから帰国したことと知られます。同様に「李守真」もこの段階では「筑紫」から移動することはなかったと思われるわけです。

 さらに「天武元年」に「郭務悰」が国書を提出したという記事があります。

(六七二年)元年春三月壬辰朔己酉。遣内小七位阿曇連稻敷於筑紫。告天皇喪於郭務悰等。於是。郭務悰等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。
壬子。郭務悰等再拜進書凾與信物。
夏五月辛卯朔壬寅。以甲冑。弓矢賜郭務悰等。是日。賜郭務悰等物。總合■一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。
戊午。高麗遣前部富加抃等進調。
庚申。郭務悰等罷歸。
 
 『書紀』では巧妙に「李守真」がどこに来たのか、どこで「表」を提出したかが書いてありませんが、同様に「筑紫」においてであっただろうと思われます。
 その「李守真」が帰国した七月から四ヶ月ほど経過した同じ年の十一月に今度は「郭務悰」等が大挙して押し寄せたというわけです。この来倭は当然「李守真」の報告を踏まえたものと思われるわけであり、上表に対する「天智」の反応に応じたものであったと思われ、「薩夜麻」の帰国に反対しない意を表明したものと思われるわけです。

 やはり「郭務悰等」の来倭には「天智」自身が「筑紫」に出向く必要があったと思われます。それは「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における敗北という状況は、「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずであり、さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずであって、「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったと考えられます。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、その翌年のことである「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。この「国書」は急遽作ったものというより「天智」が退位するか、死を選ぶことを想定し次代の「倭国王」に対して「唐皇帝」の意志を伝えるためのものとして準備されていたと見るのが相当ではないでしょうか。
 「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす文面ではなかったかと思われるわけです。「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同傾向の内容であったという可能性も考えられるでしょう。
 これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。この「天智十年」という年次は「天智」が「近江朝廷」を開き「天皇」を自称し始めたという年次の翌年ですから、それと整合しているようにも見えます。そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志であったということ思われる訳です。

 ところで「天武」の場合「表函」の上書しか言及されておらず「国書」そのものは受け取らなかった可能性がありますが、それがどのような事情によるものだったかが問題です。
 「天智」退位の後は「捕囚」となっていた「倭国王」と思われる「筑紫君薩夜麻」が復帰する予定であったと見るわけですが、すぐにそれが実現できたかどうかが問題です。やはり「唐」の意向を含んだ王権の成立を拒否する人達も数多くいたことは間違いないものと思われ、それが「壬申の乱」という内乱として現実のものとなったということではないでしょうか。
 表函が開けられ、国書を受け取るという儀典の中に「唐」との関係がより従属的になることは避けられず、それでは国内に対する指導力を発揮できないという問題があることを「薩夜麻」がよく知っていたとすると容易に「表函」は開けられなかったであろう事が推測され、そのような葛藤の中に「薩夜麻」の苦悩も見え隠れするように思われます。


(この項の作成日 2018/04/01、最終更新 2018/04/01)