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「天智」の即位の事情


 彼(天智)はこの「序文」の中にもあるように、「帝紀及本辭」を書き換えようとした模様です。
 この『古事記』序文の中にある「削偽定実」の話は、そもそも不審です。「諸家」に「帝紀」があるという事も奇妙な話といえるでしょう。文の趣旨としても「諸家の所有する帝紀」が「正実」ではない、と言っているわけですが、もしそれが「正実」と違っていたところで「天皇家」にある「帝紀」が「正実」であると言えば良いだけのはずです。しかし、ここでは各氏族が個別に所有している「帝紀」を照らし合わせて「正統を伝えている」と認定されるものを選びだそうとしているようです。なぜそうしようとしているか、というとこの時の「天智」(「近江(淡海)大津宮御宇天皇」)の下には「帝紀」がなかったからであり、それは彼が「初代王」だからであると考えるのが相当と思われるわけです。
 彼は「革命」を起こしたわけですが、当時の「倭国」ではまだまだ「大義名分」というものが「統治」の際の大きなウェイトを占めていたと考えられ、「初代」であることは逆に「統治」の障害となる可能性が高く、このため「初代王」であることを「隠そう」としたもののようです。そのため、「制圧」した領域である「近畿」の地に以前から勢力を張っていた「近畿王権」の系譜に連なろうとしたものでしょう。

 古田氏が指摘したように「唐」の永徽年間に「長孫無忌」が「太宗」に上表した『五経正義』の「序」と『古事記』の「序」は「酷似」しています。(このことから少なくともこの「序」そのものは「永徽年間」以降に書かれたことが推察できます)
 『五経正義』の場合は「焚書坑儒」により多数の「書」が失われたとされているのに対して、『古事記』の場合は「天智」が「初代王」であるがために「連綿」として継続した「帝紀」などが「自家」にあるはずがないという事態が想定され、そのため「諸家」の所有する書(「家伝の書」であったものでしょう。)を集め、その中から「適当」なストーリーを選び出し、それを新たな「帝紀及本辭」として選定し、それを「稗田阿礼」が読み下し記憶したものと考えられます。
 当然「近畿王権」の系譜は「推古」までしかないわけであり、それは「阿毎多利思北孤」の改革により「近畿王権」の支配領域も含め各地に「広域行政体」が置かれ、その「長」として「国宰」が任命され(たぶん倭国中央から派遣された人物がそれに充てられたと考えられます)、そのことにより「諸国」の「王」による「支配体制」が崩壊したことが根底にあり、「前方後円墳」で行なわれていた「王」の交替儀式などもできなくなったものと思料されます。そのため「王紀」(諸国の王の年譜のようなもの)の記載も中断せざるを得なくなったものと思料され、結果としてそれらは「古文書」と化する事態となったものでしょう。これら「近畿王権勢力」の各家に伝わる「家伝」に対して「読み下す」よう「稗田阿礼」に対して命じたものです。

「時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心」

 「森博達氏」の議論から推察して、すでに「倭国王権」により「持統朝」時代に『日本紀』(『日本書紀』の原型)の原型と言えるものが書かれていたと考えられるわけですが、これはあくまでも「倭国王朝」のものであったため、「八世紀」の「近畿王権」としては全面的に自分たちの「近畿王権」の年譜に書き換える必要があったものです。
 『推古紀』までの「近畿王権」の「年譜」が入手できれば、それ以降については「倭国資料」から「借用」して、接続、盗用することにより、穴埋めが可能となります。
 また、「帝紀」(帝王日継)と並んで「旧辞」(本辞)を対象としていますが、中国の例でも「先代」あるいは「旧辞」とは、自分たちの王朝ではなく「先朝」の王についてのものを指すものですから、ここでは自分たちの「革命」によって打倒された「先朝」の中の有徳であったり勇猛であったりするような「王」についての記録を示すと考えられます。それらを自分たちの歴史に無理に「接着」させ、「新しい」歴史書を造ろうとしたのでしょう。そのために、「天武朝」(浄御原朝)が終わった後、あらためて、「史書」編纂事業が始められ、まだ「存命」していた「稗田阿礼」に、記憶していたものを思い出させて読ませ、それを書き写したものが『古事記』であると考えられます。そして、その「序」で「太安万侶」が「天智」を賞賛する文章を書いたものです。
 このように「史書」編纂着手が長引いたのはもちろん、「東国」にその支援母体があった「天智」が始祖となった「近江朝廷」が、「壬申の乱」といういわば「反革命」により「滅亡」したため、その機会がなかったという「やむを得ない事情」によるものと思われます。
 それは「上」に挙げた「序文」の末尾に以下にのように「言葉少な」に書かれているところからも察せられるものです。

「然運移世異 未行其事矣」

 ここでは「理由」も何も示されず、ただ、「まだ行われていない」とだけ述べられています。あえてその「理由」とか「事情」について触れないのは、書くに忍びない事情があったものであり、そのことを巧まずして表現しているようです。

 「天智」が王朝を創始したことを『書紀』が明確に書いていないのは、このように「大義名分」の問題があるからであると思われます。「新日本国王権」の彼らは「持統」、つまり「倭国王」からの「禅譲」を「装って」居ますから、「天智」が「革命」を起こした人物であるとすると代々の「倭国王」が持っていた「大義名分」が「文武」以降の「新日本国」王朝には「ない」と言うことになってしまいますから、明確に書くわけにはいかなかったものと思料します。
 しかし、この『古事記』にはそれが「明確」に書いてあったのです。このことが『古事記』を歴史から消え去る原因ないしは動機となったものと考えられます。
 それは「唐」に対する遠慮であり「恐怖」です。つまり、「天智」は前倭国王が「宣諭」に対して屈服したものを「否定」して「革命」を起こしたものであり、それは「隋」「唐」という中国皇帝の権威に対する挑戦以外の何者でもないわけですから、そのような「人物」を「八世紀」日本国王朝が「皇祖」として戴いていることが露骨に書かれているような「史書」は「唐」に見せるわけにはいかなかったと言うことではないでしょうか。

 当時の関係者には、「序文」を見るとそこに「天智」が「書かれている」とすぐに分かったものと思われ、それは「対唐」という観点で考えると非常に「不都合」な事であったものと思料されます。
 『古事記』の「本文」は「万葉仮名」つまり「日本語」であるわけですが、「序文」は「漢文」であり、この部分は「唐」の人間でも「読解」が可能であるため、彼等に見せるわけには行かないと考えたものでしょう。このため後に編纂された『書紀』からは「天智」が明確に「革命」を起こしたとは判定できないように、「その部分」が抹消されてしまい、代わって、その「天智」を継承した「大友」が滅ぼされる戦いがあり、それを継承したのが現在の政権であるという「虚偽」を書いて「唐」に対する顔向けができるようにしたものと考えられます。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2016/08/21)