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「天智」即位の年次


 『古事記』序文にはその主人公たる人物の「即位」の年月として「酉年の二月」と書かれていますが、従来はこれを「天武」と考えて「六七三年」と見ていたわけです。しかしこの「序」が「元明」に宛てた「上表文」であるとすると、「西村氏」が言うように「虚偽」を書くことは許されないと考えられ、であれば「酉年の二月」という即位年月は動かせないこととなります。つまり、疑わしいのは『書紀』に書かれた「天智」の即位年と遷都の時期であると言うこととなるでしょう。
 「評制」隠蔽などで明らかになったように、『書紀』の記載が事実そのままではないことは明らかとなっていますから、この場合も『古事記』序文の方が正しいという可能性があります。そもそも『古事記』の方が編纂時期としては「先行」していたと考えられますので、『書紀』を基準として『古事記』を見るという「方法論」自体に問題があるとも言えます。そうであれば『古事記』が『推古記』までしかないということが重要となってきます。
 そう考えると、『古事記』の内容が『序文』に書かれたことと全く別であるとすると不審の極みではないでしょうか。従来の読解では「序文」では「天武」(あるいは「文武」)が書かれているとし、本文では「推古」までとみるわけですから、時間的空隙がかなりあることとなります。これを整合的に考えるとはすると、必然的に「天智」の即位の年次(時代)として「推古」の次代を想定する必要があることとなります。

 ところで「推古」の時代がいつまで続いたかですが、すでに見たように『伊豫三島縁起』によれば、「辛丑」とされる「〔車+専〕願元年」記事が「推古」の条に書かれています。これは「舒明」の末年であり、また「皇極」の初年でもあります。つまり「推古」からいきなり「孝徳」へとつながるように書かれていますが、これは非常に示唆的です。
 ここにさらにもう一つの問題があります。古賀氏の研究によって「推古紀」に書かれた「観勒」の上表記事が「干支二巡」遡上する可能性が指摘されており、この事は一般論として「推古紀」全体につながる性格を感じるものであり、「推古紀」全体として「干支二巡」遡上すると見ることもできるでしょう。そう考えると、『古事記』は「磐井」の前代まで書かれていると見ることもできそうであり、それ以降「物部」がいわば「僭帝」として存在していた時期があったことと関連しているように見えます。

 『書紀』ではそれ以降「継体」から始まる歴史が語られており、この部分に「断絶」があることは既に指摘されています。つまりこれらのことから「天智」(近江大津宮御宇天皇)の即位の時点を「七世紀」の半ばとすると遅すぎると思われます。そのことから『推古紀』の後に入る『舒明紀』と『皇極紀』がいわば「挿入」されたものであり(これ実際の歴史ではなかったという可能性が考えられるでしょう。(これについてはすでに述べました)つまり「天智」の即位の時期としては実際には「七世紀初頭」が想定できるものであり、そのような行動の要因となったものは「宣諭事件」ではなかったかと思われるわけです。

 すでに述べたように「倭国」は「隋」の皇帝(高祖)に対して「天子」を自称するという外交上のミスを犯し、その結果「隋」から「敵対国」のレッテルを貼られ「宣諭」されると共に「琉球」を侵攻されるという軍事的威嚇を受けました。これは「倭国王」が謝罪することにより不問に付されたと見られますが、この事件の後「倭国」内ではかなりの波紋が広がったものと推量されます。
 「大国」であり、そのゆえに友好を求めていたはずの「隋」からいわば「危険思想」の持ち主として「宣諭」されてしまったわけです。「倭国」としては不承不承この「宣諭」を受け入れ、謝罪することとなったものと推量されますが、そのような屈辱的な事態に立ち至ったとすると、その責任を問う声が上がったとして不思議はありません。
 「天子」を自称した「国書」を執筆した当の本人(これは王の側近の学者と思われます)はもちろん、それを承認した「倭国王」自体の責任を問う情勢もあったのではないでしょうか。当時は「倭国王」はその弟王と共に統治とを行っていたものと思われ、共に責任を問われたという可能性もあるでしょう。その結果彼等は揃ってその「責任」を取り「退位」したということも考えられますが、その場合その後当然のように後継争いが起きたものと見られます。
 このような事情で退位したとすると、その後継者については正常な皇位継承が実現されたとは考えられませんから、「倭国王」の「皇子」や「兄弟」ではない誰かが実権を掌握したと言うことがあり得るでしょう。「序文」を見る限りそれには「武力」が主役であったものであり、その場合彼は国内の軍事・警察力とそれ以前から関係が深かったという可能性が高いでしょう。そうでなければ「クーデター」は成功しませんし「革命」などできなかったでしょう。(今でもクーデターが起きた場合その主役はたいてい軍人です)
 彼らは当然それ以前から隠然と反対勢力を形成していたものと思われます。そしてこの「隋」による「宣諭」という事態を好機ととらえ反乱を起こすことに成功したものではなかったでしょうか。(その意味で何らかの形で「東国」の勢力と関係があったと見る事もできるでしょう。「東国」はこの時点付近で新たに勢力に入れられた地域と思われ、東国の権力者達はそれを嬉々として受け入れたものではなかっただろうと思われるからです。)
 その彼が『古事記』を書かせたとすると、その『古事記』に「推古」までしか書かれていないとして不思議ではないこととなります。なぜならそこで革命が起きたものであり、それ以前の王権とは隔絶している可能性が高いからです。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2018/01/03)