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「天智」と「新羅」の関係


 『書紀』などで「天智」が「百済」系であるように書かれているように見えますが、これは「百済を救う役」に「親征」した「倭国王」である「薩夜麻」についてものを「天智」のものとして記述しているためであり、「天智」自身は「親新羅系」の人物であったと推察されます。そう考えるいくつかの「徴証」があります。

 以下の『続日本紀』の記録で分かるように「新羅使」は「八世紀新日本国王朝」の「元旦儀礼」に参加しているようです。その際に持参した朝貢の品を「伊勢神宮」など「諸社」や「持統」の「陵(墓)」と思われる「大内山陵」に「奉納」するなどしています。

「(文武)二年(六九八年)春正月壬戌朔。天皇御大極殿受朝。文武百寮及新羅朝貢使拜賀。其儀如常。
戊寅。供新羅貢物于諸社。
庚辰。獻新羅貢物于大内山陵。」

「(慶雲)三年(七〇六年)春正月丙子朔。天皇御大極殿受朝。新羅使金儒吉等在列。朝廷儀衛有異於常。
戊午。奉新羅調於伊勢太神宮及七道諸社。」

「靈龜元年(七一五年)春正月(中略)己亥。宴百寮主典以上並新羅使金元靜等于中門。奏諸方樂。宴訖。賜祿有差。」

 これらのことは「八世紀」の「新日本国」王朝にとって、いかに「新羅」との関係が重要であるかを如実に示すものです。その彼らが「権威」の根拠としている「天智」という人物が「百済」系であるはずがないとも言えます。 

 また「天智」は「東国」に支援勢力があったと考えられるわけですが、「東国」は「利歌彌多仏利」の時代に行なわれた「改革」の際に「惣領」として「高向臣」と「中臣幡織部連」が派遣され、「倭国王権」の統治の第一線で活躍したものです。
 彼等はこの時点以降「東国」に対する「指導力」が強くなったものと考えられますが、また彼等は「新羅系」の氏族であったものとも考えられます。
 同じ「高向氏」である「高向玄理」はすでに見たように「遣唐使」として「新羅経由」で派遣されていることなど、「新羅」に縁の深い氏族であったと考えられますし、「中臣幡織部連」は「関東」に伝わる「羊大夫」伝説によれば「物部守屋」が滅ぼされた際に、彼に加担した罪により「関東」に流されたとされる人物として「中臣羽鳥連」がいるとされ、これと同一人物(或いはその子孫)ではないかと考えられるものですが、その「守屋」など「物部氏」自体が「親新羅勢力」であったと考えられ、彼と行動を共にした「中臣氏」も「新羅」と関係の深い氏族であったものと考えられるでしょう。
 古賀氏も指摘したように「高良」信仰の中では「物部」が祭神とされていたように思われますが、「高良」は「宇佐」と深い関係があるとされ、その「宇佐」はその地域の特性として「新羅」系の人々による「道教」的信仰にそのベースをおいていたものとみられますから、それは結局「物部」という氏族の性格として「新新羅系」であることは疑いないところであり、「仏教」導入に対し対抗的勢力を為す要因となっていたことが窺えます。

 彼等が「関東」に派遣された(流された)理由の一つは、もちろん「ペナルティー」の意味もあると思われますが、より重要な意味としては「新羅系」の渡来人などが多かった「関東地域」に対する影響力を強化することを目的としていたものと思料します。
 関東にはそれ以前から「新羅系」を始めとする渡来人のコミュニティが各地にあったように見受けられ、彼等を「倭国王権」に組み入れていくことが必要であったものです。そのために同じ「新羅系氏族」を起用するという政策が行われたものと考えられます。
 また、そのような中に「秦氏族」もいたものと思われ、『書紀』などで「聖徳太子」のブレーンであったとされる「秦河勝」がその代表的人物ですが、「聖徳太子」が「利歌彌多仏利」の投影とでも云うべき存在である事を考えると、この「秦氏」もまた「利歌彌多仏利」に深く関わる「氏族」(人物)であると思われます。
 この『古事記』とその「序文」を書いたとされる「太安万侶」の「太氏」についても「秦氏」と深い関係があることが種々の研究により指摘されており、「太氏」自体が「新羅」に深く関係していたものと考えられるものであり、彼がこれを執筆、編纂している理由もそこにあるものと考えられるものです。
 彼ら「秦氏」とその関係氏族は「九州」では「豊」(「宇佐」)に本拠がある氏族と考えられ、この「宇佐」地域は「新羅系」氏族の痕跡が深く、また彼等の信仰についても「新羅系」の傾向が色濃い地域とされています。
 「宗像三女神」信仰も「宇佐八幡信仰」の一部として信仰されていたものであり、これもまた「新羅系」の信仰が土台にあるものと思料されます。

 これらの「利歌彌多仏利」に関する人物や環境などに「新羅」の関連や影響が考えられるものであり、「天智」はこのような、以前から「東国」に存在し、影響力があった「新羅系」氏族などからの支持を取り付け、「革命」を起こすために立ち上がったものと考えます。
 またそのためには「古代官道」の整備が重要な役割をしていたと考えられ、「難波京」整備と並行して、難波から「東国」へ伸びる「官道」(特に「東海道」)の整備(拡幅と延伸)が相前後してほぼ完成し、これは「倭国中央」の支配力強化のために整備された「軍用道路」であったと思われますが、これを利用して「逆」に「東国」から「副都難波」へ侵攻することが可能となったものと考えられます。

 この「革命」時点では「西国」の主要な勢力は「隋」の脅威に対抗するため「筑紫」周辺に展開していたものと思われ、「東国」勢力の侵攻を止めるものは何もなかったと思われます。このため、この「革命」は短期間の内に「成功」を治めることとなったものです。(それは『古事記』序文では「十二日以内」と書かれています)
 「天智」はその様な不安定さを利用して、「軍事クーデター」を起こしたものであり、それは見事に成功したのです。


(この項の作成日 2012/4/19、最終更新 2015/03/13)