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「天智」の即位の場所


 すでに述べたように、「八世紀」の「新日本王権」にとって「先帝」といえるのが「天智」とされる「近江(淡海)大津宮御宇天皇」であったものであり、彼が『古事記序文』の「主人公」であるという可能性が高いわけですが、そうするとそこに書かれた「即位」の「年次」と「場所」についての理解は、大きく変更を余儀なくさせられるものと思われます。つまり『書紀』によれば、「天智」の「近江遷都」は「六六七年三月」であり、「即位」はその翌年の「六六八年正月」とされていて、これは『序文』の「主人公」を「天智」と考えることと大きく矛盾することとなるわけですが、この『書紀』に書かれた「天智」の「即位」に至る道筋には従来から「不審」が呈されています。

 『書紀』では「六六一年七月」という時点に「称制」という「倭国」ではそれまでなかった体制でスタートしています。そして、それが「六六八年」になって「正式即位」とされているわけです。
 このような変則的スケジュールが不審であるのは当然であり、従来から、この「天智」の「即位」や「遷都」の年次については種々の解釈がされてきました。代表的なものでは「斉明」と「間人」の服喪期間がそれぞれ三年間ずつあったためであるというものがありますが、この時代の服喪期間は既にかなり短縮されていたものと考えられ、たとえば「孝徳」の場合などは「一ヶ月程度」であったと見られますから、いかにも「三年」は長いと考えられます。
 『隋書俀国伝』によれば「貴人の場合」は「三年間」の「殯」の期間があったとされていますが、その後「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」により「薄葬令」が出されたと見られ、これにより「前方後円墳」の築造が停止されることとなったと考えられますが、それに伴い「殯」の期間の「大幅な」短縮が図られたものと思料されます。このような経緯を考えるとそれ以降の時点で「三年間」という「服喪期間」があったとは考えられないこととなります。

 そもそも「称制」とは、その「本義」として「後継」たる人物がいないか「幼少」ないしは「未成年」であるようなときに「皇太后」が代理で「国事」を遂行することであり、『書紀』に伝えられる「天智」(「中大兄」)の年齢(四十歳前後か)で、しかも「皇太子」たる「本人」が「称制」するというのは、そのことが既に「矛盾」と言えるものです。(そのような先例が古代中国には見られません)
 この点に関しては、この「称制」が「我が国」独自のものであるというような説明がされることがあります。たとえば「大系」の「注」を見てみると「中国では本来、天子が幼少のとき、皇太后が代わって政令を行う事を意味する言葉であったが、日本においては天智天皇が斉明天皇の崩後に称制して、七年正月初めて即位し、天武天皇の崩後、持統天皇が「臨朝称制」し、四年正月にいたって即位したことで知られるように、先帝が崩じた後、新帝がいまだ即位の儀を行わずに執政することを称制といった」と説明されています。しかし、この「注」は甚だしく「自己矛盾的」説明であり、「称制」の説明文の中にその「称制」という単語が現れるなど、「恣意的」であり、また「混乱した論理」が使用されています。『天智紀』の使用例の典拠を説明するのに、当の『天智紀』の文が使用例として出るというのは不審極まるものです。このような場合、その使用例の説明などは「他の例」から帰納されるべきものであり、他に例がなければ「本来の意義」に基づき解釈するというのが正当な方法であると思われますが、その様な「原則」から外れているのが「大系」の「注」であり、またそのような解釈しか提示できないところに限界があると思われます。

 また「遷都」についても、彼が「倭国王」であるなら、対唐・対新羅という戦いの前に、まず「国土防衛」の体制を固めるような策を実施すると考えられ、戦いが終わった後に「遷都」という『書紀』の記述は「戦略上」あり得ないものでしょう。
 これに関しては「二〇一一年」に発見された『百済禰軍墓誌』(ただし「拓本」)に書かれた記事とも矛盾すると言えます。そこでは「百済」が滅ぼされた戦いの「直後」に「接して」「日本余礁」以下の文が続き、その中には「扶桑」という「想像上の『東方の果て』の地」に隠れているという意味の文章があり、この部分が当時の「倭国」を示す記述と見るのが相当と思われますから、「遷都」はかなり早い段階で行われていたと考えられる事を示すものです。「序文」の中でも「清原大宮 昇即天位」と書かれているように、「清原大宮」は「即位」の場所であっても「統治」の場所であったというわけではありません。

 この部分の文章の始めには「飛鳥清原大宮御大八洲天皇」というようにその段階での「倭国王」(これは「天智」ではない)が「清原大宮」で統治したとされているわけですが、この事から「天智」も当初「清原大宮」ないしはその至近に「所在」していたものと考えられ、「華夏」というのも「清原大宮」であると考えるのが通常です。
 また、ここでいう「飛鳥清原大宮」とは、いわゆる「飛鳥浄御原宮」を指すと考えられますが、この「飛鳥浄御原宮」については『天武紀』の「壬申の乱」の直後の記事に出てくるのが初出です。

「天武天皇元年(六七二年)是歳。營宮室於崗本宮南。即冬遷以居。焉是謂飛鳥淨御原宮。」

さらにこの「宮」で「年が明けた冬二月」に「飛鳥淨御原宮」で即位したように書かれています。

「天武天皇二年(六七三)二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浄御原宮。(以下略)」

 これが正しいとすると、『古事記序文』の主人公を「天智」と考える事と「齟齬」する事となりますが、しかし、このような「宮殿」を「壬申の乱」の終結後に造営するのはかなり困難なのではないでしょうか。
 「正木氏」の研究(※)にもあるように、この「飛鳥浄御原宮」は単なる「仮宮」ではないと考えられ、『序文』の中でも「清原大宮」という表現がされているように、かなり「大規模」なものであったと思料されます。しかし、下に見るように『書紀』によれば「壬申の乱」の終結が「八月」の末であり、「九月」に入ってから「帰途」に着いています。

「八月庚申朔甲申(二十五日)。命高市皇子宣近江群臣犯状。則重罪八人坐極刑。仍斬右大臣中臣連金於淺井田根。是日。左大臣蘇我臣赤兄。大納言巨勢臣比等及子孫并中臣連金之子。蘇我臣果安之子悉配流。以餘悉赦之。先是。尾張國司守少子部連鋤鈎匿山自死之。天皇曰。鋤鈎有功者也。無罪何自死。其有隱謀歟。
丙戌(二十八日)。恩勅諸有功勳者而顯寵賞。
九月己丑朔丙申(八日)。車駕還宿伊勢桑名。」

 この時点から造営を開始して「年内」に「大規模」な「宮」を完成して「遷居」するなどということが可能であったとは思われません。このことは「壬申の乱」の以前から「飛鳥浄御原宮」が存在していたと言う事を推定させるものです。
 「天智」は「近江」に「宮」を築いていたものであり、「飛鳥浄御原宮」というものが「天智」の「主たる統治場所」でなかったことは確かですし、「近江遷都」した以降に築かれたと言う事も考えられませんから、「近江遷都」以前から「飛鳥浄御原宮」は存在していたと考えられることになりますが、そうなるとこの『古事記序文』に書かれた内容にまさにに整合することとなります。つまり、「天智」即位以前から「飛鳥浄御原宮」は存在していたことになるわけであり、そうであれば「序文」中の「飛鳥清原大宮御大八洲天皇御世」というものは「天智」の「前の時代」を指す言葉と考えることが可能となり、実年代としては「六六〇年」以前を指すと考えられることとなります。
 またそのように「天智」以前から統治の場所であったと見るべきことから必然的に、「飛鳥清原大宮」とは「筑紫」に所在していたと見るべきこととなるでしょう。

 そもそも「天智」の本拠としては「肥」であったと考えられ、「夜水」や「南山」とは本来「肥」の「川」や「山」を指すと考えられます。
 雨などで増水するなど氾濫原となるのはもっぱら下流地域であり、「板東太郎」「筑紫次郎」「四国三郎」という本来の「倭国」領域内(天領)での三大「暴れ川」のひとつとして古代から知られていたと考えられる「筑後川」においても、主に「下流域」での氾濫であったと考えられ、「浮羽」を過ぎて「久留米」以降においてかなりの蛇行を示していたらしく、現在の「市」の境界線にもそれが如実に表れています。このため「集中豪雨」などあると「一夜」で「状況が一変する」こととなったものと考えられ、それがために「一夜川」と名付けられたと推測され、「漢文」修辞のためここでは「夜水」と替えられて文章の中に登場したものと考えられます。
 また、ここで「筑後川」の別名のうち特に「一夜川」から取っているのは、「開『夢』歌」の「夢」という言葉の連想から「夜」という単語が「対句」として選ばれたという事情であると推量します。(そもそも「筑後川」というのが「別名」であり、一番古い資料に確認できるのは「千歳川」(千年川)というものです。)
 この川が存在する「筑後」の領域は本来「肥」の領域であったものであり、「遷都」に伴う「筑紫」の拡大という事態になった際にいわば「割譲」されたものと思われます。
 また「南山」は『風土記』の「筑紫君磐井」の段でも登場する「南山」と同じと考えられ、その場合少なくとも「豊前」の南方の山々と考えられますので、明らかに「九州島」の内部の話であることとなります。
 この「南山」などの用語も「本来」の「肥」の領域に関連した地名であると考えるのは不自然ではありません。(この『古事記』序文が呈された「元明」は「天智」の娘なのですからそれを十分知っていたはずです。)
 このように「天智」は当時の王権が「筑紫」にあった時点では「肥」に隠然として存在していたものであり、その後王権の不安定さにつけ込み行動を起こしたものと思われる訳です。彼は既に関係を持っていた「東国」の兵力を率いて「筑紫」を制圧したものであり、彼はこの「東国」からの「凱旋帰国後」(直後か)「近江」への遷都と言うこととなったものと思料され、それが「酉年二月」、つまり「六六一年二月」であったという事と思料します。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2015/02/07)