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受命と漏刻および改暦


 すでに見たように『令義解』(『大宝令』の注釈書) には「宮廷の開門時刻」について「鐘を鳴らして合図すること」と規定しており、その鐘については『延喜式』に詳細が記されています。その詳細を記した中に「日の出」「日の入」の時刻が各季節ごとに書かれているのですが、それらのデータが示す場所は北緯三十三度地点のものであり、「肥後」がその場所として最有力であることが明らかとなっています。
 そして、この「日の出」「日の入」などの時刻を記録するために使用されていたのが「漏刻」(水時計)でした。『書紀』によれば「天智」はこれを使用し時刻を把握して鐘を鳴らしていたとされます。

「(斉明)六年(六六〇年)…夏五月…是月。有司奉勅造一百高座。一百衲袈裟。設仁王般若之會。又皇太子初造漏尅。使民知時。」

「(天智)十年(六七一年)…夏四月丁卯朔辛卯。置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也。云々。」

 このように「天智」の時代の事として「漏刻」の設置と使用が書かれていますが、この「漏刻」の使用の最初は「肥後」にまだ本拠のあった「倭の五王」時代まで遡上すると考えられます。
 この『令集解』に書かれた「古暦」については、『延喜式』制定当時当時使用されていた「儀鳳暦」の「一日百刻法」と食い違う内容になっていると思われ、それは「増田氏」も言うように『大宝令』以前の状態を示しているのではないかと思われます。

 以上のことから「天智」により「漏刻」が使用開始されるとともに「改暦」が行われ「四分暦」様の暦(四十八刻法)が使用し始められたと推定されます。通常「改暦」は「受命改制」の一環であったと見ることができるものであり、そのことから「天智」に「天命」を受けた(受命)意識があった事を示すものと考えられます。
 「受命改制」とは本来「天命」を受けたとする人物や王朝において、その「受命」の明示に始まり、「改暦」「国号変更」「制度改正」などが行なわれることを言います。
 『書紀』によれば『天智紀』において、「幾種類」かの「瑞祥」を並べた後で「天命将に及ぶか」という一文が記載されており、これは間違いなく「受命」の「明示」といえるものです。ただし、通常この部分の訓読は「御命終わりなむとするか」とされており、『大系』の注では「中国で王朝交代の意」としていますが、これは単なる「王朝交代」ではなく「革命」により「天命」が下りたことを示す意義があることを軽視しています。

「天智七年(六六八年)秋七月。于時近江國講武。又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至。又饗夷。又命舍人等爲宴於所々。時人曰。天皇『天命將及乎』。」

 ここに出てくる「天命將及」は「隋」の高祖(文帝)に同様の使用例があります。

「…高祖嘗言及作相時事,因愍安兄弟滅親奉國,乃下詔曰:「先王立教,以義斷恩,割親愛之情,盡事君之道,用能弘奬大節,體此至公。往者周?既窮,『天命將及』,朕登庸惟始,王業初基,承此澆季,實繁姦?。…」(『隋書/列傳 卷五十 列傳第十五/李安』より )

 この使用例は「楊堅」が「皇帝」として即位する際の文言ですから、『書紀』のこの『天智紀』記事もこれを下敷きにして書かれていると思われ、「天智」の「受命」による即位を示したものと理解すべきでしょう。「楊堅」は前王朝において「皇帝」の位に当然つくべき位置にはいませんでした。皇太子でもなければその兄弟でもなかったものです。彼が「皇帝」の位についたということは「革命」が起きたことにほかならず、それを下敷きにした『書紀』においても、明確に「革命」による王朝が出現したことが書かれていると理解すべきであり、そのことについて『書紀』編纂者は何ら隠していないこととなります。


(※1)斉藤国治「『延喜式』にのる日出・日入、宮門開閉時刻の検証」(『日本歴史』五三三号、一九九二年)
(※2)増田修「倭国の暦法と時刻制度」(『市民の古代』第16集、一九九四年)


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2018/03/11)