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「高市皇子」への挽歌と「古事記序文」


 『万葉集』に「柿本人麻呂」が作ったとされる「高市皇子」への「挽歌」があります。

「万葉百九十九番歌」

「かけまくも ゆゆしきかも [一云 ゆゆしけれども] 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ [一云 掃ひたまひて] 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと [一云 掃へと] 皇子ながら 任したまへば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も [一云 笛の音は] 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに [一云 聞き惑ふまで] ささげたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の [一云 冬こもり 春野焼く火の] 風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に [一云 木綿の林] つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く [一云 諸人の 見惑ふまでに] 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ [一云 霰なす そちより来れば] まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに [一云 朝霜の 消なば消とふに うつせみと 争ふはしに] 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと [一云 かくしもあらむと] 木綿花の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を [一云 刺す竹の 皇子の御門を] 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども」

 この「挽歌」の中に書かれた描写は従来「壬申の乱」を示しその中で「高市皇子」が活躍したことが書かれていると理解されてきましたが、古田武彦氏の研究により、ここに描写された内容は「壬申の乱」ではないと理解するべき事が明白となりました。
 古田氏や正木氏の「論」で示されたように、確かにこの歌の中では、この「戦い」が「冬」に行われたことを示すことが書かれていると判断されます。たとえば「冬こもり 春さり来れば」、「み雪降る 冬の林に」、「大雪の 乱れて来れ」、「露霜の 消なば消ぬべく」などの数々の(比喩)表現が使用されていますが、いずれも「冬」という時期に限定されるものばかりであり、これは実際にその戦闘の行なわれた時期が「冬」であるからこそ「リアル」な意味を持って迫ってくるものと思われるものです。
 しかし前述したように、『書紀』の「壬申の乱」の記事は「(旧暦)七月」に行われたこととなっており、上記「挽歌」の示す時期と「齟齬」しています。つまり、「吉野」を脱出したのが「六月辛酉朔甲申」であり「大友皇子」の首が検分されて戦いがおよそ終了したのが「七月庚寅朔乙卯」となっています。このように主要な戦いが「七月」に行われたのにも関わらず、「挽歌」には「冬」の戦いであることを「暗示」するものしか書かれていないことは、はなはだ不審であるわけです。

 また、「挽歌」の中には「東の国の 御いくさを 召したまひて」とありますが、「壬申の乱」の「大海人」側の主要な勢力は「西」に偏しているように見えます。
 「反近江朝廷」側の構成を見てみると「高市皇子」がおり(彼は「宗像の君」の「孫」に当たるわけであり、その「宗像」は「筑紫」の氏族です)「大分の君」、「筑紫太宰」という肩書きの「栗隈王」、彼の息子という「美濃(三野)の君」、さらに、「吉備太宰」という肩書きの「当摩の君」があり、「伊勢国司」という「三宅連」、他にも「上毛野君」、「丹比君」、「対馬国守」、「難波吉士」、「出雲臣」、「三輪君」、「紀臣」というように「東国」もその範囲に含んではいるものの、多くが「九州」から「瀬戸内」、「近畿」などの領域であり、これに「宗像氏」と友好関係にある「阿曇勢力」も加わったであろう事を推察すると、ほぼ「近畿」以西の勢力であったと考えられます。しかも、『書紀』の「壬申の乱」記事中には「東」からの勢力を「遮断」している記事があり、それらを見ると「大海人側」は「東国」に「強大」な勢力があったわけではないことが窺えます。つまり、彼は「不破道を塞ぐ」ように指示を出しているわけですが、この「不破道」は「東海道」と「東山道」の集合点であり、ここを止めることで「東国」からの援軍を阻止しようとしていたと考えられます。このことから「東国」に勢力があったのは「逆に」「近江朝廷」側だったと思料されるものです。
 彼等(大海人側)に対する援軍としては「信州」の勢力が加わった可能性が高いものの、「広範」な「東国」勢力がこれに加わったと言うようには見えません。
 (「信州」が応援に来たのは、「高市皇子」の母方である「宗像氏」との関連が考えられるものです。「諏訪氏族」も「建御名方神」を信奉していたと考えられ、「宗像氏」と浅くない関係があったためと思料されます。)
 このような事から考えて、この「高市皇子」への「挽歌」で示されたことは、確かに「壬申の乱」を示したものではないと考えられ、その点については「古田氏」「正木氏」の意見に同意します。しかし、両氏の研究などでは、この戦いの描写は「白村江の戦い」など「半島」での戦闘の様子を描写したもの、とされているようです。
 確かに『旧唐書』などの資料から判断すると「百済を救う役」というのが「冬」に行われたことは間違いないと思われます。その意味では上記の「挽歌」と重なるものです。しかし、この「挽歌」の中に書かれた「戦い」を「百済国内」の出来事とするには「地名」に特定性が著しく欠けると考えられます。

 地名として出てくるのは「度会」「埴安」「御門の原」「百済の原」「香具山」です。このうち「百済」と関係がありそうなのは「百済の原」ですが、これは、後半部分の「賓宮」の地であり、戦いの場所ではないと考えられます。また、その名称からも「百済の原」については「百済」の地ではないと考えられるものです。つまり、「百済」の地において「百済の原」という地名に何らかの「特定性」があるとはとても考えられないからです。「百済」にはそれなりの「固有」の地名などが当然あるわけであり、「百済国内」で「賓宮」が営まれたとしたらその地名がここに表現されて然るべきと考えられ、このように「抽象的」地名しか出てこないと言うことは、この場所が「百済」以外の土地にあってこそ「特定性」が発揮されるものであり、これは「倭国」の内部に求めるべきものであると考えられるものです。

 また「東の国の 御いくさ」という表現に対する理解も「不審」なものとなります。実際に「百済を救う役」として派遣された戦力が「東の国」から徴集された勢力が主体であったと言うことは『書紀』では窺えません。
 『書紀』による「百済」への軍派遣記事は以下の通りです。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。」

「(天智称制)二年(六六三年)三月。遣前將軍上毛野君稚子。間人連大盖。中將軍巨勢神前臣譯語。三輪君根麻呂。後將軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二萬七千人打新羅。」

 派遣された人名を見ると、これらのうち「明らかに」「東国」にその拠点があると考えられるのは「上毛野君稚子」だけではないかと考えられ、全体としてはごく少数であったのではないかと考えられます。つまり、「百済を救う役」の描写として「東の国の 御いくさを 召したまひて」という表現は実態と「齟齬」しているのではないかと考えられるものです。
 その後「唐」から「捕虜」となっていた人たちが解放されて帰国したという記事がありますが、「蝦夷」地域から徴発されていた人の記録があり、東国から誰も百済を救う役に参加していなかったということではないことは窺えますが、主たる部分は四国や筑紫などから徴発された人たちであると思われ、主体としては西日本からであったことは間違いないと思われます。

『続日本紀』
「慶雲四年(七〇七)五月癸亥 讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各(おのおの)衣一襲及鹽穀とを賜ふ。初百濟を救ひしとき官軍利あらず。刀良等唐の兵に虜(とりこ)にせられ、沒して官戸と作り、?餘年を歴て免(ゆる)されぬ。刀良是に至りて我が使粟田朝臣眞人等に遇ひて、隨ひて歸朝す。其の勤苦を憐れみて此の賜(たまもの)有り。」

 これによれば彼らの出身地は「讃岐國那賀郡」「陸奥國信太郡」「筑後國山門郡」となります。
 また、『天武紀』にも「大唐学問僧」と同行帰国した「捕虜」の例が書かれています。

「(天武)十三年(六八四年)十二月戊寅朔癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

 ここでは「大唐学生」の他に「捕囚」となっていた二人が一緒に帰国したことが書かれていますが、そのうち一人(筑紫三宅連得許)はその出身地が「筑紫」であったと考えられます。
 更に『持統紀』にも捕虜の帰国記事があります。

「(持統)十年(六九六年)夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人■四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

 ここには「伊豫國風速郡」の「物部藥」と「肥後國皮石郡」の「壬生諸石」という二人について書かれており、これら捕囚を体験して帰国した彼らはいずれもほぼ西日本出身者です。もちろん上の「捕虜」であったものが帰国した記事の中に「陸奥國信太郡」出身のものがいることは事実です。しかし、それは例外的であり、編成全体から見て「百済を救う役」の主体的な勢力は「西日本」の地域の人々であり、「東国」は補助的であったと見られます。つまりこの「高市皇子」の挽歌に詠われた戦いは「百済を救う役」ではないという可能性が高いと思われ、この「挽歌」に書かれた内容は「百済」国内ではなく「日本国内」の事実を歌っていると考えられるものです。

 しかし、この「挽歌」は『古事記序文』とは整合していると考えられます。
 『古事記序文』では「即位」の日付として「二月」と書かれており、そこで描写された「戦い」はその直前に行われものである可能性が高く、やはり「冬」であったものと思料されます。戦いそのものも「十日間」程度で終わったもののようですから、それから即位までそれほど日にちが経過したとは考えられないこととなりますから、戦いそのものも「冬」であったという可能性が高いと思われます。
 これが『書紀』の言う「壬申の乱」であると考えると「戦い」が終了して即位まで「半年以上」経過していることとなり、不審なものがあります。
 通常の皇位継承の場合は「前倭国王」の「殯」を営む必要がありますが、この時の「戦い」は時の「政権」を「武力」で打倒したわけですから、「即位」に日にちをかける意味が不明です。そう考えると「二月」至近にこの「戦い」があった可能性を想定すべきでしょう。
 また、『古事記序文』に書かれた「人事共洽 虎歩於東國」という表現と「挽歌」に言う「東の国の 御軍士を 召したまひて」という表現とは共通のものであり、この時の「主人公」である人物の「主たる勢力」が「東国」にあったことを想定させます。
 このことは、この「挽歌」と『古事記序文』に書かれた内容とが「同一」の事実について述べていると見なすことが可能であることを示すものですが、それは同時に、この『古事記』序文に書かれた人物は『書紀』に書かれた「壬申の乱」を勝利した「天武」(「大海人」)とは違うということを意味していることにもなります。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2018/01/02)