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「古事記序文」の「戦い」について


 『古事記』序文に見られる戦闘の描写と『書紀』の「壬申の乱」の様相には明らかな違いがあり、その「動機」、「契機」となったこと、「移動の方法」等が全く異なっています。
 改めてその違いを確認してみます。

 まずひとつとして『古事記』「序文」に描かれた「動機」についての描写があります。『古事記』ではいってみれば「野心」そのものであり、少なくとも、当初から「政権」を「奪取」する目的で行動しているように受け取るこみとができます。単に「時期」を待っていただけというものであり、「人事」が整ったので行動を開始したと云ってはばからないわけです。それに対し『書紀』には以下のように「防衛的」に、「やむを得ず」行動するという「根拠」としての文章があります。

「朕所以讓位遁世者。獨治病全身。永終百年。然今不獲已應承禍。何默亡身耶。」(『天武紀』「六七二年」夏五月条)

 つまり、「自分はただ病気もあって『遁世』しているのに、『禍』を受け身を亡ぼされようとしている。」というわけであり、「やむを得ず」戦うという事とされているわけです。
 ただし、この程度の違いであれば、「自己弁護」もあって「防衛的」に書いているという推測も可能であるでしょう。

 また隠棲先の「吉野」からの移動の手段という点についても違いがあります。『書紀』では「駕する」と書かれており、これは「馬」に乗って行ったと解されますが、「序文」は「皇輿」(みこし)です。しかも『書紀』では最初「徒歩」であったように受け取られますが、「序文」では「最初から」「皇輿」であったと解されます。しかし、これについてもやはり「大きな違い」ではないと言う事もできるかもしれません。しかし、三番目として移動のルートという点に関してはかなりの違いと言えるのではないでしょうか。
 『書紀』に言うような「裏街道」を山越えするようなルートでは短期間に移動は不可能ではないかと思われます。
 この『書紀』による移動ルートを確認すると、隠棲先である「吉野」から、「奈良県宇陀」、「三重県名張」、「三重県桑名」と移動し、そこの「桑名郡家」で宿泊しています。『書紀』によればここまで「三日」で移動したこととなります。さらに「鈴鹿峠」を越えて「美濃の国不破」(関ヶ原町)へ入ります。

(以下『天武紀』より)
六月辛酉朔(中略)甲申。(二十三日)將入東。
丙戌。(二十五日)是日。天皇宿于桑名郡家。即停以不進。
丁亥。(二十六日)高市皇子遣使於桑名郡家以奏言。遠居御所。

 これらの移動に要した日数は計四日間であり、この間の総移動距離で130キロメートルほどありますから、一日あたり30キロメートル程度は移動したこととなります。しかも、このルートが全て「山道」ないしは「整備」されていなかった「裏通り」的なものであることを考えると、いかに「馬」に乗っていたとはいえ、これだけの距離をこの日数でしかも「連続」で移動するのは著しく困難といえます。
 「表通り」とも言うべき「官道」(高規格道路)であれば、「平坦」でもあり「早馬」であれば日100キロメートル程は移動可能であったようですが、その場合でも「馬」の乗り継ぎなどが必要であり、実際に「王」などの移動にはその半分以下ではないかと考えると、せいぜい50キロメートル程度あるいはもっと少ないかと考えられ(後の『養老令』の規定によれば「車駕」による行程は「一日三十里」、「人が歩く」場合は「五十里」とされていました。)
 また、「古代官道」の「駅間距離」も同じく「三十里」とされていますから、基本的には「車駕」であれば「官道上」を移動する際は「一日一駅」、「歩く」場合は「二駅」程度とされていたようです。『古事記』の表現では「輿」に乗ったと見られますが、これは「人が担ぐもの」と思われますから、「歩く」という場合に相当するかと思われます。すると「二駅」程度が一日で移動できる距離となりますが、これは現在のメートルで表すと約30km程度となり、一見数字は合いそうですが、こちらは「官道」という整備された直線道路であり、片や山道であり、屈曲があり、また高低差や狭隘な部分があるなどの条件がある道路(といえるかどうかさえ怪しい)ですから、これらは全く条件が異なり同列には扱えません。つまり、「官道」のような条件がよい場合でもその程度と考えると、この場合の「裏街道」を踏破するには、もっと日数を要すると考えるのが自然です。

 更に彼は「人事共給」されたことにより「東国へ虎歩」したとされています。これは「明らかに」この時の「人事」が「東国」から提供されたことを意味していると考えられます。
 この時点での「東国」という表現についてもいくつか説がありますが、ここでは『常陸国風土記』に言う「我姫」(あづま)を指すと考えられ、「七世紀」の始め、「惣領」が派遣され、「倭国王権」の統治が隅々まで行き渡るような「改革」が成された、ある意味「記念すべき」領域であり、「新しい」勢力範囲の地が彼の支援勢力となったものと考えられます。
 このように「支援勢力」を「外部」に求めなければならないと言うことにおいても「正統」な権力継承のあり方ではないことを意味していると考えられるものです。

 またこの「序文」の中では「明日香清原大宮御宇天皇」という人物が別に居る中で、「潜龍」として描かれています。この「潜龍」という用語については一般には「皇位継承権」のある「太子」の事を指すとされていますが、そうとは限りません。たとえば『隋書』では「高祖」の「北周」時代について「潜龍」という表現がされており、この時点で「高祖」は別に「太子」という次の皇帝の座が約束された地位にいたわけではありません。この場合もこれと同じと思われ、もし「天武」が「太子」という地位にいたとすると「皇位」に即くのに「武力」に物を言わせる必要がないわけであり、このことはこの人物には「正当な継承権」がなかった事を示すものと考えられます。
 また、この「潜竜」という用語は『懐風藻』の中では「大津皇子」についても使用されていますが、彼が正当な皇位継承者であったという記録はありませんし、またそのため彼は「謀反」を起こしたというわけであり、彼に対する前例としてこの『古事記序文』があるとすれば(時系列で言えば「大津皇子」は後です)、それは「造反者」の意味があるということになるのではないでしょうか。その意味では「隋の高祖」のように後に「受命」により皇帝位に即いた人物も広い意味では含まれるかもしれません。

 また「昇則天位」、つまり「昇る」という言い方からも、この「人物」が「即位」の「正統」な権利を有していないものと推測できます。「草壁皇子」などは『書紀』では「日並皇子」と称され、これは「天皇」と代わらない「権威」と「地位」があったことを示す用語ですが、「潜竜」と言われている「大津」にはそのような「敬称」が付加されていません。つまり、「昇」という語が使用されている「序文」の人物の場合も、「大津」と同様「天皇」と同格あるいはそれに準ずると言うよりはもっと「低位」の位置にいたことを示唆します。

 また、ここに書かれた「飛鳥清原大宮御大八洲天皇」という「天皇」は通常「天武」自身を指すと考えられているようですが、その場合、その時点における「天皇」について「言及」がないこととなり、それもまた考えにくいものです。この「潜龍」が上で見たようにまだ「帝位(皇位)」に付いていない「皇子」のことを言うとすると、この時点で存在したであろう「天皇」とは当然「別人」となります。そもそも「同一人物」について「天皇」と、「潜竜」という語が「並ぶ」こととなり、文章として整合しないと考えられます。また、ここで使用されている「曁」という言葉も、その語義が「およぶ」とか「いたる」というものであるとされていますし、「御大八洲天皇御世」というように「治世期間」を示す表現となっていることからも、その「期間」内に「潜竜」自身が存在することとなってしまうのは「矛盾」であると思われ、やはり「潜竜」と「飛鳥清原大宮 御大八洲天皇」とは「別人」であると考えるべきであり、「天武」自身のことを指すものではないと考えられます。

 さらにこの「序文」ではこの戦いが「短期間」に終結したと受け取れる表現があります。そこには「未移浹辰 氣自清」とあります。ここに書かれた「浹辰」とは「十二支が一周する十二日間」を指す言葉であり、この戦いが十二日間に満たずして決したように書かれているわけです。しかし、『書紀』の記事ではもっと日数がかかっているように見えます。

「秋七月庚寅朔辛卯(二日)。天皇遣紀臣阿閇麻呂。多臣品治。三輪君子首。置始連菟。率數萬衆。自伊勢大山越之向倭。且遣村國連男依。書首根麻呂。和珥部臣君手。膽香瓦臣安倍。率數萬衆。自不破出。直入近江。」

 これによれば「七月二日」以降戦いが始まり、「大友皇子」の首が検分されて、実質的な戦いが終了したのが「七月庚寅朔乙卯(二十六日)」とされていますので、明らかに「三週間以上」かかっているわけであり、とても「十二日間」以内の出来事であったとは言えません。もしこれを「双方の軍」が初めて衝突した「大伴吹負」と「大野君果安」の戦いの時点から、「近江軍」が潰敗した日までとして数えたとしても、「癸巳」(四日)から「辛亥」(二十二日)までの「十八日間」となり、やはり「古事記序文」の言う日数とは整合しないのです。

 以上見てみると両記事で整合しているところはほとんどないと云える状況であり、このことはこの二つの史書に書かれた内容は別の時点の別の事案ではなかったかと疑わざるを得ないこととなります。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2015/02/07)