すでに「唐・新羅連合」との間に行われた戦いの過程において「筑紫の君」である「薩夜麻」という人物が捕囚となっている間に別の人物が倭国王として筑紫にいたらしいことを推定しました。この「薩夜麻」については別途述べますが、「筑紫の君」という称号が示すように「筑紫」地域のリーダーであるのはもちろん、それだけではなく当時「筑紫」に中心をおいていた「倭国九州王朝」の王者でもあったことと推定します。その「薩夜麻」捕囚の間に「倭国」を制圧していた人物が別にいると思われ、それが「天智」として『書紀』に描写されていると思われるものです。
ここで彼について考察しようと思いますが、そのためにまず「太安万侶」が記したという『古事記』の「序文」について検討してみます。以下にその一部を記します。
(以下の読み下しは「倉野憲司」校注の「古事記(文庫版)」によります)
「曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍元を體し ?雷期に應じき 夢の歌を開きて業を纂がむことを相はせ 夜の水に投りて基(もとひ)を承けむことを知りたまひき 然れども天の時未だ臻らずして 南山に蝉蛻(せんぜい)し 人事共洽(そな)はりて 東國に虎歩したまひき 皇輿(こうよ)忽ち駕して 山川を浚え渡り 六師雷(いかづち)のごとく震ひ 三軍電(いなづま)のごとく逝きき 杖矛威(いきほひ)を擧げて 猛士烟のごとく起こり 絳旗兵(つはもの)を耀(かがや)かして 凶徒瓦のごとく解けき 未だ浹辰を移さずして 氣れい自から清まりき 乃ち牛を放ち馬を息(いこ)へ ト悌して華夏に歸り 卷き旌(はた)を戈(ほこ)おさめ ?詠して都邑に停まりたまひき 歳(ほし)大梁に次(やど)り 月侠鍾に踵(あた)り 清原の大宮にして 昇りて天位即きたまひき 道は軒后に軼ぎ コは周王に跨えたまひき 乾符を握(と)りて六合(りくごう)をハべ 天統を得て八荒を包ねたまひき 二氣の正しきに乘り 五行の序を齊へ ~理を設けて俗(ならはし)を奬め 英風を敷きて國を弘めたまひき 重加(しかのみにあらず)智海は浩瀚として 潭く上古を探り 心鏡は?煌として 明らかに先代を覩たまひき 是に天皇詔りたまひしく 朕聞きたまへらく諸家もたる帝紀及本辭 既に正實に違ひ 多く虚僞を加ふ、といへり 今の時に當りて 其の失を改めずは 未だ幾年も經ずして 其旨滅びなんとす 斯れ乃はち邦家の經緯 王化の鴻基なり 故惟れ帝紀を撰録し 舊辭を討覈して 僞はりを削り實を定めて 後の葉(よ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ 時に舍人有りき 姓は稗田名は阿禮 年是れ廿八 人と爲り聰明 目に度れば口に誦み 耳に拂るれば心に勒しき 即ち阿禮に勅語して 帝皇日繼及先代舊辭を誦み習はしめたまひき 然れども運(とき)移り世異(かは)りて 未だ其の事を行なひたまはざりき」
この「序文」はその叙述から「元明天皇」に向けて書かれた「上表文」であるとされています。そして、従来この「序文」には「天武」が描かれていると(一般には)考えられてきました。それはここに書かれた「即位年次」と『書紀』の記載が合致するのは「天武」しか居ないという理由が最大の理由であったと思われます。しかも、即位の前に「壬申の乱」を彷彿とされる「闘争」が描かれており、そのこともあり、ここに書かれた「天皇」を「天武」とする見解は「定説」となっています。
しかし、この「序文」に示されている「闘争」の経過を「注視」すると『書紀』に書かれた「壬申の乱」とは「明らかに」食い違っていると思われるのです。このことについては、既に古賀達也氏により論究が為されていますが(※)、その「違い」については『書紀』と『古事記』の「編集姿勢」の違いであるとされているようであり、氏の認識によればここに書かれた「闘争」の描写は「壬申の乱」であり、また描かれた中心人物が「天武」であるというのは既に定まった事と考えられているようです。
氏はその論でも「『古事記』序文の「壬申大乱」記事」というように表現されており、あたかも「無条件」にここで描写されている「戦い」が「壬申の乱」であると決めておられるようです。
これに果敢に挑んでいるのが(と勝手に思っているだけかもしれませんが)西村秀己氏であり、この人物について「文武」であるとされています。(※2)
「西村氏」はこの中で、「序文」の人物を「天武」ではなく「文武」とする根拠としていくつか挙げられた後、「最大」の問題として以下のように述べられています。
「そもそも古事記や日本書紀は何の為に書かれたのか。それは八世紀以降の近畿天皇家の正統性を主張するためである。いや、極言すれば文武即位の正統性を主張するためだ。何故なら、文武が正統であるなら彼に続く歴代は全て正統となるからである。(しかも、文武はこの序文の第一読者である元明の息子なのだ)すなわち、古事記・日本書紀はただ文武一人のために書かれたとしても過言ではない。にもかかわらず、その古事記の序文が文武に一行も触れようとしないとは。有り得ることではない。」(「削偽定実の真相 −古事記序文の史料批判−」古田史学会報五十八号より)
言い換えると、ここには明らかに「初代王」が書かれているが、それが「文武」でないとするとおかしいというわけです。しかし、ここで描かれている人物が「文武」であったとしても、ここで示された「戦い」については「天武」の「壬申の乱」を指すと云う見解については(明確ではないものの)維持されているようであり、その場合西村氏の提示された「天武が稗田阿禮に詔勅を下したのが天武の最晩年である朱鳥元年(西暦六八六年)であったとしても、この時から元明が執筆命令を発動した和銅四年(西暦七一一年)まで二十五年もあることである。」という疑問は「依然として」残ることとなってしまいます。つまり、この「戦い」の描写を「壬申の乱」のものと考える限り、「矛盾」は残るわけです。
「太安万侶」の奏上の日時は「序文」に「和銅五年正月二十八日」とありますから、「即位」した「天皇」が「文武」であるとすると「即位」の「前段」に書かれた「戦い」の時期もこの日付に接近していることとならざるを得ません。このことは、「前段」の「闘争」は「壬申」の年(六七二年)よりももっと「最近」(文武即位の時期から見て)に起きたことを書いたものであると考えざるを得ないこととなります。
しかし、そのような戦いが「七世紀末」にあったとするならそれをまず証明することが必須なのではないでしょうか。しかし実際にはそれを示唆するどんな「徴証」も『書紀』や『続日本紀』には見あたりません。この事から判断して、「文武」という人物がこの序文で描いている「王」であり「八世紀日本国王権」にとって「初代王」である、と言う解釈そのものに問題があるという事になるのではないでしょうか。つまりここに書かれた人物は「天武」ではないことは確かと思われるものの、「文武」でもないということとなるでしょう。
(※1)古賀達也「『古事記』序文の「壬申大乱」」(古田史学会報月第六十九号 二〇〇五年八月八日)
(※2)西村秀己「削偽定実の真相 −古事記序文の史料批判−」(古田史学会報第六十八号 二〇〇五年六月一日)
(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2014/11/30)