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「百済を救う役」における将軍の数など


 後の『養老令』の中の「軍防令」の規定によれば、「軍団」は千人単位(それを構成する「隊」は五十人単位)で構成されるとされています。さらに、「将軍」の率いる「軍」の「兵員数」が「一万人以上」の場合には「副将軍」が二人配置されるように書かれていますが、五千人以上一万人以下では「副将軍」は一名に減員されるとされています。

「軍防令二十四 将帥出征条 凡将帥出征。兵満一万人以上将軍一人。副将軍二人。軍監二人。軍曹四人。録事四人。五千人以上。減副将軍軍監各一人。録事二人。三千人以上。減軍曹二人。各為一軍毎惣三軍大将軍一人。」

 以下の「百済を救う役」及び「白村江の戦い」という実例の中にこの「軍防令」を適用して考えてみます。ただし、正確には「原・軍防令」とでもいうべきものであり、それは(当然)『養老令』ではないものの、「軍防令」に類似した規定は当時すでにあったものと考えられ、それは「飛鳥浄御原律令」の実際の制定時期が「難波朝廷」時代ではなかったかと考えるからです。(詳細後述)

 「軍防令」では「隊」の構成人数が「五十名」であるとされていますが、これは「隋」「唐」の「府兵制」に拠ったものとも推定されます。他方「里」の構成戸数を「八十戸」から「五十戸」に変えたこととも関係があると考えられ、それになぞらえれば、「軍」を構成する「兵員数」についても、「評」の中の「戸数」と等しいのではないかと考えられます。
 「評」という制度そのものは「六世紀代」から倭国内に展開されていたと思われ各地に設置された「屯倉」の管理上の組織であったと思われますが、「隋」との交渉から「五十戸制」という村落の戸数改定を行いこれを制度とした確立したと思われ、『隋書俀国伝』にいう「軍尼」の管轄する戸数が「八〇〇」程度とされていることから、「評」においても同様の戸数が確保されていたと見れば、「軍」においても「十五隊」(七五〇名)という基本兵員数というのが「当初の」「原・軍防令」に規定されていたと仮定できると思われます。
 更に、この事から「軍団」の規定兵員数は(十二軍)「九千名」であったのではないかと推定されますが、この数字が『養老令』では各々「千名」と「一万名」に改められているものと推量します。
 
 この「軍制」は前述したように「隋」「唐」で施行されていた「府兵制」にその根拠を拠っていると思われ、そこでは「正丁」三人に一人の割合で「兵士」とし、それが五十人で「隊」を成し、さらにそれが四つ集まると「国」となるとされ、それらは「折衝府」という「役所」に集められたとされています。そしてその集められた兵員数に応じランク付けされ、「八〇〇」人程度の「折衝府」が「中」とされたのです。
 「倭国」でもこれを応用していると考えられ、「里(さと)」の単位が「五十人」であること、「評」の戸数が「八〇〇」程度であることなどは、「一戸一兵士」とすればほぼ「正丁三人に一人」程度の兵士となると考えられるものであり、また「折衝府」の平均的兵員数(八〇〇人)と「評」の戸数(七五〇~八〇〇程度)がほぼ等しいのは偶然ではなく、これは「隋」あるいは「唐」など「北朝」からの影響であると考えられるものです。
 このような制度改定が「高度な中央集権制」の確立というものと関係していると考えれば、「天子」を自称するなどの事績が確認できる「隋末」から「初唐」の時期が想定できるでしょう。

 『書紀』の「斉明紀」の「百済を救う役」の記事中の「前将軍」の率いる軍に付いては「副将軍」と目される人間は一人だけであり(「小華下河邊百枝臣」)、それは「後将軍」の「大華下阿倍引田比邏夫臣」の副官として「大山上物部連熊」「大山上守君大石」の計二名が添えられているのと異なっています。これは先述した規定によって「前軍」の兵員数が「九千人」以下であり、「後軍」は「九千人以上」であるということを示すと考えられ、総員凡そ「二万人弱」ほどであったものと思料されます。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖」

 それに対し以下の例では「将軍」としては「阿曇連比羅夫」しか書かれていません。

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

 しかし、ここでは「阿曇連比羅夫」が「大将軍」と呼称されています。これについては同様に「軍防令」の中に、軍の構成が「三軍」以上の場合は一人が「大将軍」となると規定されており、それに準ずると、この時は実は「三軍」構成であったと思われ、この時の一軍あたりの兵員は(『書紀』には書かれていませんが)以下の例から考えて、各々「九千人」程度であったのではないかと考えられ、「規定」に定められた一軍の定員数そのものであった可能性が高いと考えられます。 そしてその「兵員」を「百七十艘」の「船」により派遣したとされていることから、一艘あたりに換算すると「百六十人以上」が乗り込んでいたものと思われ、かなりの「詰め込み」状態であったと考えられます。
 その後に派遣された軍の記事では、明確に「三軍構成」であることが記載されています。

「(天智称制)二年(六六三年)三月。遣前將軍上毛野君稚子。間人連大盖。中將軍巨勢神前臣譯語。三輪君根麻呂。後將軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二萬七千人打新羅。」

 この記事では各々の軍の「将軍」とされる「上毛野君稚子」「巨勢神前臣譯語」「阿倍引田臣比邏夫」の直後に書いてある「間人連大盖」「三輪君根麻呂」「大宅臣鎌柄」は「副将軍」であると考えられ、「副将軍」は「軍」の総兵員数が「五千人以上」「一万人未満」の場合は「一人」と決められているわけですから、(これも「九千人未満」というのが元の「基準」であったものか)この時の軍は各々「約九千人」であった可能性が強いものと考えられます。そして、それは「二万七千人」という総数ともほぼ整合するといえます。
 また「三軍構成」となっているわけですから、「大将軍」が一人任命されていたものと考えられ、「蝦夷」遠征の実績などから考えると「後将軍」である「阿倍引田臣比邏夫」がこの時の「大将軍」であったのではないかと推察されます。
 また「船」の数が記載されていませんが、前回の「三軍構成」の際の数が「一七〇艘」とされていますので、これとほぼ違わない数字である「一七〇艘」ほどの船が派遣されたと見られます。(これにも一六〇人ほどが一艘当たり乗船していたものか)
 しかし『書紀』の以下の記事では救援に向かう将兵の数として「萬餘」とされており、食い違いがあります。
(六六三年)(天智称制)二年…
秋八月壬午朔甲午(十三日)新羅以百濟王斬己良將。謀直入國先取州柔。於是。百濟知賊所計。謂諸將曰。今聞。大日本國之救將廬原君臣率健兒萬餘。正當越海而至。願諸將軍等應預圖之。我欲自往待饗白村。

 これについてはこの「前」「中」「後」の軍の派遣時期は各々かなり異なっていた可能性があり、それを示すように前軍は六月には上陸し「地上戦」を戦っていた模様です。

「六月。前將軍上毛野君稚子等。取新羅沙鼻岐。奴江二城。…」

 この段階ではまだ「中」「後」の二軍は到着していなかったと見られ、彼らが到着したところに「唐軍」が待ち構えていたと言うことではなかったでしょうか。そこには前軍の船が係留されていたと思われ、そこに「倭国」からの「二軍」つまり「一萬八千人ほど」が乗船していた「約一二〇艘」が合流したと思われるわけです。
 これであれば「萬餘」の救援軍が来るという表現はそれほどはずれてはいないでしょう。このことは「廬原君臣」という表現が特定の個人名ではないことも示します。「中軍」「後軍」の将軍名は確かに「君」と「臣」ですからその意味では整合しています。
 確かに『書紀』の「六六二年三月」の軍が「六六三年八月」に到着というのは時間が空きすぎであり、この「萬餘」の軍はそれとは違うタイミングで派遣されたものと考える方が正しいように思われます。

 ところでこの時唐の水軍も同様に白村江に至り倭国の水軍と衝突するわけですが、この時の「唐側」の水軍の規模も「一七〇艘」と『書紀』に書かれています。


(この項の作成日 2012/05/29、最終更新 2016/08/21)