ホーム:倭国の七世紀(倭国から日本国への過渡期):「唐」・「新羅」との戦いについて:

「倭国軍」の構成について


 「倭国」は「倭国王」が「不在」という中で、「白村江の戦い」に望んだわけですがこの時点では「天智」の「日本国」が存在していたわけであり、彼は「親新羅勢力」であった「東国」勢力の支援の元に「日本国」を開いたものですから、「新羅」と直接戦う事となるような戦いに多大な戦力を送るつもりはなかったものと考えられます。それを示すように「白村江の戦い」などこの時半島に送られた軍事勢力のほとんどが「東国」のものではありませんでした。

 『書紀』による「百済」への軍派遣記事は以下の通りです。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。」

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

「(天智称制)二年(六六三年)三月。遣前將軍上毛野君稚子。間人連大盖。中將軍巨勢神前臣譯語。三輪君根麻呂。後將軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二萬七千人打新羅。」

 派遣された人名を見ると、これらのうち「明らかに」「東国」にその拠点があると考えられるのは「上毛野君稚子」だけではないかと考えられ、全体としてはごく少数であったのではないかと考えられます。
 つまり、「率二萬七千人打新羅」とされる大兵力はほぼ「西日本」の勢力であり、彼等は「天智」とは別に「筑紫」の残存勢力の判断と指示により派遣されたものと考えられ、そのような「強行」をした理由は「倭国王」の「奪回」という重要な目的があったのではないでしょうか。「薩夜麻」を取り戻すために「無理」な戦いを挑んだのかもしれません。
 ただし、「東国」から全く「兵」が送られなかったというわけではありません。後に「唐」から「帰国」した元兵士達の中に「陸奥」出身のものがいることに注意すべきです。

(続日本紀)「慶雲四年(七〇七年)五月癸亥条」「讚岐國那賀郡錦部刀良 陸奧國信太郡生王五百足 筑後國山門郡許勢部形見等各賜衣一襲及鹽穀 初救百濟也 官軍不利刀良等被唐兵虜沒作官???餘年乃免 刀良至是遇我使粟田朝臣真人等隨而歸朝 憐其勤苦有此賜也.」

 彼らは『続日本紀』に拠れば「大宝元年」(七〇一年)に発遣され、「慶雲元年」(七〇四年)の秋に帰国した「遣唐使」(粟田真人等)と共に帰国したとされます。
 その彼らはこの記事に拠れば「初救百濟也 官軍不利刀良等被唐兵虜沒作官」とされ、「百済を救う役」で「捕虜」になったとされています。

 そもそも「陸奥」は一般には「蝦夷」の領域とされます。またここでいう「信太郡」は一般に「誤記」であるとされ、「信夫郡」のことと理解されているようです。その理由としては、この「信太郡」が以後の「宮城県志田(志太)郡」であるとすると、それより北方に位置する「宮城県名取郡」に「郡衙」が置かれたのが上の記事より後の「和銅六年」だからというのです。この地域は「白村江の戦い」時点ではまだ「化外の辺境」であったと一般に見られているため、そのような時期に「兵士」が「徴発」されているはずがないと考えられているわけです。
 しかし、「斉明紀」には「阿部比羅夫」が「蝦夷」との戦いで戦果を挙げ、かなりの領域を「倭国」の領域として版図に組み込んだとされ、それは「六五七−八年付近」であり、これは確かに「百済を救う役」の年次の手前の話です。ただしここで「阿部比羅夫」が制圧した地域はもっぱら「日本海」側からのアプローチであり、「太平洋側」ではありません。しかし、「蝦夷」に対するアプローチは「太平洋側」からのものの方が実は先行していたものと考えられ、それは「東海道」と「北陸道」の成立の時期の差として現れているといえるでしょう。
 「北陸道」の成立は「七世紀後半」とする見解が有力であり、「東山道」などに遅れるとされています。それに対し「東海道」はかなり早期に「伊豆半島」の手前までは進捗していたものと見られ、七世紀代に入ってから「箱根越え」のルートが開削され、「海路」「房総半島側」に入るルートよりも「陸路」が充実することとなったものと見られます。つまり「阿部比羅夫」の「蝦夷」統治の時期よりかなり遡上する時期に「宮城県」の「蝦夷」に対して「倭国」への編入が試みられたことが推察されるものであり、そうであればそこから徴発された「生王五百足」達「陸奥」の人々が「兵士」として「半島」に送られていたというのも実は荒唐無稽な話ではないこととなるでしょう。
 この「陸奥」を「倭国王権」の統治下に入れ、「陸奥國」として成立させていたと言うことは、『書紀』には全く触れられておらず、真偽が取り沙汰されるわけですが、それが「東国」に対する統治強化の一環であったとしてみてみると、「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」の時代に「我姫」の地域が「倭国王権」によって再編成されたらしいことが『常陸国風土記』から読み取ることが出来るものであり、それ以降のある時期に「陸奥」が(主に「常陸」の北方領域への進展、展開という方法で)「倭国王権」の統治下に入ったらしいことが理解できると思われます。
 それは「仙台市郡山遺跡」あるいは「古川市名生部館遺跡」のような「多賀城」を更に遡ることが確実な「城柵」遺跡の存在からもいえます。これらは「七世紀半ば」までその起源が遡ることが確認されていますが、これらが造られることとなった「条件」としては、「官道」の存在が大きい、というより「必須」であったと思われます。
 「官道」がその「基本的性格」として「軍事」に関わるものである事から考えても、「対蝦夷」政策の重要な部分として「官道」の「延伸」が行なわれ、そこに「城柵」と「政庁」の機能を併せ持った「出先機関」が設置されたものと考えられますが、それが「七世紀なかば」まで遡上すると言うことは、少なくとも「斉明紀」段階で「多賀城」の北方に軍事・警察権が及んでいたことを示すものと見ることができ、「戸籍」「徴税」などとの同一線上に「徴兵」というものがあったとして不思議ではないとも言えるでしょう。
 但し、「天智王権」の性格としてそこから大量に兵を集めて半島へ派兵したとは考えられず、いわば「型どおり」の範囲ではなかったかと考えられるものです。


(この項の作成日 2011/07/27、最終更新 2014/09/20)