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「百済を救う役」と「天智」


 この「百済を救う役」の際には「倭国王」が「自ら」戦地に赴くこととなったと思われるわけですが、そうなった以上、配下の人員が後方に留まることはできなかったものと考えられ、「安曇比羅夫」は「筑紫大宰率」であったと思われるわけですが、彼といえども戦地に赴かざるをえなくなったのではないでしょうか。その代わり「皇親」のうち年少の人物を「不測」の事態の後継としたものであり、(それは「倭の五王」時代の「武」を彷彿とさせる)それが「天智」であったともみられます。
 彼は『書紀』によっても確かに「筑紫」の地で残留部隊の指揮を執っています。しかし軍事力のほとんどを国外に投入した結果「筑紫」を含む「西日本」に「軍事的空白」が生まれたものと考えられ、後述するようにその「空白」を「天智」は「衝いた」形となったと思われます。

 この時「倭国」から派遣された合計三回の「総兵員数」は「七万四千人」にまで膨れあがり、派遣に要した「船」の数は「四六〇隻」以上という計算になります。
 「唐」の記録(旧唐書)にある「白村江の戦い」の場にいたという「倭船」「四〇〇隻」という数字はこの「総数」を書いたものと考えられ、「白村江」に停泊していた「船」の総数が「四〇〇隻」以上であったと考えられますが、一回目と二回目の要員はほぼ全て上陸したものと考えられ、「第三派」で送られた「二万七千人」が「白村江の戦い」という「海戦」に参加したものと思料されます。この戦いは周知のように「倭国側」の大敗北で終り、多くの人間が失われたものであり、「百済王室」関係者の多くは「倭国」に避難してきたものです。

 上で見たような「総数」で「七万四千人」という兵力を送って戦ったわけですが、これは上で見たように「戸数」とほぼ比例して兵士を送り出したと推定すると、「七万四千戸」から「兵士」を出したこととなり、「七五〇戸」が「評」の平均戸数と考えると「約一〇〇」の「評」から「兵士」を出したこととなります。
 この「評」の数は『隋書俀国伝』にある「軍尼」の支配している地域の数である「一二〇」と大きくは異ならないことを示します。つまり「倭国」のほぼ全ての諸国から徴発した兵力で軍が編成されていたことを示すものです。
 また、最後に出動した「海戦」における死者が一番多かったのではないかと推測され、先に「陸上戦」に送られた「兵力」は捕虜等になりながらもかなり生存したものと推定されます。彼等の内かなりの数のものが本国に帰国したものと推察されますが、喪失した兵員数は二~三万人程度はあったものと推定され、多大な損失を受けたと推定されます。 
 ただし、このような中でも「東国」(我姫)からは「兵力」が多くは派遣されなかったと推測され(全くいなかったという訳ではないことは「唐」から帰国した元兵士を記録した史料に「陸奥」の兵士について書かれていることでもわかります)、その結果国内の軍事バランスは大きく崩れた結果となり、「西に薄く東に厚い」状態となって、「東国」(我姫)の勢力の進出を許す形となったものと思料します。

 「天智」は留守居役として「筑紫」に所在していたわけですが、その間「百済」に陣取っていた「唐」から要求や指示が(威嚇とともに)提示され、その対応に苦慮したと思われますが、その際に「薩夜麻」から密命がもたらされたとみられ、その内容にいわば「幻滅」したのではないでしょうか。
 「薩夜麻」は「倭国王」として全軍を率いて戦い、結果「百済」を救うことができないばかりか、倭国自体にも甚大な被害を出し、しかも自分も捕虜になるなどの不名誉を重ねているにもかかわらず、他国内から「倭国王」として指示を出しつづけ、しかもその指示が戦争相手国である唐の軍門に下ったかのようなものであったことに「憤懣」やるかたないものであったのではないかと思われるのです。
 そのことから彼(天智)は「薩夜麻」の帰国を待たず、即位を決意したものですが、「唐」との関係を一度「リセット」する意味でも「革命」を行い、形の上だけでも「倭国」と断絶し、別に「日本国」を創立し「初代王」(皇祖)として国内統治を始めることとしたのではないかと考えられます。
 元々「太宰」として国内統治を任されていたわけですから、指揮命令系統はほぼ同一ですので、「日本国」創立と言っても、大きく国内体制を替えることは必要ではなく、またそういう気もなかったでしょう。すばやく、「冠位」と「法度」を制定し、「戸籍」を造り、新王朝に必要な最低限の体制を整えたものと推定されます。


(この項の作成日 2012/05/29、最終更新 2016/12/25)