『書紀』の「孝徳朝」時代の記事に「賀正礼」というのが出てきます。
(六四六年)大化二年春正月甲子朔。賀正禮畢。
(六四八年)大化四年春正月壬午朔。賀正焉。是夕。天皇幸于難波碕宮。
(六四九年)大化五年春正月丙午朔。賀正焉。
(六五〇年)白雉元年春正月辛丑朔。車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦。是日車駕還宮。
(六五二年)白雉三年春正月己未朔。元日禮訖。車駕幸大郡宮。
『孝徳紀』以外にも「賀正礼」と思しきものが書かれている例があります。
(以下は『孝徳紀』以外の例)
(六七一年)十年春正月己亥朔庚子(二日)大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣。進於殿前奏賀正事。(これは一日ではありません)
(六七五年)四年春正月丙午朔。大學寮諸學生。陰陽寮。外藥寮。及舎衞女。堕羅女。百濟王善光。新羅仕丁等。捧藥及珍異等物進。
(六七六年)五年春正月庚子朔。羣臣百寮朔拜朝。
(六八九年)三年春正月甲寅朔。天皇朝萬國于前殿。
(六九〇年)四年春正月戊寅朔。物部麿朝臣樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞。畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后。皇后即天皇位。公卿百寮羅列。匝拜而拍手焉。
己卯。公卿百寮拜朝如元會儀。丹比嶋眞人與布勢御主人朝臣。奏賀騰極。
(六九一年)五年春正月癸酉朔。賜親王。諸臣。内新王。女王。内命婦等位。
(六九八年)二年春正月壬戌朔。天皇御大極殿受朝。文武百寮及新羅朝貢使拜賀。其儀如常。
(七〇一年)大寳元年春正月乙亥朔。天皇御大極殿受朝。其儀於正門樹烏形幢。左日像青龍朱雀幡。右月像玄武白虎幡。蕃夷使者陳列左右。文物之儀。於是備矣。
(七〇二年)二年春正月己巳朔。天皇御大極殿受朝。親王及大納言已上始著礼服。諸王臣已下着朝服。
(七〇四年)慶雲元年春正月丁亥朔。天皇御大極殿受朝。五位已上始座始設榻焉。
以上のように各時代において「賀正礼」様の儀式が行なわれているように見えますが、明確に「賀正禮」(ないしは「元日禮」)と書かれているのは『孝徳紀』だけです。この「賀正禮(礼)」が「礼制化」されたのが「唐」の「玄宗皇帝」の時代の「開元令」においてであるということから、この『孝徳紀』の記事を否定する(「造作」であるとする)意見があるようですが、以下の理由により当たらないと思われます。
一般に「倭国」では「唐令」をそのまま継受していない、とされます。つまり「倭国」独自の形に変改して受容しているということです。「唐律」についてはかなりの部分をそのまま継受したとされていますが「唐令」に関しては多くの部分で取り入れなかったり、あるいは改変するなど、倭国独自のものを作り上げているようです。それらは「倭国」の国内事情に合わせたものであり、それはいわゆる「大化前代」までの「倭国」の状況を反映しているとされます。(例えば「増田修氏」の論(※1)をご参照いただくと良いと思います)
「倭国」も含め周辺諸国は「中国」の歴代王朝と継続的に関係を持っていたわけですから、随時(程度や量の「多少」はあるものの)中国各王朝の制度等を取り入れていたものと見られます。それは当然各国においてある程度その国に応じて改変等されて受容されたものと見るべきであり、「倭国」においても「倭国流」に「咀嚼」して取り入れられていたと推察されます。それらが下敷きとしてあった中で、「七世紀」に入り「隋」その後「唐」と正式な外交関係を持つに至ったわけであり、それらからも重層的に「制度」その他を取り入れることとなったことが『養老令』等に反映していると見られるわけです。
そのような中で、「新羅」の場合は「服飾制度」を含め「年号」や「律令」なども「唐」のものを導入したというわけですが、それはほぼ完全な「服従」を意味するものであり、それは反対報酬として軍事援助を欲した事の結果でもあります。つまり「麗済同盟」という「新羅」を挟み撃ちにするような「軍事同盟」の圧力に対抗するにはそうするより他はなかったという選択の中でのことと考えられますが、他方「倭国」はそのような圧力を感じることもなく、単に必要なものだけを導入したということと見られ、それはもっぱら統治の際の利便性の追求の結果であり、あるいはそれ以前の制度等との折り合いなどを考慮した上の話であり、「唐」や「隋」に対する「服従」のためなどではなかったものです。つまり、「新羅」とはその「唐令」の継受に当たっての「動機」の違いが大きいと思われます。
その証拠に「賀正礼」の場合「唐」と同様式になるのはずっと後代であり(平安時代とされる)、「八世紀」時点においては「唐」とは異なる形式で「賀正礼(元日朝賀)」の儀式を行っていました。「唐令」(これは開元令)についての情報を入手したのは「八世紀」に入ってから派遣された「遣唐使」の帰国後のことと考えられますから、それ以前に行われていた諸儀式については「開元令」との関連を想定するのは困難であると思われます。
そう考えると「七世紀半ば」という時点で行われていた「元日朝賀」が「開元令」から復元された「唐令」に(完全に)則っているとは考えられないこととなります。それまでに「倭国」に流入した「唐」以前の儀式であったり、「倭国」の古来からの伝統に根ざしたものをメインにした儀式を行っていたという想定の方が遥かに蓋然性の高い想定であると思われます。
そもそも『大宝令』に関する「古記」などの記載からは、その中身として「唐」の『永徽律令』などの影響が考えられています。この『永徽律令』とその「疏」などの成立が「六五三年」とされていますから、『大宝律令』の成立はこれ以降であると推察され、それ以前に行われた「元日朝賀」がそれらに則っていないのは当然といえるのではないでしょうか。
「元會之儀」そのものは古来からあるものであり、それが「禮」として成立していたかどうかだけの問題と思われます。
以下の例では「周」から「隋」に「禅譲」された際の儀式の模様が描かれており、そのさまが「如元會儀」と書かれていますから、「周」(北周)の時代には「元會之儀」が行われていたことが判ります。
「隋書卷九 志第四/禮儀四/元會」
「周大定元年…二月甲子,椿等乘象輅,備鹵簿,持節,率百官至門下,奉策入次。百官文武,朝服立 于門南,北面。高祖冠遠遊冠,府僚陪列。詔室入白,禮曹導高祖,府僚從,出大門東廂西 向。椿奉策書,?奉璽?,出次,節導而進。高祖揖之,入門而左,椿等入門而右。百官隨入庭中。椿南向,讀冊書畢,進授高祖。高祖北面再拜,辭不奉詔。上柱國李穆進?朝旨,又 與百官勸進,高祖不納。椿等又奉策書進而敦勸,高祖再拜,俯受策,以授高?;受璽,以授 虞慶則。退就東階位。使者與百官,皆北面再拜,?笏,三稱萬?。有司請備法駕,高祖不許,改服紗帽、?袍,入幸臨光殿。就閤?服袞冕,乘小輿,出自西序,『如元會儀。』禮部尚書 以案承符命及祥瑞牒,進東階下。納言跪御前以聞。?史令奉宣詔大赦,改元曰開皇。是 日,命有司奉冊祀于南郊。」
このように「唐」以前の中国において「元會之儀」という形で「賀正礼」的儀式が行われていたことは確かですから、これらが「倭国」に影響を与えたとしても不思議ではありません。
「白雉改元」の儀式においても「元會儀」と同じように行われたと書かれています。
「(六五〇年)白雉元年春正月辛丑朔条」「車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦。是日車駕還宮。」
「(同年)二月庚午朔甲寅条」「朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。…」
上で見るように「正月」には「賀正禮」とされていますが、二月には「元會之儀」と書かれており、この二つは同じ儀式のことを意味していると推察されます。その「元會之儀」と同じとされる内容を見てみると「隊丈」(これは「軍隊」の意か)は「朝庭」に配置されているとされ、その後に書かれている「左右大臣。百官」と共に「紫門」の外に展開配置されていたと思われます。
『隋書』には他にも「南朝」の「梁」の「元會之禮」をモデルにして「隋制」としたらしいことが書かれています。
「梁元會之禮,未明,庭燎設,文物充庭。臺門闢,禁衞皆嚴,有司各從其事。太階東置 白獸樽。羣臣及諸蕃客並集,各從其班而拜。侍中奏中嚴,王公卿尹各執珪璧入拜。侍中 乃奏外?,皇帝服袞冕,乘輿以出。侍中扶左,常侍扶右,?門侍郎一人,執曲直華蓋從。至階,降輿,納?升坐。有司御前施奉珪藉。王公以下,至?階,??劍,升殿,席南奉贄珪璧 畢,下殿,納?佩劍,詣本位。主客即徙珪璧於東廂。帝興,入,徙御坐於西壁下,東向。設 皇太子王公已下位。又奏中嚴,皇帝服通天冠,升御坐。王公上壽禮畢,食。食畢,樂伎 奏。太官進御酒,主書賦?甘,逮二品已上。尚書?騎引計吏,郡國各一人,皆跪受詔。侍中讀五條詔,計吏?應諾訖,令陳便宜者,聽詣白獸樽,以次還坐。宴樂罷,皇帝乘輿以入。 皇太子朝,則遠遊冠服,乘金輅,鹵簿以行。預會則劍履升坐。會訖,先興。」
ここでは「南朝」「梁」の「元會之禮」について書かれており、これを参考にして「正旦及び冬至」にはほぼ同様の儀式を行うこととしたらしいことも書かれています。
(同上)
「隋制,正旦及冬至,文物充庭,皇帝出西房,即御座。皇太子鹵簿至顯陽門外,入賀。復 詣皇后御殿,拜賀訖,還宮。皇太子朝訖,羣官客使入就位,再拜。上公一人,詣西階,解劍, 升賀;降階,帶劍,復位而拜。有司奏諸州表。羣官在位者又拜而出。皇帝入東房,有司 奏行事訖,乃出西房。坐定,羣官入就位,上壽訖,上下?拜。皇帝舉酒,上下舞蹈,三稱萬?。皇太子預會,則設坐於御東南,西向。羣臣上壽畢,入,解劍以升。會訖,先興。」
「隋」及びその後の「唐」においても「隋」以前の「北周」「北斉」「南朝の梁」など先行する諸王朝の儀式等を総合勘案して作り上げたと考えることが出来るのではないでしょうか。
この「元會儀」についてはその次第を見ると、「羣臣及諸蕃客並集」という表現からも国の内外から多くの使者などを招いてのものであったと思われ、「賀正禮」と何ら変わらないように見えます。この事からも「白雉改元」の儀式に比喩として使用されている「元會儀」とその直前の正月朔日に行われた「賀正禮」が同じものであることが推測できます。
そうであればここに見える「賀正禮」が「隋」以前からの「元會儀」に則っていたという推測も十分可能となるものと思われ、「唐令」によるとは断言できないことはもちろん、だから「賀正禮」は行われていなかったというような短絡した結論はもちろん引き出せないこととなるでしょう。
このような「元會之禮」というようなものが「唐」時代に「賀正禮」として改めて決められたものと見られますが、「倭国」にどの段階で伝来・流入したかはさだかではないと思われ、一概に「唐制」によるとは考えにくいと思われます。
『養老令』には「唐令」の影響があるのはもちろんですが「唐」以前の「中国王朝」で行われていたものが『養老令』の中に遺存しているものが散見されるとされています。(※2)つまり「唐」以前の「令」が「唐」以前の倭国に伝来していたと見られ、『大宝律令』制定以前の段階で既に「倭国」である程度「令」として機能していたことを示唆するものです。つまり『大宝令』以前に「律令」らしきものがあったと見るべきこととなり、それに基づいた「元會之儀」が「賀正礼」様のものとして存在していたとしても不思議ではないこととなります。
ところで「伊勢神宮」の「元日朝拝」の儀式もこれに似ています。
「伊勢神宮」の「元日朝拝行事」においては「止由気宮儀式帳」には「卯の時」(午前六時)に「南門」の外で「禰宜」「内人」「物忌」等が「神宮拝奉」とされていますし、「皇太神宮儀式帳」においても同様に「正月朔日」に「禰宜」「内人」「物忌み」等が「南門」から入って「大神」を「拝奉」するとされます。
これらの「元日朝拝」の儀式は、後の宮廷儀式である「元日朝賀儀礼」(賀正禮)に見られるように、大極殿に出御した天皇を朝庭に列立した百官が拝賀するというものに対応するものと思われ、一般には「伊勢神宮」の年中行事は「天武」の時代に「浄御原宮」で始められたものがその後伝わったものとされています。
つまり、中央に祖型を持つものが殆どであるとされ、「元日朝賀」に関するものも「天武朝」時代以降に「伊勢神宮」に伝えられたものとされますが、「伊勢神宮」は「天武朝」には既に存在しているわけですし、それ以前から「日神」として「奉祭」されていたものと考えられます。
(用明前紀)
「詔曰。云々。以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀。是皇女自此天皇時逮干炊屋姫天皇之世。奉日神神祀。自退葛城而薨。見炊屋姫天皇紀。或本云。卅七年間奉日神祀自退而薨。」
ここで「用明」の「皇女」が三十七年という長きに亘って「伊勢神宮」で「日神」に奉仕していたことが記されています。つまり「日神」が「伊勢神宮」の主神である事が明示されているわけですから、「日神」であるならば「正月朔日」の「旦」(初日の出)を遙拝する儀式を行っていなかったはずがなく、「元日朝拝」という儀式は古来から行われていたものと考えて間違いないでしょう。
つまり、「宮廷儀式」と共通しているのは間違いないものの、「伊勢」と「宮廷」とどちらが「本家」かは即座に判然とはしないのではないでしょうか。一概に「中央」から「伊勢」へと言う矢印が必ず引けるものではないと思われます。
『推古紀』には「官位十二階」の制定と、その冠位を各人に賜与する儀式が「元日」に行われていること及びその場で「十七条憲法」が発布されていることなどを考えると、この時「元日朝賀」のような儀式が行われていたものと見られ、このことは「元日朝賀」という、「日神」を奉祭している伊勢神宮において重要と考えられる儀式の黎明が、『推古紀』ないしはそれ以前にあることを示しているといえるものではないかと推量されます。これらのことは、「伊勢神宮」の「行事」が全て一概に「天武朝」に起源を求められるものではないという可能性が高いと思われると同時に、「宮廷行事」に先立って「伊勢神宮」の行事が形作られていったという可能性を示唆するものです。
ところでこのような「節」の行事を過たず行うためには「暦」が必要です。暦が「七世紀初め」の時期にはあったであろうと言うことは「天体観測」と思しき記事が「七世紀初め」に現れることでも判ります。この段階以降(少なくとも)「王権」内部で暦が受容されていったことを示すと思われますが、この当時「伊勢神宮」の存在が「王権内」で重要視されるようになっていたらしいことが推察され、「伊勢神宮」における行事にも「暦」の使用が前提となっていったものと思料されます。それは「式年遷宮」という行事にも現れています。
これは「神殿」を二十年に一回作り替える行事ですが、当初は「十九年に一回」という周期であったことが明らかとなっています。この「十九年」という周期は「章」と呼ばれ「太陰暦」つまり月の運行と太陽の運行のずれが収束する年数とされています。その起点は十一月朔であり、この時点で冬至になる日を始まりとして十九年間が一サイクルとなっているのです。
「式年遷宮」が当初十九年に一回であったとすると、太陰暦に基づいてこの儀式を行っていたこととなりますから、伊勢神宮の祭祀の重要な部分は太陰暦の存在と切り離せないこととなります。
(※1)増田修「『倭国の律令』筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」市民の古代第14集1992年市民の古代研究会編
(※2)曾我部静雄「日中律令論」吉川弘文館
(※3)三宅和郎「古代伊勢神宮の年中行事」慶応大学学術リポジトリ
(この項の作成日 2013/09/08、この項の最終更新 2015/03/23)