ホーム:倭国の七世紀(倭国から日本国への過渡期):「難波副都」施行と諸改革:

日本版中華思想について


 一般に『天武紀』が「隼人」朝貢開始の時期とされていますが、それは『天武紀』が「天皇制」の開始、「律令」の施行など「絶対権力」の頂点に立った時期である、という「理解(というより「誤解」)があったからではないでしょうか。そのことについても『書紀』『続日本紀』の年次移動研究により全く別の理解に到達すると思われます。
 
 多くの学者等が(現在でも)「強い権力の発現」を『天武紀』に見ているわけですが、そう理解している理由のひとつが『天武紀』の「律令選定」記事であり、「史書編纂指示」の記事であると思われます。
 このようなことは「権力」の頂点を示すものであると理解され、そのため、『天武紀』が「古代日本」における「絶対権力」の現れた時期であると見なされていると考えられますが、そのような理解は「遣隋使」の派遣とその成果であるところの「国県制」の施行や「天子」号の自称及び「美濃戸籍」などに示された「隋」などの「北朝」の「戸籍制度」の導入などの諸改革が行われたのが「六世紀末」から「七世紀初め」であるらしいと考えられることと矛盾します。

 「官道整備」やそれに付随するように「土地」の「地割」が「官道」を基準にしている例が多数見られること、「池」「堤」の造成がこの時期に集中していることやそれに伴う「班田制」と思しきものが見られることなども併せ、この時代の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」とその弟王(難波皇子)のコンビによる「倭国支配」は、それまでの「王権」とは比べものにならない強力さを持っており、この時代に「統一権力」「絶対王者」が登場したと考えるのがある意味当然でもあります。
 この「年次移動」は「正木氏」が唱えた「三十四年移動」に該当すると思われるかも知れませんが、それは「偽装」「改定」の一部であったものです。しかし「絶対的権力」の発生時期との整合性を考えると「六七五年記事」は「六十年移動」されていると見るのが相当ではないでしょうか。つまり本来は「六一五年記事」であると推論できるわけですが、「六八一年記事」(下記)も同様に「六十年移動」して「六二一年記事」と推定可能となります。

「六八一年」十年春正月辛未朔己丑条」「詔畿内及諸國。修理天社。地社。神宮。」
「同年二月庚子朔甲子条」「天皇。皇后共居于大極殿。以喚親王。諸王及諸臣。詔之曰。朕今更欲定律令。改法式。故倶修是事。然頓就是務。公事有闕。分人應行。是日。立草壁皇子尊爲皇太子。因以令攝萬機。
「同月丙戌条」「天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。竹田王。桑田王。三野王。大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝紀及上古諸事。大嶋。子首親執筆以録焉。」
 
 このように「年次移動」して考えるのが相当とみられるわけであり、この記事の本来の年次は「六二一年」と考えられるわけですが、この年に「律令選定」と「史書編纂」「修理天社地社神宮」というように広範な事業を行なおうとしていたと考えられる訳であり、これらはいずれも「強い権力」の存在を前提にすべきものであって、またそのような存在による権力の行使が行われたことを意味するものです。
 特に「五十戸制」というものが「軍制」と強く関連していることが考えられます。つまり、「軍」の基本単位である「隊」の編成が「五十人」であり、これは「一戸一兵士」という基準があったものと思料され、それに基づく「徴兵」が成されたことが推測されるものです。
 これはこの時制定された「律令」には「軍」に関する規定(軍防令)のようなものがあり、それに基づいて「兵士」となるべき人々が徴集されたことを想定させるものですが、同時に「軍」に関する最高位のものとして「都督」が制定・任命されたことを示すと思われ、彼の元に「評制」とそれに基づく「軍団」が構成されたと考えられるものです。
 
 よく言われるように「蝦夷」「隼人」記事の出現は「(日本版)中華思想」の現れであり、それは「倭国中央」(一般には「近畿」とされる)を中心として列島の「東北」に居住する周辺民族と「南西」の周辺民族に対して「蝦夷」と「隼人」という「差別的用語」をかぶせて「呼称」とするという方法論自体がそれを表しているとされます。
 彼等は「基本的」に「まつろわぬ」人々であり、「征服」「馴化」されるべき人々であるとされているのです。
 このような「思想」が顕在化するのは何がきっかけなのでしょうか。それは「七世紀初め」という時期にその「淵源」があると考えられるものです。つまり、「阿毎多利思北孤」と、彼の「太子」という「利歌彌多仏利」の存在がそれを体現しているのではないでしょうか。
 彼の時代に「遣隋使」が送られ、その「返答使」として「来倭」した「鴻臚寺掌客」「裴世清」が携えてきた「隋の高祖」(文帝)からの「国書」に「倭皇」とありました。
 (以下その国書の内容)。

「其書曰。皇帝問『倭皇』。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐迩。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。」

 ここに「倭皇」とあるのはこちらから出した国書に「天皇号」を使用した明確な形跡と考えられるものです。(これを『書紀』編纂者が「倭王」とあったのを直したのだという説がありますが、そうは思えません。その直後には「朝貢」という用語が明白に残されており、「倭国」が「隋」に対して自らを「属国」の立場においていたことを示すものですから、「王」を「皇」に変えたところで大義名分が変わるわけではないからです。)
 この「倭皇」という用語については、外国(唐)からの正式な「国書」に記載されているのですからこれを軽視することは適いません。また、『旧唐書』の記すところによると「倭国自らその名の雅ならざるを憎みて」とあるように、「日本」と国名を改める以前は「倭国」と自称していたと推測されます。
 「国書」の「返書」に「倭皇」と書かれていると言うことは(この「倭皇」という表記自体が「異例」であり、他に例を見ないことからも)、こちらからの国書にそれに「類する」ことを自称したことが推察され、その自称の際には「倭国」というように「国」という文字が入るのが自然と考えられますから、「倭国皇」ないしは「倭国天皇」と自称したと推測されます。このうち「倭国皇」という「称号」はその字面自体が不審であり、「倭」の「国皇」ないし「倭国」の「皇」というような称号と理解するしかありませんが、「国皇」ないし「皇」というその称号のいずれも中国には「王」の自称としての「前例」がないものであり、これは「倭国天皇」と自称した(「国書」に書かれていた)ものを「唐皇帝」が「天」の字を外して「返書」に記載したと推察されるものです。(いってみればそれは「無言」の「拒否」であったかもしれません)
 このように「天皇」号を使用し始めることや国内を「六十六国」に分国し「国県制」を施行して、「統一王権」を「国内」に確立するなどの事業を行うには「強い権力」が必要であり、その国内における最初の「発現」は(「天武」をはるかに遡る)「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」に始まると考えられます。


(この項の作成日 2012/07/25、この項の最終更新 2014/11/30)