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「番匠」と「難波宮」造営


『養老令』には「丁匠」を定めた条文があります。

「賦役令24丁匠赴役条 凡丁匠赴役者。皆具造簿。丁匠未到前三日。預送簿太政官分配。其外配者。便送配処皆以近及遠。依名分配。作具自備。」

 この『養老令』の注釈書として知られるものに『令集解』があります。これは九世紀前半頃に「惟宗直本」という学者によって書かれた『養老令』の「私撰」の注釈書です。その『令集解』の上の「丁匠」条文に対する解釈が注目されます。そこには以下のように書かれています。

「其外配者、便送配所、謂西方民、便配造難波宮司也。以近及遠、謂先『番役』近国、次中国、次遠国也。」(『賦役令24丁匠赴役条』)

 この文章は、「条文」の後半に書かれている「其外配者」以降について、「(京)外へ配置する場合」は、「配所」に名簿を送るとされているようですが、ここの解釈について引用されている『古記』によればこの「(京)外」の地域とは「西方の民」の地域を指すものであり、「配所」とは「難波宮」を建設するための組織の元であるというのです。

 この『古記』とは『大宝令』の注釈書とされていますから、ここでいう「難波宮」とは「聖武」の「難波宮」ではないことは確かであり、『大宝令』以前のものである事から「七世紀代」のものであるのは間違いないところです。しかし、『書紀』では『孝徳紀』と『天武紀』の双方に「難波宮」記事があり、どちらを指すかは一見不明です。ただし『天武紀』に「律令選定」の記事があることから、これが『大宝令』に関する事であり、そのことから『古記』の記事は『天武紀』の「難波宮」記事について相当すると一般には思われているようです。しかし、これと齟齬する記事を載せるのが『伊豫三島縁起』です。ここには「孝徳天王」の時に「番匠」が始まったという記述があります。

「…卅七代孝徳天王位。番匠初。常色二(六四八)戊申日本国御巡禮給。当国下向之時。玉輿船御乗在之。同海上住吉御対面在之。同越智性給之。…」

 『伊豫三島縁起』は愛媛県越智郡大三島町に現在も所在する「大山祇神社」の創建伝承を伝えるものですが、その内容としての「卅七代孝徳天王位。番匠初。」という記事は『古記』の注釈の内容と重なるものであり、『古記』の内容が『天武紀』のことではないという証言ともいえます。

 「難波宮」記事は『孝徳紀』の方が詳しく、また『天武紀』であるとすると「副都」を造るという記事はあるものの「難波遷都」記事がないという不審もあります。「天武」は終始「飛鳥浄御原宮」に所在していたものであり、「難波」へ遷都した形跡がみられません。
 また「(六八二年)十一年…九月辛卯朔壬辰。勅。自今以後跪禮。匍匐禮並止之。更用難波朝廷之立禮。」(『天武紀』より)という記事も見られ、これは「難波朝廷」の時に採用していた「立禮」を改めて採用するということですから、明らかに「天武朝」以前に「難波朝廷」があったことを意味すると思われるわけであり、「天武朝」と同時代の「宮」として「難波宮」があったわけではないことを強く示唆します。

 また引用された『古記』をみると「西方の民」だけが「番匠」の対象となっているように見えます。この「西方の民」については特に注記等ありませんが、明らかに「西日本」というより「九州」地域を指すものと思われます。そもそも関連する用語として「鎮西」という用語がありますが、この語義については本来「西」を「鎮」するということであり、「西」「西国」というだけで「九州」を指す例の応用であると思われます。『書紀』の「西国」の例を見ると「天武」の時代のものが最古です。(以下の例)

「(天武)五年(六七六年)夏四月戊戌朔辛亥条」「勅。諸王。諸臣被給封戸之税者。除以西國。相易給以東國。又外國人欲進仕者。臣連。伴造之子。及國造子聽之。唯雖以下庶人。其才能長亦聽之。」

 ここ出てくる「西国」は「九州」を指すというのが定説のようです。(「白村江の戦い」などで九州諸国が疲弊したための救済措置と理解されているようです)
 このように「西」あるいは「西国」というのは「九州」を指し、それを「鎮」(「支配」)するという意味で「鎮西」という語が発生したと思われますが、いずれにしても「九州」を支配していたものが「九州内」にいた事を示すものであり、それが「大宰府」や「大宰」に意義が転じたものです。さらにこの「西」に関しては興味深い記事が『日本帝皇年代記』中にあります。

「丁酉(僧要)三 二月大星流 声如雷 東流 西朝無知者沙門僧旻曰此星曰天狗 東方恐有乱乎 果蝦夷叛」(『日本帝皇年代記』上より)

 ここでは「西朝」という表現が使用されており、これは明らかに「近畿天皇家」ではないといえるでしょう。「西」とは上に見たように「九州」を指す用語ですから、「西」の「朝」とは「九州王朝」を端的に指す表現といえるものです。
 この「西朝」という用語は『続日本紀』(『元正紀』)にも出てきますが、これは「平城京」に二つ存在していた「大極殿」に関わる表現と考えられますから、意味合いが異なると言えるでしょう。ただし、洞田氏や古賀氏が言及された「宝亀元年」の「歌垣」記事(以下のもの)に出てくる「にしのみやこ」という表現については、改めて注意が向けられるべきものと思われます。(『古田史学会報』二十六号一九九八年六月)

「宝亀元年(七七〇)三月辛卯【廿八】条」「葛井。船。津。文。武生。蔵六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並著青摺細布衣。垂紅長紐。男女相並。分行徐進。歌曰。乎止売良爾。乎止古多智蘇比。布美奈良須。爾詩乃美夜古波。与呂豆与乃美夜。其歌垣歌曰。布知毛世毛。伎与久佐夜気志。波可多我波。知止世乎麻知弖。須売流可波可母。毎歌曲折。挙袂為節。其余四首。並是古詩。不復煩載。…」

 ここで問題となった「歌垣」で詠われたという「古詩」は「一音一語」という「初期」の形式の万葉仮名で書かれており、「古詩」という名にふさわしいとも言えます。(『万葉集』にもほとんど見られないものであり、また「不復煩載」とはこのような「一字一音」表記が「煩わしい」という意味ではないでしょうか。書かれてあったものを書き写したと見られ、その作業が煩瑣であるという事と理解できるものです。)
 通常このような表記法は「柿本人麻呂」以前のものであると考えられ、その場合「七世紀」代まで遡上するという可能性もあるわけですが、その場合上の「西朝」とそれほど時代が異ならないという可能性も出てきます。(たとえば『書紀』『古事記』においては全ての歌謡は一字一音で表されており、また借訓がありません)
 但し「難波宮」遺跡から出土した「はるくさ木簡」では「は」の表記として「波」ではなく「皮」が使用されています。さらに「と」「し」の表記も異なります。この歌垣の古詩では「はるくさ木簡」の「刀」に対して「止」、同じく「斯」に対して「志」というように使用字が異なりますが、「と」の表記に「止」を使用しているのは「訓」であり「音」ではありません。(借訓字)一般には「音」で表記している方が古いとされており、「はるくさ木簡」の方が先行していると言えるでしょう。
 「はるくさ木簡」に関していうと「難波宮整地層」のさらに下の層からの出土でしたから(第七層)、「七世紀半ば」をさらに遡上するという可能性があると思われますから、それよりこの「古詩」が新しいとしても「七世紀半ば」程度までの遡上は想定すべきかも知れません。

 ここで「にしのみやこ」を褒めそやしているということから、この古詞は「近畿王権」が「倭国九州王朝」という統一王権の支配下にあった頃に「賛歌」として作成されていたものという可能性も出てくるでしょう。そうであれば時期として「七世紀半ば」と言うことと考え合わせると、「白雉改元」付近を想定すべきものかも知れません。つまり、「にしのみやこ」とは「副都」である「難波宮」から見た「首都」である「筑紫京」を指すと考える事ができると思われます。
 また、この「古詩」自体が「にしのみやこ」に対する「賛歌」ですから「よろずよのみや」という表現についても「願望」ではなくいわば「眼前」の事実を表した表現であると考えられ、古から続く「筑紫」の歴史を端的に表現したものと言えるのではないでしょうか。

 この「丁酉」条の記事中の「僧旻」は『書紀』では「高表仁」の来倭に伴って「唐」から帰国したとされていますが、「高表仁」は「倭国」からの「遣唐使」に対して派遣された「唐」からの「使者」ですから、彼が赴いた先は「倭国」であるのは当然であり、彼と同行した「僧旻」についても「倭国」に到着したものと考えられます。つまり、その「倭国王朝」に対して『帝皇年代記』では「西朝」という呼称がされていることとなりますから、「倭国王朝」は即座に「九州王朝」であったことを示すといえるのではないでしょうか。

 また「番匠」に関して言うとそれが「西方の民」つまり「九州」の民を集めて建築に当たらせるということの意味として、諸々の「技術」の点で「九州」を中心とした「西国」が先進的であったことの反映であることを意味し、「寺院」を初めとする「木造建築」に関する総合的な文化が「九州」を中心に花開いていたことを示すと思われます。しかし同時に用語として使用されている「配所」とは通常「犯罪を犯した人が流される(配流)場所」を示すものであり、これはこの「番匠」という制度そのものが本来「刑罰」の一種であった事を示唆するものであり、「西方の民」つまり「九州」の人々がこの時の「新日本王権」に対して異議を唱え反抗し屈服させられた歴史を示すものではないかと推量されます。
 『獄令』によれば「徒罪」や「流罪」の場合いわゆる「強制労働」が課されており、その内容は本来は「近畿」のものは「京師」で「役」に従事し、諸国は「国内」で「役」に従事すると定められていましたが、この「丁匠」の場合「配所」という用語が使用されているところから判断して元々「流罪」に対する「配流」の地を意味するものであり、この条文中ではそのような人々を集めて「番匠」としたと解されます。

「獄令18犯徒応配居役者条 凡犯徒応配居役者。畿内送京師在外供当処官役其犯流応住居作者。亦准此。婦人配縫作及舂」

 以上のことは「難波宮」が「七世紀半ば」付近で「九州」を中心として「西日本」の人々の「強制労働」の産物として造られたことを意味しているといえますが、別のこととして、この「難波宮」造営時にすでに「律令」(大宝令)が存在していたことを推定させるものであり、それは『続日本紀』の記事には年次移動があるとする当方の立場を補強するものでもあります。


(この項の作成日 2017/05/13、この項の最終更新 2017/05/17)