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隼人と蝦夷に対する圧迫


 「正木裕氏」による「三十四年遡上」研究のまな板に載せられたものに「持統」と「斉明」の「蝦夷関係」記事がありますが、この記事と同じ文脈の中に「隼人」記事が現れます。
 「蝦夷」関連記事が実際には「三十四年遡上」すると考えた場合この「隼人」関連記事についても「斉明紀」に遡りうる性質のものと考えられることとなるでしょう。
 以下に『書紀』の中で現れる「隼人」記事の内「斉明紀」以降について書き出してみます。

(イ)斉明天皇元年(六五五)是歳。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。(百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人。)蝦夷。隼人率衆内屬。詣闕朝獻。新羅別以及■彌武爲質。以十二人爲才伎者。彌武遇疾而死。是年也太歳乙卯。

(ロ)天武十一年(六八二年)秋七月壬辰朔甲午。隼人多來貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
丙辰。多禰人。掖玖人。阿麻彌人。賜祿各有差。

(ハ)天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午。大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。

(二)朱鳥元年(六八六年)九月戊戌朔丙寅。僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。

(ホ)持統元年(六八七年)(中略)
五月甲子朔乙酉。皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉。於是隼人大隈阿多魁帥。各領己衆互進誄焉。

(へ)秋七月癸亥朔(中略)
辛未。賞賜隼人大隅。阿多魁帥等三百卅七人。各各有差。

(ト)持統三年(六八九年)(中略)
壬戌。詔出雲國司。上送遭値風浪蕃人。是日。賜越蝦夷沙門道信佛像一躯。潅頂幡。鍾鉢各一口。五色綵各五尺。綿五屯。布一十端。鍬一十枚。鞍一具。筑紫大宰粟田眞人朝臣等獻隼人一百七十四人。并布五十常。牛皮六枚。鹿皮五十枚。

(チ)持統九年(六九五年)(中略)
五月丁未朔己未。饗隼人大隅。
丁卯。觀隼人相撲於西槻下

 このうち(イ)の「六五五年」記事では「内属」という用語が使用されています。この語はそれまで「倭国」の版図には入っていなかった領域が「倭国」に組み込まれたことを示すものですが、それはそれ以降に「朝貢」記事(ロ)が来ることとなるという事実と矛盾します。
 「朝貢」という用語は本来「皇帝」(天子)の統治領域の「外」からの貢献という意味であり、「朝貢」する国は言ってみれば「外国」です。そう考えると、内属した地から朝貢があることとなって外交上の矛盾が現れるわけです。このことは「記事」の配列に問題があると思われ、『天武紀』記事が日の本来の位置から移動されていると考えると整合すると思われるわけです。
 
 また、(ハ)の記事では「隼人」の有力者と思われる人物である「大隅直」に対して「忌寸」という「姓」が与えられています。
 ここに書かれた「大隅」の「忌寸」以前の姓である「直」は、そもそも「倭国中央」から見て「辺境」といえる地域の有力者に対して(半ば一方的に)「付与」される「姓」であったものであり、このような「姓」を与えることにより「倭国」は「辺境」を自らの「勢力下」に置くという政策を行っていたと思われます。
 このような称号(姓)を付与された勢力は「東国」に多いものですが、「大隅」のような「九州東南端」地域にある者に対しても使用されることとなったものです。
 ただし、このような政策は「倭国」側からの「イニシアティブ」により行われたものと考えられ、「隼人」側にはある意味苦しい選択であったかもしれません。
 「倭国」から見ると、「内属」させることには当然多くのメリットがあると言えます。第一に「国境」に対する「警戒」をそれまでほど厳重にする必要がなくなることが挙げられます。
 それまでは「外国」であり、「隼人」達の動向は警戒しながらも推測するしかなかったものが、支配下に入ったことにより、行動のコントロールが容易となるわけですから、「対隼人」戦略全体に注ぐエネルギーを減らすことができます。そして、その分を「九州」の北方からの脅威に振り向けることができる事となるわけですから、戦力の有効利用が可能となるものです。

 これら『天武紀』記事についてもっと遡上するという可能性を考えると、「斉明紀」の「六五五年」記事よりも以前のこととなると思われるわけですが、これは「倭国」全体としての軍事上の政策の一環と考えられ、「対新羅」などの戦略を進めるために「背後」を固めるためものであったと思われるものです。
 「六五五年」以前の外交情勢を見ると、「六四八年」には『旧唐書』によれば「新羅」に「表」(国書)を託して「唐」との間の外交を正常化する努力をしていた時期でもあります。また「新羅」からも「金春秋」を迎え、「対新羅」「対唐」という外交の難局を好転させるべく外交努力を傾注していた時期ですが、そのような時期に「南方」の「隼人」という「未服の民」を「馴化」させておくことは、「外患」を前にして「内憂」を除去しておくという政治の基本的スタンスの現れであったかと推測されます。そして、その「対隼人」という面の中心的役割をしていた「軍事施設」が「鞠智城」であると考えられます。
 この時期は「大野城」の柱の年輪年代測定で明らかになった「伐採年」も非常に近く、『続日本紀』で「鞠智城」は「大野城」などと一緒に「繕治」記事がありますから、「創建」もほぼ同時であったのではないかと類推されていますが、この時期に「隼人朝献」があったとすると、「鞠智城」の存在とこのような外交活動が連係していると考えるのは自然です。

 従来これら「隼人」関連記事の中で、『天武紀』(六八一年)記事が信頼の置ける最古のものであるとされており、これ以降「隼人」は「朝貢」をするようになったものであり、その後次第に「ヤマト王権」に組み込まれていくという文脈で語られることが多いのですが、そう考えざるを得なかったのは「朝貢」記事よりも、「内属」記事の方が「年次」的に先行している点が「不審」であったからではないかと推測されるものです。しかし、上で見たようにこの点については「三十四年遡上」仮説の援用により「整合的解決」が見られることとなり、「天武朝」に拘泥する理由のひとつは消滅したこととなります。

 また、「南九州」に多く残る「地下式横穴墓」(地下式土擴)についても、これが「隼人」の「墓」であるという考え方も以前はあったようですが、最近はそれも否定され、「隼人」と直接結びつくものではないとされることが多くなっていたようです。その理由として挙げられるもののひとつが上に見た『天武紀』以降が「隼人」の時間帯であるという考え方であり、「地下式横穴墓」は「考古学的」には、「五−六世紀」中心の遺構であり、どんなに下っても「七世紀半ば」であるとされていますから、歴史上の「時間帯」が食い違っていると考えられていたわけです。
 しかしそれについても、「隼人」が「内属」した時期が「七世紀」の半ばとなると、そのことと「地下式横穴墓」の消滅とが「関連している」と考えられるものであり、推測に拠れば「倭国体制」に組み込まれた時期以降は「地下式横穴墓」形式の「墓」は顧みられなくなり、「円墳」などに取って代わられることとなったと思料します。それも「自ら選んだ」と言うより、「選ばされた」ものと思料され、「五世紀」代の「近畿」以東における「前方後円墳」の強制と同様の事象が「南九州」で起こっていたのではないかと思料されるものです。
 これらのことから「大隅直」が「忌寸」姓を「付与」された時点付近で「大隅国」が形成されていたかも知れません。他の地域に於いても「直」や「忌寸」がいるところは、「倭国」の内部の「諸国」とし存在していたと考えられますから、少なくとも「忌寸」段階での「国」形成を想定することは可能であると思われます。そうであれば「評制」がこの段階(あるいはもう少し後という可能性もあります)で施行されたということも充分考えられます。『続日本紀』によれば「大隅国」の成立はかなり後の事になるとされていますが、それは既に「大隅忌寸」が存在していることと矛盾します。これらのことから「大隅国」の成立はもっと早期の時点を想定すべきことと思われます。また、そうであれば「大隅忌寸」はその「国宰」として存在していたものと考えられることとなります。


(この項の作成日 2012/07/25、この項の最終更新 2014/11/28)