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「難波朝」と軍制


 『養老令』の軍制と「戸制」の人数には関係があるという議論があります。
 つまり、『養老令』(軍防令)では「軍」の基本構成単位である「隊」の編成人数が五十人とされており、またその下層単位として「伍」(五人)と「火」(十人)というものがあるとされています。
 これらの兵員数の体系が戸籍に見る里(さと)の「五十戸」などの「五保制」と関係しているというわけです。すなわち、「戸」-「保」-「里」という「戸制」の体系と、「兵士」-「伍」-「隊」という軍の体系とが対応しているという考え方です。
 このことから「一戸一兵士」という「徴兵」の基準があったとされるわけですが、これに対しては「軍防令」の「軍組織」はもっぱら「唐制」によるものであり、それもかなり後代に取り入れたものであるのに対して、「戸制」の制度については「五十戸」制等が「七世紀後半」を示す年次を伴った「木簡」から確認されるなどの点においてかなり先行するとされ、「軍防令」と「戸制」の対応についてはその意味から疑問とする考えもあるようです。

 確かに「唐制」には「府兵制」という制度があり、そこでは「正丁」三人に一人の割合で「兵士」を徴発し、それが五十人で「隊」を成し、さらにそれが四つ集まると「国」となるとされ、それらは「折衝府」という「役所」に集められたとされています。そしてその集められた兵員数に応じランク付けされていたものです。
 「我が国」の「軍防令」についてはこの「唐制」を「模倣」したものであって、「戸制」との関連づけを認めないという考え(反論)もあるようです。
 しかし、「軍防令」が「唐制」によるものであり、『大宝令』以降に定められたものであるという考え方は、「六五〇年後半」から「六六〇年前半」という時期に、「百済」を巡る戦いに際して「倭国」から大量に「軍」を派遣していること、その時点では「軍制」が存在していると考えざるを得ないことと「矛盾」しているといえます。
 「軍制」等「軍事」(軍隊)に対する何の定めもなかったとすると、「軍」を編成して国外に派遣するなどのことが可能であったとは思われません。このことは「当然」それ以前から「軍制」があったと考える必要があることとなるでしょう。
 そこで注意すべきものは「難波朝」以前に「八十戸制」から「五十戸制」に変更されている点です。
 
 『隋書俀国伝』で示されているように「倭国」では「六世紀末」の「遣隋使」派遣以前という段階において「八十戸」という戸数を基礎とした「行政制度」が施行されていたものと見られます。そこでは「伊尼翼」という「官職」様のものに「属する」として「八十戸」という戸数が示されています。この「伊尼翼」や「軍尼」というような「官職制度」は現在全く残っておらず、また「八十戸制」についてもこれが「どのような」制度のものなのか、「いつから」「いつまで」続いていたのかという重大な部分が欠落しているのが現状であり、これについては明確な「国内資料」(「金石文」「木簡」など)がいまだ発見されず、「五十戸制」の始まりの時期と共に「八十戸制」の詳細は「不明」となっています。
 また「五十戸制」の始源が「隋」にあると考えられることから、「五十戸制」そのものは「遣隋使」以降であることは明確と思われ、「六世紀末」がその始原の時期として考えられます。少なくとも「飛鳥京」から発見された遺跡から「大花下」木簡と共に出土した「白髪部五十戸」木簡に「己酉年」という表記があり、これは通常「六四九年」と考えられていますが、上の推論から云えば「五八九年」という可能性も考えられるところです。
 
 またこの「戸制」について「改新の詔」の中に「仕丁」の徴発基準として「旧は三十戸」という表記があり、この事から、「五十戸制」以前は「三十戸制」であったと考える向きもあるようです。しかし、『隋書俀国伝』に示された時点(これは実際には「開皇年間と思われることとなったわけですが)という段階での「八十戸制」を疑うことは困難であり、そう考えると「阿毎多利思北孤」の制度改革により「国県制」が施行された段階(六世紀末か)で改定されたと考えるしかなくなるわけですが、この時の「阿毎多利思北孤」は制度改革の多くを「隋制」によっており、その「隋」に「三十戸制」というような「編戸」が存在していなかったと見られることから、この段階でそのような改定を行ったと見ることはできないと思われます。
 また、このように「戸制」が「行政制度」の一環と見れば、より「網」が細かい「三十戸制」が「五十戸制」以前に成立していたとは考えにくいといえます。そのような制度確立には「強力な」王権が必要と考えられ、そのようなものがこの「倭国」に出現したのは「阿毎多利思北孤」及び「利歌彌多仏利」という「初めて」「倭国」を統一したと言えるような「権力者」が現れた時点がふさわしく、この「六世紀末」という段階において「隋」から「五十戸制」を学んで「施行」したと考えるのが最も合理的と思われます。

 このように「隋」から各種の情報を得ていたわけですが、その「隋」には「評」という制度・官職は存在しておらず、あきらかに「評制」は「隋」からではなく「半島」からの情報に拠ったものと見られます。それは同時に「七世紀初め」という時期からかなり異なる時期の施行である事を示すものと思われます。(相当以前から「評制」は「一部」ではあるものの、国内に施行されていたと考えられる)
 その「評制」については「軍事」的要素が強いとされますが、そうであるなら、その「評制」の軍事的意義が強調されるようになったのは「五十戸制」及び「戸籍制度」が「隋」から導入された以降のことではなかったかと考えられます。
 そもそも、これら「人民」を「兵士」として徴発し、動員するためには「戸籍」の存在が「必須」ですが、「岸俊男氏」の研究(※)によれば、「大宝二年戸籍」による「女子」年齢別人口は「十歳」ごとに人口が増加しているように見え、これは「十年ごと」の改籍の際に一括して追記された可能性があるとされています。
 その中の「生年」で見てみると女子の人口が多いとされるのは「六三一年」から始まり(このことからその十年前にも造籍が行なわれたものと推察できます)以降十年ごとにピークが来ます。
 これより古い生年の記録が見当たらないのは、当時の長寿の方でも八十歳程度ではなかったかと考えられることと関係していると思われ、そのことはこれ以前に「戸籍」がなかったということを意味するものとはいえないこととなります。それを示すものは「五六九年」に「吉備」の「白猪」という地区において「丁籍」が確定したらしいことが『書紀』に書かれていることです。

(五六九年)卅年春正月辛卯朔。詔曰。量置田部其來尚矣。年甫十餘脱籍兔課者衆。宜遣膽津膽津者。王辰爾之甥也。檢定白猪田部丁籍。
夏四月。膽津檢閲白猪田部丁者。依詔定籍。果成田戸。天皇嘉膽津定籍之功。賜姓爲白猪史。尋拜田令。爲瑞子之副。瑞子見上。

 ここでは十歳以上について「籍」から脱落している例があるとして、「戸籍」と現実の家族関係を照合して「確定」させる作業が行われた模様です。このことは「十年ごと」に戸籍の整備が行われていたことを示し、それが「隋制」に基づく「戸籍」導入後も同じタイミングで戸籍が整備されていたらしいことを推察するものです。
 この「吉備」における「戸籍」の整備作業に引き続き、各地区に「戸籍」が整備されていったものと思われ、「筑紫」においても同様に「戸籍」が整備され「班田」の関係で女子についても登録が行われるようになったものと思われ、それらの作業によりデータの上で人口ピークが形成されることとなったと思われます。
 この「吉備」段階では、当然「遣隋使」以前ですので「五十戸制」はまだ導入されておらず、「八十戸制」であったものと見られますが、その後「遣隋使」以降「五十戸制」が導入されるとそれに「軍事」的意義が付与され、「軍制」と関連させられることとなったと考えられるものであり、ここにおいて「常備軍」の創設が行われたものとみられます。

 「評」の戸数については、『常陸国風土記』に「評」の新設を上申した文章があり、その記載から「七百余戸」程度であったと考えられ、それは『隋書俀国伝』から推測される当時の「軍尼」の管轄範囲の戸数が「八百戸」程度になる事とも大きく異ならないと考えられます。
 その「評」の戸数が「七百五十~八百」程度であることと、「唐」で設置されたという「折衝府」の平均的兵員数(八百人)とがほぼ等しいのは偶然ではなく、「評」に「折衝府」的意味合いが持たされるようになったということではなかったでしょうか。
 また、この「軍制」では「正丁三人に一人」程度の割合で徴兵するとされていたようであり、国内的にはそれがそのまま行われたものかは明確ではありませんが、「大宝二年戸籍」の中の「三野国戸籍」では多くの「戸」において「正丁六人以上」の「戸」からも「兵士」は「一名」だけしか「徴発」されていないことが確認されることから、「唐制」をやや「緩和」して「一戸一兵士」という基準が国内に適用されていたと考えられるものです。
 また、『持統紀』に記された「点兵率」(正丁の中から兵士を徴発する割合)として考えられる以下の記事については、「正丁四人から一兵士」ということが書かれているとされ、この基準はそのまま『大宝令』にも受け継がれたものと考えられているようです。

(参考)「持統三年(六八九年)潤八月辛亥朔庚申。詔諸國司曰。今冬戸籍可造。宜限九月糺捉浮浪。其兵士者毎於一國四分而點其一令習武事。」

 そして「軍防令」の「正丁三人から一兵士」という基準は「唐制」の模倣そのものであって、実質的には「最低基準」として機能したと考えられるとされています。
 このように「正丁四人に一人」という基準が「難波朝」でも実施されたとみられますが、それは上で見たようにほぼ「一戸」から「一兵士」を徴発する事と「大差ない」ものであったと見られ、それは「評」の戸数とその「評」から徴発される「兵士数」がほぼ等しいことを推定させるものです。

 以上のことを想定すると前述した「百済」を巡る戦いへの派遣軍について「不審」とすべき事があると思われます。それは「白村江の戦い」への派遣の人数として「二万七千人」という数字が見えていることです。
 前述したように「三軍構成」で組織され、その各々が「九千人」程度であったと考えられるわけですが、何か数字が「半端」であると思うのは当方だけでしょうか。
 なぜ「三万人」ではないのか、なぜ一軍一万人で構成されなかったのか。そう考えた場合、「折衝府」たる「評」に集められた「兵員数」が「平均七五〇」名であったとすると、それを足していくと「一万人」にはなりにくいことが分かります。
 「軍」が「評」単位で編成されたことは「軍防令」(兵士簡点条)にも「兵士を徴発するにあたっては、みな本籍近くの軍団に配属させること。隔越(国外に配属)してはならない。」という意味の規定があり、そのことからも明確となっていますが、その「評」に集められた「人数」が「七五〇人」程度であったとすると「軍」の兵員数も「七五〇」の倍数になるという可能性が高いと思料され、「切り」のいいところ(千位のフルナンバー)になるのは「九千人」(七五〇×十二)であると推定されます。つまり、この「九千人」というのが「原・軍防令」とでもいうべきものの中に「定員数」の基準として存在していたものであり、そのため「三軍構成」の場合の「一軍」が「約九千人」なのではないかと推測できるのです。
 つまり、後の「軍防令」では「軍団」は「千人単位」ですが、「原・軍防令」では「七五〇人」つまり「評」単位で「軍団」が形成されていたのではないかと推定されるものです。

 以上考察したように「五十戸制」が「軍制」と関連していると考えられるわけであり、そのため「里」の戸数として「五十戸」を大幅に超えるような「里」編成は想定しなかったし、実際にも行なわれなかったと見られます。つまり「一隊」が「一里」に対応していると思われ、「一里」に五十戸以上戸数があるとその分は「別の隊」に組み込まざるを得なくなって、その結果他の「隊」の編成に影響を与える可能性が出て来かねません。
 「一里八十戸制」時代は「軍制」の規定が「未整備」であったと見られ、その結果「八十」をかなり上下する里もあったものと見られます。(つまり八十という数字は「平均」に近いものか)そのような場合「仕丁」の徴発基準を「八十戸から二人」というように「固定的」に考えると、実際に徴発される「仕丁」の数は「里」ごとに「不均衡」というより「不公平」が出る可能性も考えられます。
 そうならないようにするには「八十戸以下」の場合はどうするか「八十戸を超えたら」どうするかを決めておく必要があるわけであり、もっとも合理的なものは「三十戸」から一人と決めることだったのではないでしょうか。
 こうすると九十戸ある場合は「三人」出せば良いし、「六十戸」から「九十戸」の間は二人、もし「六十戸」以下ならば一人というように「柔軟」な対応(徴発)が可能となると思われます。このことが「改心の詔」の中に「三十戸」という戸数が現れる原因となっているのではないかと推察します。


(この項の作成日 2012/08/12、最終更新 2020/01/02)