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コラム「○(まる)と×(ばつ)」


 「○」印はなぜ「まる」と読むのか、なぜ「良い」という意味があるのか、また「×」をなぜ「ばつ」と発音し、「悪い」という意味があるのでしょうか。
 この「○」印と「×」印に「良い」「悪い」あるい「プラスイメージ」「マイナスイメージ」を持っているのはほぼ日本人だけであり、それは私たちが「祖先」から受け継いで今に至りなお身につけた「感覚」であると思われます。

 この「○」と「×」はいわゆる「記号」ですから、「抽象化」されたものであるのは当然です。つまり、本来「具体的」な「何か」を表していたものが、「抽象化」「単純化」され本質的な形象だけが残存、抽出されたものと考えられます。
 考えられる「○」印の「本来形」として一番可能性のあるものは「太陽」ないしは「月」(満月)であると思われます。これについては「発想」が容易であり、多くの人にとって受け入れやすいものでしょう。
 ただし、「満月」は月に一回しかこないわけであり、その意味では「太陽」に比べ「人間」にとっての「馴染み」の程度が違います。
 また、古代において「太陽」の「光」を反射してまばゆく光り、「第二の太陽」とでも言うべき存在であったと考えられる「鏡」もまた「太陽」と「同一」の表象を意味するものと考えられたものと推察され「○」印の本来形であったと考えられますが、その「鏡」はまた「天皇家」にとっては「神器」でもあります。
 そう考えると「○」印は本来、「太陽」を表わし、それが「太陽神信仰」を通じて「現在」の「天皇家」に繋がっているものと考えられ、それが「良い」という意味を持つようになるとするとある意味理解しやすいものです。
 ところで、そう考えると、「鏡」ないしは「太陽」が「○」印に変わる時点、またそれに「良い」という意味や価値が与えられた時点というのはいつのことでしょうか。言い換えると「天皇家」が「鏡」を「神器」とする時点、つまり「太陽神」信仰を前面に出してくるのは、どの時点の事でしょうか。それは『書紀』による「天孫降臨神話」成立以降であると考えられるものです。
 「天孫降臨説話」の中では「天照大神」から「支配すべき」として「皇孫」が天下ったというように書かれており、「天照大神」が事実上の最高神として登場しており、明らかに「太陽神信仰」を背景とした説話であると考えられます。

 「難波朝廷」の時代(白雉年間)に東国など諸国に「神社」が多く創建された記録がありますが、その「祭神」とされるものはかなりの割合で「宇迦之御魂神」とされています。この神は「稲荷大神」と同一視されていますが、「記紀」の「神話」では「主役」を占めているわけではありません。この神は「神話」では「素戔嗚尊」の子供とされています。さらに「母方」の祖父は「大山祇神」であり、この神は「伊弉諾・伊弉冉尊の子供」とされています。このように「近親」に「重要」な「神」はいるものの、彼自身を主人公にする何らかの「説話」があるわけではありません。にも関わらず、そのような「神」が各地の祭神として神社に鎮座していることや、「伊勢神宮」に伝わる『神道五部書』によれば「伊勢神宮」においても「ウカノヒコ」が「祭神」として祭られていたことが書かれており、この時点では「太陽信仰」の「主役」とは言えない(しかも男性神である)「神」が「公的」な「神」として前面に出てきていたものです。(現在「外宮」に「豊宇気比売大神」として祀られているのがそうであるとされます)
 このことから、「太陽神」信仰が確立したと考えられるのは、「伊勢神宮」の祭神が「ウカノヒコ」(男性神)であったものを、女性神である「天照大神」へ切替えを行なった時点の事と考えられます。
 そして、これは通常「八世紀」の「文武」以降であると考えられるものであり、「持統」−「文武」という「祖母」と「孫」という組み合わせを「神話」の世界に「敷衍」したものがこの時点で作られたものと考えられています。
 すると結局、「○」印は「現在」の「天皇家」に繋がる「新日本国王朝」を指すものと思われ、その始原は「八世紀」以降であると考えられるものです。そして、これに対し「良い」というイメージを持たせ、「まる」と読み下す事になっているのは「権力」による「人為的」なものであると考えられ、その「新日本国王権」のなせる技であろうと考えられるものです。
 (「まる」という「言葉」自体は「古い」ものであり、「古来」からの純粋な日本語であると思われ、その意味するところは「自然」で「破綻」がなく、「完全」であり、「全てを包含する」というものであったと思われます。)
 このように「○」印が「権力」により「新しく」造られ、意味を持たされたと考えると、それと「対」で考えられる「×」印についても同様に「新日本国王朝」による「人為」ではないかということが考えられるでしょう。

 「×」は「ばつ」と読み下されているわけですが、そもそも本来の日本語には「語頭に濁音がこない」というのが「定説」となっています。その意味でもこの「ばつ」という言葉が「外来」のものであることは明白であると思われます。そして、そうであれば「ばつ」という言葉(音)は後代になって国内に導入されたものとなり、該当するものとしては「罰」という漢語が想定されるでしょう。
 また、この「×」が「罰」であるとすると、その発音が「ばつ」であることから、「呉音」ではなく、「漢音」であることも判ります。(呉音では「ばち」となるはず)
 そのような思惟進行が正しいとすると、国内に「罰」という言葉(音)が導入されたのは「唐」と本格的国交が樹立され、「遣唐使」の往来が活発となった「八世紀」以降に発生した言葉であることとなり、また概念であると推測できるものです。
 もっとも、「罰」という言葉や概念は「中国」では紀元前からあったものであり、(史記などにも散見されます)その後「律」が制定されると、それに対応するものとして「規定」された概念であると考えられます。

 「前漢」の「武帝」時代に、半島に「帯方郡」を設置して以来、「倭国」でも多くの「国」が「建国」されたと考えられ、それらの中には「邪馬壱国」のように「中国」と深い関係を築き、各種の制度を導入したと考えられる国もありました。
 その後「西晋」が「匈奴」「鮮卑族」により滅亡し、揚子江以南に移動して「南朝」を創始した際にも「倭国王権」は交流を継続しています。そのような「臣事」する体制を継続した要因として、「発音」が以前と変わらず、「同じ」(共通)であったことから、これを「同一」の王朝と見なしたとも考えられます。その「発音」が「日本呉音」とほぼ等しいとされてますから、「罰」という言葉を「漢音」として受容している現実は、この「罰」という言葉と「発音」を受容したのはこれらの時代のことではない、と言うこととなるでしょう。その意味からも「八世紀」以降のものという推定が可能でしょう。

 また、それは「当時の倭国」に「罰」という概念に似たものがなかったことを意味すると考えられます。これが受容されるのは仏教の伝来により「戒律」という観念が導入された事と関係があると思われます。そして、その後「律令」が制定され、中国と同様「律」との対応概念として「罰」が認識され、受け入れられることとなったものではないでしょうか。
 つまり「×」という記号に「ばつ」という読みが与えられ、意味が「罰」と同じ「あってはならないこと」あるいは「天から拒否されていること」とされ、この「×」印についてはその後「蔑み」の対象となるのは、それに引き続く時代のことと考えられ、これは「○」(まる)の発生が「八世紀」以降であると考えると、それとほぼ同時期であったという推定が可能でしょう。
 但し、このことは「×」印そのものの発生が「八世紀」以降であると言っているわけではありません。あくまでもその「読み」が「ばつ」であり、それを「良くないもの」という「概念」が与えられたのが、「八世紀」以降であると言っているのです。
 つまり、何らかの理由によりそれまでも存在していた「×」印について、この時点で「悪」という「烙印」が押されることとなったけです。

 「○」は「太陽」であると考えたわけですが、ではこの「×」印は本来何を意味するものであったでしょうか。「八世紀」以前には「×」印は確かに存在していました。例えば「出雲荒神谷遺跡」からは「三五八本」という多数の「銅剣」(銅矛?)が出土しましたが、その大半に「×」印と思われるものが付けられていました。つまり、この「弥生」という時代ですでに「×」印が存在し、それに何らかの「意味」があったものです。
 以前はこの「×」印などの起源について「新しい」(明治以降)という説が従来ありましたが、それはこの「銅剣出土」で破綻したといえるでしょう。明らかにそれらの説では「弥生時代」の遺跡から「×」印が出ることを説明できないのです。
 この「×」印というものは「何か」を交差させた形であるのは確かです。候補に挙がるのは家紋にも使用される「鷹」などの「鳥」の「羽」や、「矛」「剣」「杖」「鎌」他「何か棒状のもの」などでしょう。
 このような中で現在でも「悪い」という意味合いで使用されているものは特に見いだせず(「鷹の羽」や「剣」や「鎌」などを交差させた「家紋」は存在していますが、「良くない」という概念が付随するわけではありません)、どの「形」が当時「悪」というイメージで扱われたものかは推定しにくいのは事実です。
 しかし、そのような中である「紋」の存在が指摘されています。それは「矛」を交差させたものであり、「出雲大社」の「紋」とされているものです。また「出雲大社」の分社と考えられる「諏訪神社」で行われる「御柱祭り」の「御柱」にも(以前)は「×」印が付けられていました。この事から「×」という印には「出雲」を指し示す意義があったのではないかという推測が可能でしょう。

 これと関係があると考えられるのは「祇園祭(祇園御霊会)」です。
 『三大実録』や八坂神社の社伝である『祇園社本縁録』などによると「祇園祭」の発祥となったのは「貞観地震」の発生(八六九年五月二十六日)であったと考えられ、地震発生の「十二日後」の「八六九年六月七日」に「御霊会」を行うように「勅命」が出されています。

「貞観十一年、天下大疫の時、宝祚隆水、人民安全、疫病消除鎮護の為に、卜部日良麻呂、勅を奉じ、六月七日、六十六本の矛を建てる。長さ二丈許。同十四日、洛中男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神泉苑に送り、以って祭る。是を祇園御霊会と号す。爾来毎歳六月七日、十四日、恒例と成す。」(『祇園社本縁録』より)

 「朝廷」(清和天皇)はこの時の地震を、「八坂神社」の祭神であり「薬師如来」の化身である「牛頭天王」(「素戔嗚尊」)の祟りであると考え、全国の「国」の数に等しい「六十六」の「矛」を逆さまに建てたものを「祟り鎮め」のものとして「神泉苑」に「奉納」したものです。
 この時は「京」の「東方」の郊外にあたる八坂付近の人々をこのために集め、彼等に「逆鉾(矛)」を持たせ、いわばこれに「怨霊」を封じ込め「神泉苑」まで「運ぶ」という「儀式」を行なったものです。つまり、「怨霊」が「東」の方向にいるというわけですが、これは「素戔嗚尊」が「根の国」に追いやられたことと重なるものであり、そのため「素戔嗚尊」の祟り鎮めとして「八坂」の地が選ばれたものと考えられます。
 そして、その「祇園祭」の「お守り」には「真ん中」に「宇迦之御魂神」と「大書」されています。
 当然この「宇迦之御魂神」が「素戔嗚尊」に関連があると考えられていたからこそ、お守りに書かれると考えられるものですが、(彼は神話では「素戔嗚尊」の子供とされます)「素戔嗚尊」に深く関係していると考えられる「出雲大社」には確かにこの「神」が祀られてはいるものの、上に見たように特に重要な神として祀られているというわけではありません。しかし、この「宇迦之御魂神」は「難波朝廷」の時代(白雉年間)に東国など諸国の多くに多数創建された「神社」の「祭神」とされていました。また、この「神」は「稲荷大神」と同一としている場合が相当数あります。(京都の伏見稲荷神社の祭神も同じ)
 また「伊勢神宮」に元々祭られていたとされる「ウカノヒコ」とも同一神と考えられ、これらのことから「素戔嗚尊」を鎮魂するために祭られた「宇迦之御魂神」は「出雲」の神であり、しかも「難波朝廷」時点では「伊勢神宮」に祀られていたと言うことが分かります。

 ところで、上に見たように「○」印が成立するのは「太陽神信仰」が成立する時点であると推察したわけですが、それはとりもなおさず、「伊勢神宮」から「ウカノヒコ」が追いやられる時点でもあるわけです。
 このことから、この時点で「○」印が発生したと同時に「×」印も発生したものであり、それは「追放」された「ウカノヒコ」(宇迦之御魂神)を示すものであったのではないかと言うところに想像が行きます。
 つまりそれは本来「出雲」の表象であり、「宇迦之御魂神」を表す「威厳」に満ちたものであったと考えられるものです。
 しかし八世紀以降、「×」印に対して「現在」の私たちが考えるように「悪」の意味が持たせられたものと考えられ、それは「伊勢神宮」から「出雲神」が追い払われ、「太陽神」が鎮座したことを意味するものであったのではないでしょうか。
 では何故それ以前の「難波朝廷」時点で「伊勢神宮」に「出雲神」である「ウカノヒコ」が祭られていたのでしょうか。

 この点を「国譲り神話」に見てみると、「大国主命」は「建甕鎚神」と「経津主神」に「国」を譲るように言われ、「息子」である「建御名方神」に聞くように言ったとされます。この「建御名方神」は「宗像」を意味するというのはほぼ定説になっていますが、また「厳島神社」の祭神と言われる「宗像三女神」の「父」でもあります。そして、仏教布教をその「宗像三女神」の一人である「市杵島比売神」と共に「瀬戸内巡行」を行なったのが「阿毎多利思北孤」であり、「利歌彌多仏利」の「父」と考えられている人物です。その「市杵島比売神」は「玻璃采天女」と同一人物とされますが、この「玻璃采天女」は「沙迦羅龍王」の娘ともされており、その意味でも「宗像氏」ともつながります。さらに彼女は「牛頭天王」の后ともされており、ここに至って「牛頭天王」と「出雲」と「宗像」が一本の線でつながることとなります。「厳島神社」や「伊予三島神社」の創建は(『縁起』や「史料」によれば)「六世紀の末」とされており、決して「弥生時代のこと」というわけではありません。
 
 さらに、「大国主」の説話として知られているものに「因幡の白兎」というものがあります。「鰐」に欺された「兎」に「薬」(蒲(がま)の穂)を与えたとされる「大国主」のイメージは、「施薬院」を開いた「阿毎多利思北孤」に重なるものがあります。
 また、「大国主」は「口の利けなかった」息子である「「阿遅須枳高日子」の治療にも「泉」を使用するなど、「病」を直すイメージがありますが、そのことにつながるイメージであるのが「薬師如来」であり、「薬師信仰」です。
 この「薬師」は「日本」で盛んになった信仰であり、本格化したのは「七世紀」の終わりとされています。しかし、「法隆寺」の「薬師如来」の光背銘文によれば「用明天皇」の病気治癒を祈願して「薬師如来」が造られたとされているなど、「六世紀の後半」から「七世紀」の始めにかけての時点に「焦点」が当たっているようであり、それは「上宮法王」の「施薬院」開設などの事績に重ねて考えられていることを示します。そのことは「造像」時点における「信仰」を示すものであり、「上宮法王」に対する傾倒がこの時点の「倭国王」に顕著だったことを示すと思われます。

 さらにこの時点以降「廣瀬大忌神」「龍田風神」という「宇迦之御魂神」や「神功皇后」と思しき人物を祭神として祀られている神社に対して「祖霊信仰」を行ない始めたという点においても、これらの祭神が「倭国王権」に直接つながる彼等の「祖先」であったと言うことを示すものというるでしょう。