『延喜式』などに描かれる「大嘗祭」についても、このような形式の「即位」に関連する儀式というものが確立されたのが「伊勢王」の時代ではないかと考えられます。
「天孫降臨神話」が造られたのが「利歌彌多仏利」の次代の「倭国王」、つまり「伊勢王」の時代と考えられるわけであり、そうであるなら「大嘗祭」も「伊勢王」の時代に確立したものと考えることができます。
「大嘗祭」では、その中で「真床覆衾」と呼ばれる「衣装」に包まれますが、これは「天孫降臨神話」の中で「瓊瓊杵命」がくるまれる「衣」を言い、「産着」のようなものであったと考えられます。
それを示すように「大嘗祭」では、これに包まれる儀式の前に「沐浴」しますが、この「沐浴」は「小斎御湯」という「湯」につかる儀式であり、「水」ではありません。これは「伊弉諾」が「小戸の阿波岐原」でおこなったような「沐浴」とは違うわけです。
先述したように、「瓊瓊杵尊」は「応神」を通して「阿毎多利思北孤」の「投影」と考えられますから、「大嘗祭」に再現されるのは「天孫降臨神話」のようでいて、実は「阿毎多利思北孤」の降臨の状況の再現と考えられるものです。
「瓊瓊杵尊」も「応神天皇」も最初に「説話」に登場した時は、共に「赤ん坊」でした。つまり、ここで「沐浴」するのは「産湯」をイメージしていると考えられるものです。
他にも「寿詞」を奏する役目として「吉野の国栖(くず)」が登場しますが、彼らは「仁徳」(応神の子供)の時代以降毎年朝貢するようになったものであり、それほど「皇室」と関係が「深遠」である、というわけではありません。そのような彼らが「大嘗祭」という「重要」な儀式に登場するのは、「仁徳」との関係以外考えられないわけです。(「国栖」という謡曲では「大海人皇子」に味方したという事が書かれているようです)
またこの「大嘗祭」はその年に収穫された「新穀」を「神」に捧げると共に「神」と共に「食す」ことにより神と一体になる儀式であるわけですが、「大嘗祭」儀式の中では天皇が自ら「神」へ食事を献ずる儀式があり「神餞行立」(しんせんぎょうりゅう)と呼ばれていて、ここではご飯を「十度」盛って「ひらで」(「葉」を模した器)「十枚」に盛りつけるとされています。このことから「奉仕」する「神」は「十体」おられると解釈されますが、この内の「主神」については「伊勢大神」であると考えられています。(もっとも、明確に「神」の名が儀式中に出てくるわけではありません)
これが正しいとすると「伊勢大神」は「ウカノヒコ」であったと考えられますから、彼が「食物」を司る神と考えられていることと「整合」する事となります。
これと関連していると考えられるのが、『天武紀』の以下の記事です。
「(天武)十年(六八一年)五月己巳朔己卯(十一日)祭皇祖御魂。」
ここに書かれた「五月十一日」というのは「二十四節季」の一つである「芒種」であり、「種まき」や「田植え」をすべき時期とされています。このような時点で「皇祖」の「御魂」を祭っているのは、その「皇祖」が「食」や「稲」に深く関係する「神」とされていたからと考えられ、上で見た「保食神」や「宇迦之御魂神」がそれに当たるものと考えられます。
ここに書かれた「皇祖」の「御魂」を「祭る」儀式そのものが「大嘗祭」の「先蹤」を成すものであったという可能性があると考えられます。(ただし、この「皇祖」については「利歌彌多仏利」という可能性よりも、彼の「先皇」と思われる「阿毎多利思北孤」を指して言っていると考えられます。彼は「改新の詔」の直後に出された「御名部献上」に関する「詔」では「皇祖大兄」とされているようです。)
『延喜式』には「祈年祭」についても記載がありますが、そこで「寿詞」を捧げる「神」は併せて「八神」であり、これは「大嘗祭」の「斎殿」の座を設けられている「八神」と同じと考えられます。そして、「大嘗祭」はこれに加え「伊勢大神」などを加え「十神」としていると考えられますが、「本来型」は「祈年祭」と同様「八神」であったものと思慮されるものです。
「大嘗祭」という「新形式」の儀式を創出する際に「伊勢大神」を加え、数字を整えて「十」神としたものでしょう。
そして「悠紀」(ゆき)「主基」(すき)に選定される諸国に「筑紫」等「西国」が入らないことからも、この儀式が「近畿」ないし「東国」向けのものであると推察され、「近畿」及び「東国」を直接統治することとした「伊勢王」がそれら諸国に対して「倭国」王権への「服従儀礼」として設けたものと考えられるものです。
また「古詞」を奏上するとして「三野」「但馬」「出雲」の各国から「語部」が徴発され、この「大嘗祭」の儀式に登場しますが、この中に「三野」があることに注目されます。なぜなら「三野」は「遣隋使」によってもたらされた制度である「戸籍」の変更に応じなかった地域であり、「利歌彌多仏利」段階ではまだ「倭国王権」の統治領域に正式に組み込まれていたとは言えなかったものと推定されています。しかし、その後「官道整備」に伴い「評制」が施行される頃には特に「王権」肝いりの地域となっていたと見られ、この「古詞」奏上に名を連ねているのは、その時点における「諸国」内の力関係の変化を示すものと考えらますから、「古代」より「伝統」と「格式」があったと考えられ、「古詞」の奏上に適任と思われる「出雲」が「四名」しか「語部」を出していないことと併せ、「利歌彌多仏利」の時代からやや下った時代相であることを感じさせるものであり、「伊勢王」時点における「大嘗祭」の儀式の確立を想定して自然であるといえます。
このように「伊勢神宮」は「天照大神」以前に「ウカノヒコ(宇迦之御魂神)」を祀っていたと考えられますが、それが後に「天照大神」に「切替え」られることとなったものであり、その時期は「八世紀」の「新日本国王朝」になってからのことと考えられ、『書紀』編纂事業と「軌を一にする」ものと推量されます。
つまり「八世紀」に入ってからの「文武朝」、あるいはそれに続く「元明」「元正」の時代のことかと考えられ、その時点で「伊勢神宮」の祭神を「従来」の「ウカノヒコ(宇迦之御魂神)」から「天照大神」へ変更したのではないかと考えられるものです。(「ウカノヒコの神」の名前は現在でも「宇賀神」という「姓」で残っているようです)
「弁財天」を祭る寺社では明治以後「神仏分離」の命令により「市杵島姫大神」を祭ることに変更した例がありますが、この時点で「ウカノヒコ」を祭るように変更した例も多く、このことは「宗像三女神」と「ウカノヒコ」の間に「関係」がある事を示唆するものです。つまり「ウカノヒコ」が「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」という人物の反映という可能性もあるとみられます。
「阿毎多利思北孤」の創立した「寺社」が「市杵島姫大神」を祭っていたものであり、それが「弁財天」と同一化され、さらに「阿毎多利思北孤」本人が祭られることとなったとも考えられるものです。(祭られたのが「利歌彌多仏利」という可能性もあります)それが「ウカノヒコ」に投影されているのではないでしょうか。
「伊勢神宮」には「斎宮」という制度がありました。これは「皇女」、つまり「天皇」の「子供」の「女の子」の一人を「伊勢神宮」に派遣し、「神」に仕える役目を担わせるものです。しかし、「実際」に「斎宮」として「皇女」を遣わすようになったのは「天武」が最初と考えられています。
そして、これは「伊勢神宮」のその時点での祭神が男性である(あった)証明ではないかと考えられます。また「天武」の時期は「薩夜麻」の時期であり、「伊勢神宮」を国家祭祀とした「伊勢王」の死去後「伊勢神宮」では「伊勢王」も含め奉祭していたと考えられます。
このように「天武」の時代の「伊勢神宮」の祭神が「男性」であったものが、「女性神」である「天照大神」になったのは、「持統朝」に書かれた原『日本紀』を「八世紀」に入ってから「潤色」「改変」した時のことと考えられます。 『書紀』の「神代紀」の冒頭で書かれている事は「天照大神」の「孫」(皇孫)である「ニニギ」が「神勅」により「列島支配」を始めた、というものであり、これは「持統天皇」と「文武天皇」、「天照大神」と「ニニギ」という双方が共に「祖母と孫」の関係にあるもの同士をアナロジーとしてリンクしている書き方となっているのです。
つまり、「文武」が支配者であるのは「持統」によって保証されている、と言うわけであり、それはちょうど「天照大神」と「皇孫」「ニニギ」の関係と一緒である、と言うわけです。
このようにして「八世紀」に入ってからの「日本国王朝」は、自らの「倭国王」としての大義名分をこの時点で「創出」したのです。
このような事情から、「伊勢神宮」の祭神を特定の「男神」(男性の倭国王)から、「天照」に変え、以前の信仰対象であった人物と神様については「消去」する事としたのだと思われます。
(この項の作成日 2011/07/06、最終更新 2019/05/12)