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「伊勢王」とは


 「三十四年遡上」研究についての段で「伊勢王」に関する考察を行いましたが、改めて考えてみます。
 『孝徳紀』によると「白雉改元」儀式の際に「執輿後頭置於御座之前」、つまり、「白雉」が入った籠が乗った御輿を担いで「天皇」と「皇太子」の前に置く、と言う重要な役どころで「伊勢王」という人物が登場します。

 (以下白雉献上の儀式)
「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」

 輿は担ぐ際には左右対称な人数が担がなければ安定しないわけですから、必ず「偶数」となるはずです。しかし、記事によれば「殿前」までは確かに「四人」で担いできたにも関わらず、「御座の前」まで持ってきたときには「五人」になっています。(前左右が「左右大臣」、後ろが「伊勢王。三國公麻呂。倉臣小屎」の三名です)
 つまり、「輿」の後ろを担ぐべき人間の数が一人多いと考えられます。この後ろを担いでいる三人の内「三國公麻呂」はその前から担ぎ続けているため、この時点で新たに後ろ側の担ぎ手となったのは「伊勢王」と「倉臣小屎」の二人です。このどちらかが「余計」であると考えられるわけであり、それは「伊勢王」ではなかったかと考えられるものです。
 「余計」な人物を書き加えている、ということは、その人物が「重要」で意味のある人物である証拠です。そういう意味では「倉臣小屎」は『書紀』の中にはここ以外には全く出てきませんし、何の事績も書かれていません。このような人物をわざわざ書き加える理由がなく、彼が「余計に」追加させられた人物であるはずがないこととなります。つまり、追加させられた人物は「伊勢王」である可能性が強いこととなります。
 このことは「伊勢王」が輿を担いでいる、と言う事を強調したいがために(別の言い方をすると「輿を担ぐ身分である」と言うことを強調するために)「改変」されたものと考えられます。にも関わらず「死亡記事」(天智紀)では「未詳官位」とされており、これらの情報が欠如している(書かれていない)のは明らかに不審であり、「意図的」なものと考えられます。

 この『孝徳紀』からおよそ三十年離れた『天武紀』にも「伊勢王」に関連する記事が多く書かれています。この『天武紀』は「八世紀」に入ってから「付加」された部分とみられ、その内容は『孝徳紀』からの切り貼りであることが強く推量されます。つまり、「伊勢王」も本来は「白雉改元」の儀式で判るように「孝徳朝」の人物であったと見られるわけです。
 これを裏付けるのが「威奈大村」の「骨蔵器」に書かれた文章です。これは「壬申の乱」に登場する「伊那公高見」という人物の「子」に当たると思われる人物に関わるものと考えられていますが、「七〇七年」に埋葬されたことがその「骨蔵器」に書かれたものであり、ほぼ同時代資料と思われ、信頼性は高いと思われます。

「卿諱大村檜前五百野宮/御宇 天皇之四世後岡/本宮聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也卿温良在性恭/倹為懐簡而廉隅柔而成/立後清原聖朝初授務広/肆藤原聖朝小納言闕於/是高門貴兜各望備員(スペース)/天皇特擢卿除小納言授/勤広肆居無幾進位直廣/肆大寶元年律令初定/更授従五位下乃兼侍従/…以慶雲四歳在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年?(四十)六■其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天■/…」

 これで見ると「威奈大村」は「七〇七年」で「四十六歳」であったというのですから、生年は「六六一年」となります。(日付から考えると「七〇七年」という年次には間違いがないと思われるため)
 また彼は「三子」とされますから、「父」である「威奈鏡公」はこの「六六一年」当時いわゆる「壮年」であったと思われ、四十歳前後ではなかったかと考えられますが、彼は「白雉改元」の儀式の際に「輿」を担いでいる「猪名公高見」と同一人物という説もあります。それが正しければ、「白雉改元」儀式は「六五二年」とされますから、この当時「威奈鏡公」という人物はその時点で三十歳程度と思われ(もしこれより若かったとしても「二十代前半」より若くはないと思われます)、年齢に関する点はそれほど不自然がありません。
 そもそも「猪名(伊奈とも)公」は『書紀』では「多治比王」と共に「宣化天皇」の「玄孫」とされており、「血筋」は卑しくなく、このような華やかで重要な儀式に参加したとして何ら不思議ではないと考えられるでしょう。
 その「猪名公高見」と共に「輿」を担いでいるのが「伊勢王」なのですから、彼もこの「猪名公高見(威奈鏡公)」と同時代を生きた人物であり、「孝徳朝期」に存在した人物であることは間違いないと考えられます。
 そう考えると、『天武紀』の「伊勢王」関連記事には明らかな「記事移動」があると考えなければなりません。

 また『天武紀』には以下の記事もあります。

「(朱鳥)元年(六八六年)…
九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次『淨大肆伊勢王』誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。…」

「(持統)二年(六八八年)八月丁亥朔丙申。甞于殯宮而慟哭焉。於是。大伴宿禰安麻呂誄焉。
丁酉。命淨大肆伊勢王奉宣葬儀。」

 いずれの記事でも「淨大肆」という冠位(官位)が書かれています。この冠位は「六八五年」に定められたという「冠位四十八階」の十一番目のものでしかありません。
 この「冠位制」では「明位二階」が最上位にあり、その後が「浄位四階」となっています。通例では「明位二階」は誰も授与されなかったということになっています。しかし、そんなはずはないと思われます。「冠位(官位)制」は天子の元の最高側近ないし最高重要人物が「最高位」を授与されてしかるべきであると思われるからです。「最高位」の冠位を授与されるべき人物が誰もいないのにも関わらずそのような「冠位」を設定されたということを想定することは不思議に思われます。
 明らかに「諸王」は「最高側近」ではありませんから、「浄位四階」を授かって当然と考えられ、たとえば「親王」以上が「明位二階」を授かったと考えるのが自然です。つまり、『書紀』でだれも「明位二階」を授与されていないのはそこに書かれた人物達が「倭国王権」から見ると「諸王」であって、「親王」などではないためであると理解せざるを得ません。
 しかし既に述べたように「伊勢王」と「弟王」については『天智紀』と「斉明紀」と二回ある「死亡記事」のいずれにも「薨」という語が使用されており、これは『書紀』『続日本紀』では「三位以上」の高位者のみに使用されるものですから、「諸王五位」あるいは「淨大肆」という「五位」程度の位階しかなかったように書かれている事には疑いが生ずることとなります。これは彼らが「明位階」にあったことを示すものと思われ、「諸王」と云うより「親王」であったとも考えられるわけです。

 以上から「時期の矛盾」と「位階の矛盾」を共に解消できる説明は「年次移動」しかないと思われます。
(既に述べたように「難波王」の子供達はいずれも「三位」以上の地位にあったと思われますから、彼らも「明位」であったこととなります。その意味では「伊勢王」も彼らの近親者であったという可能性も考えられるでしょう。)


(この項の作成日 2011/07/03、最終更新 2017/02/26)