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「伊勢王」と「弟王」


 「伊勢王」に関してさらに述べると、彼は『書紀』の中で死亡記事が二回あります。

「(斉明)七年(六六一年)六月条」「伊勢王薨。」
「(天智)七年(六六八年)六月条」「伊勢王與其弟王接日而薨。未詳官位。」

 死亡記事は上でわかるようにどちらも「七年の六月」です。つまりこの「死亡記事」の重出は、原資料に単に「七年の六月」という形で書いてあったものが反映しているものと推量され、『書紀』の「編集」者が、どの「帝紀」に入れるべきなのかやや混乱したものと思われます。
 既に述べたように「伊勢王」と共に「弟王」についても「三位以上」の位階にあったと見られるわけであり、そのことからこの時点の「倭国王権」にとって「弟王」の存在は非常に意味が大きいものだったと考えられます。

 既に「伊勢王」について『書紀』の記事が示すように「改元儀式」の際や「天武死去」に伴う葬儀において非常に重要な位置を占めているのが判明するわけですが、それは彼らが本来王権に非常に近い所にいたことを示すものであすが、



 彼は「伊勢王」が自ら「東国巡行」(天下巡行)している間、「筑紫太宰」として「倭国」の本宮を預かっていたものと推量され、「留守居役」を努めていたものと考えられます。(そもそも以下の記事にあるように「宰」には「留守居役」という意味も当時はあったようです。)

「(仲哀)九年十二月戊戌朔辛亥(中略)一云,禽獲新羅王詣於海邊,拔王?筋,令匍匐石上,俄而斬之埋沙中.則留一人為新羅宰而還之.」

 ここでは「新羅」に一人「留守居役」のような立場の人物を残したとされますが、そのような職掌の人間について「宰」と表現されています。
 「兄王」が「難波」遷都に向け整備している間「弟王」は「留守居役」として「首都」である「筑紫」の防衛体制の整備を行っていたものと考えられるわけです。
 彼により「大野城」や「水城」などの整備、「防」(防人)や「烽」(のろし)等の防衛体制の構築などが行われ、戦闘態勢(迎撃態勢)を整えていったものと考えられます。

 「死亡記事」の中で「伊勢王」と「弟王」というように並べられて表記されていますが、これを反映していると考えられる記事が「冠位二十六階」制定記事の冒頭であり、そこには「天皇命大皇弟」とあります。従来この「大皇弟」は「大海人」と考えられていますが、本来は「伊勢王」の「弟王」のことであったと考えられます。
 『書紀』には「天智」に「天命」が降りたと解されるような表現の記事がありますが、その直前記事がこの「伊勢王」と「弟王」の死去した記事であり、この二人の死去と「天智」の動きには関連があるように思われます。

「(天智)七年(六六八年)…
六月。伊勢王與其弟王接日而薨。未詳官位。
秋七月。高麗從越之路遣使進調。風浪高故不得歸。以栗前王拜筑紫率。于時近江國講武。又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至。又饗夷。又命舍人等爲宴於所々。時人曰。天皇天命將及乎。」

 さらにその直前記事は「縱獵(薬狩り)」です。

「(天智)七年(六六八年)…
五月五日。天皇縱獵於蒲生野。于時大皇弟。諸王。内臣。及羣臣皆悉從焉。」

 「縱獵(薬狩り)」とは、「野山」に出て「野草」などを取るものですが、女性は、野で「薬草」を摘み、男性は「鹿狩り」をして「若い牡鹿の袋角」を取ったもののようです。
 この記事と「伊勢王」と「弟王」の死去記事が連結されていることから、この「縱獵(薬狩り)」の際に「事故」が起きた可能性を示唆させます。

 ところで、「三十四年遡上」の対象記事として疑われるものの中に「草壁皇子」関連のものがあります。
 彼は「六八九年」に死去したと『持統紀』にありますが、これは「三十四(五)年遡上」の対象記事ではないかと考えられ、本来「六五四年」記事であったのではないかと思料されます。
 
 「草壁」は「第二王子」であり「兄王子」が存在しています。(『書紀』ではそれが「高市皇子」とされています)また「日並皇子」という「特別」の称号が使用されています。この称号は『書紀』中で唯一「草壁」だけに使用されているものであり、その意味は「日」に「並ぶ」、つまり「天皇」に「並ぶ」地位と権威があったことを示すものと考えられます。これはまさに「伊勢王」と「弟王」の関係を彷彿とさせるものです。
 また、彼の死因に関しては『書紀』はなにも言及していませんが、『万葉集』中に「柿本人麻呂」が「文武」と「安騎野」へ行幸したときの歌が書かれており、その中に以下のものがあります。

(万葉第四十五番歌)
「日並(ひなめし)の皇子の命の馬並(な)めて御獵(みかり)立たしし時は來向(きむか)ふ」

 これは「輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌」と題されたものであり、これは「日並皇子」、つまり「草壁」が(誰かと)馬を並べて狩り(「縱獵」(薬狩り))に行った際の歌と解釈されています。
 これは歌の調子から言っても「草壁」を強く追慕するものであり、「挽歌」と言ってもいいものでしょう。
 この歌からは「草壁」がこの「御獵(みかり)立たしし時」とされた時に、何らかの「不慮」があった事を示唆するものであり、上記「縱獵」の際の事故がそれに相当するのではないかと推察されます。
 またそのことを示すように、同時に歌われた歌の中に以下のものもあります。

(万葉第四十七番歌)
「ま草刈る荒野にはあれど黄葉(もみじば)の過ぎにし君が形見とぞ來(こ)し」

 ここではこの「安騎野」という場所が「草壁」の「形見」の地であるとされているのです。
 つまり、この歌は「安騎野」という場所、その時行なわれた「御獵」という行事が「草壁」にとっての「最後」になったことを示すものと考えられるものです。
 また、万葉集の中には「シチュエーション」が極めて似ていると考えられる歌があります。それは同じ「柿本人麻呂」の以下の作です。

(万葉第二三九番歌)
「やすみしし 我が大王 高照らす わが日の御子の 馬並めて 御獵立たせる 弱薦(わかこも)を 獵路の小野に 猪鹿(しし)こそば い匍ひ拜(おろが)め 鶉こそ い匍ひ廻(もと)ほれ 猪鹿じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻ほり 恐(かしこ)みと 仕へ奉りて ひさかたの 天(あめ)見るごとく 眞澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大王かも」

 この歌は「長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首」と題詞にあるように、「長皇子」が「遊獵」した際の事とされていますが、そう考えるには「歌」中の「やすみしし 我が大王 高照らす わが日の御子」という形容は「至高」の存在に対して使用されるべきものであり、「長皇子」に対するものと考えるにははなはだ不自然であり、適合しないと考えられるものです。この形容は明らかに「倭国王」に対するものと考えざるを得ません。
 この「四十五番歌」と「二三九番歌」は共に「御獵」の為に(誰かと)「馬並て」おり、片や「高光吾日乃皇子」、もう一方が「日雙斯皇子命」ですから、ここで「倭国王」とその「弟王」の両者が「馬並めて」いると推量できます。
 そしてその場に「柿本人麻呂」は供奉していたものであり、彼等と共に「御獵」に参加していたと考えられます。
 この「薬狩り」の際に事故が起きその結果「兄王」である「伊勢王」と「弟王」が日を接して亡くなったとみられるわけです。これが事実ならば「倭国王」の地位が空白となったわけであり、その後を誰にするかで混乱が起きたという可能性は高いものと推量します。その混乱に乗じて「天智」が「天命」が下りたとして「日本国」を作ったとすると、流れとしては納得できるものではないでしょうか。


(この項の作成日 2011/07/03、最終更新 2015/04/18)