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「難波」副都と「筑紫」首都


 「筑紫」の周辺には「朝鮮式山城」というように呼ばれる「城郭」遺跡が確認されています。そのような中に「大野城」という城がありました。この「大野城」は「太宰府」「政庁」の「前面」つまり、海側にあり、海上から上陸侵入してくる外敵の防御の一端を担っていたものと考えられています。
 この「大野城」の遺跡から発掘された「柱」と考えられる木材は「年輪年代測定法」により「六四八年以降伐採」と鑑定されています。つまり、「白村江の戦い」の「前」に「修造」されていると考えられ、そのことは「戦術的」に見て合理的であると考えられると同時に、この時の「修造」は「難波朝廷」副都遷都と関連して行われた「一連」の作業と考えられるものです。
 
 既に記したように「大宰府政庁Ⅱ期」とされる「政庁中門」の中軸線を延長すると「基肄城」の「東北門」が位置しており、この門が「測量」の際に利用された可能性が強いと考えられます。つまり、既にその段階で「基肄城」は存在していたこととなります。そして「基肄城」と同時の築造と考えられる「大野城」から出土した「木材」の年輪年代が「六四八年」であったことは、「基肄城」も同様の時期に築造されたと考えられますが、それは『続日本紀』の以下の記事からも推定されるものです。

「文武二年(六九八)五月甲申廿五条」「令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。」

 ここでは明確に「大野」「基肄」及び「鞠智」の三城について「繕治」するとされている訳であり、「繕治」時期が接近しているのはそもそもの「築造時期」が接近している為であると考えると判りやすいものです。
 また「難波宮殿」下層から発見された木簡に「戊申」という年次が書かれており、それが「六四八年」を意味していて、この「層」が「難波宮」の使用時期と重なっていると考えられていることからも、築造としてはもっと古いことを示すのかも知れません。(この「木簡」は「難波宮」の北西部の「谷」を埋め立てた場所から出土したものであり、その中身としては「宮殿」から廃棄されたものであるらしいことが判明しています)
 この時の「難波副都」整備事業は、「対唐」「対新羅」という戦略的なことを考慮して行われたと考えられるものであり、そのことは当然「筑紫」での「水際防衛」の必要性が発生する、ということになるわけですから、「筑紫」周辺の防衛線である「大野城」などの「修造」もこのときおこなわれたと考えるべきでしょう。
 しかも、これはあくまでも「修造」であって「初めて」設置した、というものではありません。これら「太宰府」周辺の建物の築造時期に関して科学的調査をしたところ、「水城」では堀から出た「樋」を「C14年代測定」により測定した結果どんなに新しくても「四〇〇年」程度、という結果が出たのです。つまり「倭の五王」の一人である「讃」の頃のことと考えられることとなりました。
 「水城」は緊急時「水」を溜め、ダム状にして外敵侵入を防ぐと共に、一気に放流して外敵を流し去ろうと言う目的の施設であったと考えられます。
 この「水城」は「堤」状の施設ですが、その下方(底部)に「地盤固め用」に重ねられている木の枝(敷きソダ)について、「C14年代測定」を実施したところ、「上層部」が「六六〇年」、「中層部」が「四三〇年」、「下層部」では「二四〇年」という結果が出ています。(※)ただし中層、下層については信頼性が高いとは言えないようであり、再調査が必要といわれています。ただし仮にこの値が正しいとすると、「二四〇年」付近という年代には注目されます。これは「卑弥呼」の時代に重なるものであり、このことはこの「水城」というものが「卑弥呼」の頃にすでにその原型があったと見るべきことになり、そのころから「営々」と造られ、「修造」されてきていたものであることを示すものともいえ、折々「敷きソダ」の「へたり」等により沈降する分を上から積み重ねて次々と補強している風情が読み取れます。そして、その「最終的補強」が「六六〇年」頃であって、「白村江の戦い」の「前」である可能性が高いのも、また軍事戦略上は「当然」とも言えるものであり、「大野城」同様「難波副都」構築後の「防衛戦略」としての「修造」の一環として行ったものと考えられることを示します。
 また、外交使節を迎えるための「鴻臚館」でも、同じく「樋」の年代測定を実施したところ、「一番新しいもの」が「六五五年」のものとされています。そして、それ以外はほとんどは四世紀後半から六世紀のもの、という結果がでています。
 また、「狼煙」を上げる為に対馬に築かれた要塞である「金田城」についても同様の測定で「七世紀半ば」と判明しています。
 これらの結果は、これらの木材を使用している建物や施設の創建年代に疑義を呈せざるを得ないものであり、いずれの場合も重要なのは「白村江の戦い」(「六六三年」ないし「六六二年」)の「前」である、ということです。それは『書紀』が記載する「『白村江の戦い』の「後」に設置を命じた」とは異なっていて、すでにそれ以前からあった、ということを意味するものだからです。
 これらの「城」などは「戦い」の前に設置されるべきものであり、それが「年代測定」から「裏書き」されたことになりますから、このような戦いの前の構築というのは「自然」であると思われます。
 この戦いは「突然」起きたわけではなく、そのような緊迫感が以前よりかなり濃い密度で醸成されていたものであり、これらに備え、「倭国」としても「国土防衛体制」を整える必要があったはずであり、「軍事力」増強という国家的方向性を打ち出す必要が発生する「素地」が形成されつつあったといえます。
 こう考えると、「白村江の戦い」の後に作られた、という記事の信憑性が疑われるのは当然です。(『書紀』編纂において「年代」を操作しているという疑惑があると思われます)

 また、「難波遷都」時点で太宰府周辺の山城を修造している、ということは当時すでに「使用されなくなっていた」という可能性が考えられます。そのため必要な維持・修繕が行われておらず、「唐」の軍隊に備える必要から「急遽」既存の山城を使用することとなり、修造したものであるとも考えられます。
(敷きソダの中層が「四三〇年」前後と考えられることから、かなり長期間手が入っていなかったように思われます)
 『隋書俀国伝』に「征戦」がないと書かれたように、「対外戦争」は長期に亘ってなかったのではないでしょうか。このため周囲の国々とは「緊張関係」がなく、防衛ラインの構築ということにも関心が薄かったのではないかと推量されます。(対「物部」戦も主戦場は「筑紫」ではなかったと考えられます)
 しかし、「隋」との折衝に失敗して直後、「琉球」が「隋」の侵攻を受けた事に衝撃を受け、「筑紫」の防衛強化を図る必要性を切実に感じたと思われ、「筑紫都城」の整備と共にその「外部防衛線」ともいうべき「博多湾」の防備能力の向上のための整備を行ったものとたものと思われます。
 これに関してすでに触れましたが「筑紫」に「大津城」という「城」があったことが明らかとなっています。それは「鴻臚館」に隣接されていたものであり、「水城」が「筑紫都城」の水際防衛線なら「大津城」はその外側で「博多湾」に進入してくる外敵を撃退するための拠点として存在していたものです。そこには「兵士」として「防人」(戍人)が詰めていたものであり、この「城」は「栗隈王」の発言からも「壬申の乱」時点では確実にあったと思われますから、その構築はそれ以前の「白村江の戦い」以前あるいはさらにそれを遡る時期が想定され、水城と共に「卑弥呼」の時代まで遡上すべきものとも考えられます。


(※)内倉武久「理化学年代と九州の遺跡」 古田史学会報No.63  2004年8月8日


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2014/08/23)