半島の歴史を記した史書である『三国史記』に「新羅」から「唐」に対し使者を送り併せて「美女二人」を献上したところ、受け取りを拒否されたという記事があります。
『三国史記』
「(真平王)五十三年…秋七月 遣使大唐獻美女二人 魏徴以爲不宜受 上喜曰 彼林邑獻鸚鵡 猶言苦寒 思歸其國 況二女遠別親戚乎 付使者歸之 」
この『三国史記』の記述はその内容が『資治通鑑』の以下の記事によく似ており、原資料としたらしいことが推察されます。(『三国史記』には「通典」や『資治通鑑』が参考図書として頻繁に出てきます)
『資治通鑑』
「(貞観)五年(辛卯、六三一)冬,十一月丁巳(二日),林邑獻五色鸚鵡,丁卯(十二日),新羅獻美女二人;魏徴以爲不宜受。上喜曰:「林邑鸚鵡猶能自言苦寒,思歸其國,況二女遠別親戚乎」并鸚鵡,各付使者而歸之。
倭國遣使入貢,上遣新州刺史高表仁持節往撫之;表仁與其王爭禮,不宣命而還。
…」
このように『資治通鑑』では「新羅」からの「美女」献上記事があるわけですが、その直後に「倭国遣使」記事が書かれています。ここには「日付干支」が書かれておらず、そのことは「倭国」からの「使者」記事と「新羅」からの「美女献上」記事とが同じ日付であることが推定されるものですが、そのことは「新羅」と「倭国」の使者が同行して「唐」へ来たらしいことが推測されるものであります。つまり「倭国」からの使者が「新羅」に行き、そこから両者共同で「唐」へ向かったということが推定できると思われるわけです。
この時の「倭国」からの使者に対応する記事は『書紀』の「六三〇年」の項に書かれた「犬上君」と「薬師恵日」の唐使派遣記事ではないかと考えられます。
『書紀』
「(舒明)二年(六三〇年)秋八月癸巳朔丁酉条」「以大仁犬上君三田耜。大仁藥師惠日遣於大唐。」
「(同)四年(六三二年)秋八月条」「大唐遣高表仁送三田耜。共泊干對馬。是時學問僧靈雲。僧旻。及勝鳥養。新羅送使等從之。…」
上でみるように「往路」には何も書かれていませんが、「帰国」の際に「新羅送使」を伴っており、このことからも「倭国」からの遣唐使がその往路においても「北路」(新羅道ルート)を取ったことが推定できます。つまり「新羅」から「唐」への使者と同行したという可能性が高いことを意味するものです。また、「唐」に派遣されていた「新羅」の使者の帰国(美女二人を伴ったもの)も同時であったという可能性が強いと思われますが、この時の帰国に併せて「高表仁」が「唐使」として派遣されたと見られます。つまり「高表仁」に随行する形で「倭国」と「新羅」からの使者が帰国したというわけです。
それを考えると、『書紀』の「高表仁」記事において「新羅」の使節を伴っているのも「唐」から随行してきたという可能性があるでしょう。
ただし、ここでは「新羅送使」となっていますから、一旦「新羅」へ立ち寄り「唐」へ派遣された「使者」と「美女二人」を本国へ帰国させた後、別に「倭国」への航路に随行する使者を選定し任命したと考える方が正しいかも知れません。
ところで、上の『資治通鑑』と『三国史記』記事では「人質」として「美女」二人を差しだしたところ、唐皇帝(及び「魏徴」)から拒否された事が記されていますが、この記事と内容が良く似ている別の記事があります。それは『三国史記』の「文武王八年」(六六八年)の記事です。
『三国史記』
「(文武王)八年春 阿麻來服 遣元器與淨土入唐 淨土留不歸 元器還 有勅 此後禁獻女人。…」
ここでは、「新羅」から「元器」と「淨土」という二人の使者が唐に派遣されたことが書かれていますが、その直後に「有勅 此後禁獻女人」と書かれています。これは「唐」に派遣された「元器」が帰国したという文章の直後に書かれていますから、「唐皇帝」の発言を「勅」として書いているのではないかと考えられ、そこでは「女人」を「献上」する事を禁じるとされています。そのような「勅」が出されたとすると、この時「女性」を「贈物」として献上したらしいことが推定され、それを「拒否」され、「禁止」されるということが事実としてあったということとなります。しかし、上の『資治通鑑』記事(真平王記事)を見ると、この時既に献上した女性を「唐」では受けず突き返されています。この時実質的に「禁止」の「勅」が出されたして不自然ではないと思われますが、そうであれば「文武王」段階以前において既に「女人献上」は行われなくなっていたはずと思われるわけです。そう考えると、「文武王」記事は「矛盾」している(不自然である)といえるでしょう。
そもそもこの「文武王」時点で「新羅」から「美女二人」といういわば「人質」ないしは「生口」ともいえるものを献上する意味も時代としてそぐわないといえます。「美女」というのは献上あるいは貢上するものの内容として原初的であり、一種の「生口」としてのものですから「服属」の意味合いが強いといえるでしょう。本来「生口」は「戦い」の後に敗者の側から獲得した「捕虜」たちを指す用語ですから、「生口」を献上するということは「服属儀礼」の一環であったという事となるでしょう。そのことはこの両者の関係がまだ浅い段階のものであることを示しています。
これが「真平王」段階であれば、「新羅」と「百済」「高句麗」との間に緊張関係が高まりつつあった時期であり、後には「麗済同盟」が結成される(六四二年)前段階とも言うべき時期です。この時代は「新羅」として「倭国」や「唐」との関係強化を図ろうという意欲を示していた時期でもありますから、この段階で「人質」ないしは「生口」を差し出して「唐」との間の関係を再構築するというのは方法論としても時代的位相としても理解できるものです。しかし、この「文武王八年」という段階ではそのような時期は遥かに過ぎており、軍事同盟により「百済」を滅ぼし、「倭」を退け、今まさに「高麗」を滅ぼそうという時期にそのような人質を差し出すのは一種の時代錯誤ともいえるでしょう。
また、この記事に対応するような記事は中国側資料には見られません。そう考えると、この記事の信憑性には疑問符がつくこととなりますが、あるいは「真平王」の時代の記事が何らかの錯誤によりここに挿入されているということも言えるかも知れません。
そう考えると、その前にある「阿麻来服」という記事についても「真平王段階」の記事との対応が考えられ、『資治通鑑』に言う「倭国」からの使者を指す表現ということもあり得ます。
ご存じのように『三国史記』においては「七世紀以降」「倭国」記事が全く見えなくなります。しかし、『書紀』を見るとかなり頻繁に外交活動が行われており、明らかに『三国史記』においては「倭国関係記事」が見あたらないのは「意図的に」であり、無視されていることとなります。これは編纂当時の「高麗王朝」の政治的立場を反映したものであり、実際の外交活動を正確に記したものとは言えないと思われるわけです。
ところで、この記事は「真平王」の時の記事と違い「唐」への使者の名前が書かれています。「真平王」の記事が『資治通鑑』と近似していたのに比べ、その記事内容も大きく異なります。逆に言うとこの記事は「新羅」側の独自史料と思われます。そう考えると「倭国」との外交をある程度正確に反映したものが「独自史料」として遺存していて、それを「倭国」とはあからさまに書かず、年次も変えて利用したという可能性が考えられます。それが「文武王」時点での挿入となっているのは「半島」をめぐる争いでの「倭国側」の敗北という事情があったため、そこに当てはめやすかったのではないでしょうか。それが「阿麻来服」という語の中に表現されているという可能性もあります。
しかし本来はあくまでも「真平王」段階であり、この時「倭国側」は従来の姿勢を転換して「新羅」に接近して利用しようとしたのであって、「唐」への仲介役とでもいうべき役割を頼んだものと見られます。
それを示すように「文武王記事」では「阿麻来服」と「遣元器與淨土入唐」とが直接つながっており、その間に「因果関係」のようなものがあることを推定させます。つまり「阿麻」が「来服」したことを「唐」に知らせる必要があったということであり、そのような「速報性」とでもいうべき事情は「真平王」の側と言うより「倭国側」に強かったものです。
ここでは「倭国」からの使者について「阿麻」という表現をしていますが、「阿麻」は「阿毎」と同義であり、「阿毎多利思北孤」で判るように「倭国王」の「姓」でしたから、「倭国」そのものを表現する用語であったと思われます。
そもそも彼等が「遣唐使」であり、「新羅」に「道案内」ないしは「橋渡し役」を務めて欲しいということを希望していたとすると、「阿麻来服」と「遣元器與淨土入唐」ということの間に関係があったこととなるでしょう。
「倭国」と「唐」の間は「隋代」に「裴世清」が「宣諭」のため来倭して以来国交が停止した状態でした。それについては「倭国側」にとって見ると「本意」ではなかったと思われ、定期的な使者のやりとり等を復活させたい意志があったものと見られます。そのため「使者」を派遣し、「唐使」の来訪を望んだのではないでしょうか。「唐」はそれに応え、「隋」皇太子であった「楊勇」の娘婿という立場から「唐代」に入ってからは不遇を託っていた「高表仁」の能力を測る意味でも「抜擢」して派遣したものではないかと思われます。
(この項の作成日 2013/09/05、最終更新 2015/04/24)