「六三二年」の「唐」からの使者「高表仁」の「来倭」については『書紀』に詳しい記事があります。それによれば、「高表仁」は大歓迎を受け交渉は双方にとり非常に有益であったらしい事が記載されています。「争った」形跡など微塵も感じられません。
「六三二年」四年秋八月。大唐遣高表仁送三田耜共泊干對馬。是時學問僧靈雲僧旻及勝鳥養。新羅送使等從之。
冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干難波津。則遣大伴連馬養迎於江口。船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整餝。便告高表仁等曰。聞天子所命之使到干天皇朝迎之。時高表仁對曰。風寒之日。餝整船艘。以賜迎之。歡愧也。於是。令難波吉士小槻。大河内直矢伏爲導者到干舘前。乃遣伊岐史乙等。難波吉士八牛。引客等入於舘。即日給神酒。
「六三三年」五年春正月己朔甲辰。大唐客高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂。黒摩呂等。到對馬而還之。
しかしこの記事と「中国側資料」である『旧唐書』などについては明確に食い違いがあります。
『旧唐書』「東夷伝」
「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年(六四八年)又附新羅奉表、以通往起居。」
これによれば「高表仁」について「無綏遠之才」とされ、「倭国」など「夷蛮の国」を「慰撫」する能力がないとされています。
ただし、この「遣使」記録については『旧唐書』では「貞観五年」(六三一)となっているのに対して、『唐会要』では「貞観十五年」(六四一)となっているほか、『冊府元亀』だと「貞観十一年」(六三七年)となっているなど記録によってかなり異なります。また記事内容についても「高表仁」と礼を争った相手が『旧唐書』だけが倭国「王」ではなく、倭国「王子」となっているなどの違いも確認できます。ただし「元」の時代のことを編纂した『元史』によれば「太宗」の使者は「倭国王」に面会したという意味のことが書かれています。
「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」『元史』(列傳 第四十六/趙良弼より)
つまり「高宗」「太宗」の時の使者(これは「高表仁」と「劉徳髙」(「郭務そう」もか)を指すと思われます)は「倭国王」に面会できたのになぜ今の王(天皇)は私と会わないのかというわけです。これを信憑すると「高表仁」は「倭国王」と面会したというわけであり、礼を争った相手というのは「倭国王」であるという可能性が強いものと思われます。
また『旧唐書』の年次については「貞観五年」(六三一)に倭国の使いが来た、という記事がメインであり、「高表仁」の派遣がこの年のことなのかは不明であるように見えます。
『書紀』によれば「貞観六年」にあたる「六三二年」の「八月」に「高表仁」は「倭国の使者」と「新羅送使」を伴い、「対馬」に到着しています。
このようにこの「高表仁」記事については情報が錯綜しているわけですが、この記事についてはすでに述べましたが、実際には「六四一年」のことではなかったかと考えられ、「六四〇年」に「唐」で開催された(と思われる)「甲子朔旦冬至」の祝宴に「遣唐使」を派遣し、その「報表使」として「高表仁」が派遣されたものとみられます。
このように記事内容が全く食い違うわけですが、『書紀』編纂時点で『隋書』は完成していますが、当然『旧唐書』はまだできていません。『通典』などの実録をまとめたものもこの時点では成立していません。さらに「唐」と国交が回復した「六四八年」以降は「起居注」がもたらされていた可能性はありますが、それ以前の情報はなかったと思われ、結局「高表仁」の来倭に関する中国側資料は参照することができなかったものと思われます。というより外国史料に「合わせる」必要がないわけであり、そうであれば「倭国」にとって「不都合な真実」はカットされて当然という事となるでしょう。
ところでこの「高表仁」の「遣使」に対して『唐会要』と『冊府元亀』には『旧唐書』にはないことが書かれています。
「唐會要 巻九十九 倭國」「貞觀十五年十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海數月方至。自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。」
「冊府元龜 巻六六二 奉使部 絶域」「高表仁為新州刺史 貞觀中倭國朝貢 太宗矜其道遠詔所司無令歳貢。又遣表仁持節撫之 表仁浮海數月方至云:路經地獄之門 親見其上氣色葱鬱 有煙火之状。若爐錘號叫之聲 行者聞之莫不危懼」
これによれば「航海の途中」あるいは「上陸後」に「地獄の門」を通過したと書かれています。また「見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。」と言う状況が描写されています。「冊布元亀」では更に「有烟火之状」という一文が書き加えられていますが、この「冊布元亀」が資料的に最も新しく、その意味で正確さにおいてはやや劣るとも考えられるでしょう。
これらの記事はややその表現が曖昧なため、何を指すものか推測するしかない訳ですが、ここで言う「地獄」という言葉は当然のことながら仏教に関わるものであり、「高表仁」が聞いたという「呼叫鎚鍛之聲」あるいは「鑪鎚號叫之聲」というのは「地獄」の中の「叫喚地獄」に関わるものと考えることもできそうです。(「聲」とは人間の声を指す言葉と思われます。)
そこでは罪深い人物が「鉄棒で頭を叩かれたりする」と言われており、「高表仁」の表現はこれを彷彿とするものです。
つまり、「高表仁」が聞いたのは「鉄棒」などで叩かれている人間の出す「悲鳴」のように聞こえるものであったことを示していると考えられます。
この「叫喚地獄」というのは「殺生」、「盗み、「淫欲」、「飲酒」の四つの罪を犯した者が堕ちる場所とされており、これらのことから、「高表仁」が経過したこの場所は(「倭国内」か半島のどこかは不明)「罪人」を集めた「刑務所」のような場所ではなかったかと考えられ、そこを通過したことを示すものと思われます。そこで「罪人」に対する刑罰あるいは取り調べのため「拷問」などを行っていた際の「悲鳴」などを耳にしたのではないかと考えられます。この「収容所」のような場所について「地獄の門」と表現したのではないでしょうか。
彼の「来倭」については『書紀』によれば「新羅送使」を伴っているところから判断して「高表仁」は「唐」を出発した後、いったん「新羅」を経由し、その後倭国に向かったと考えられます。
この時「高表仁」が通ったルートは「表仁浮海數月方至」とあり、また「新羅」経由と考えると「北路」という海岸線航路だったのではないでしょうか。このルートは難船などの心配は余りありませんが行程が長くなりやすく、途中で天候不良により出港できなくなったとすると「数月」かかったというのも首肯できるところです。
あるいはこの「高表仁」の表現について何かの「自然現象」を表すと云う可能性もなくはないですが、(書き方が曖昧ですから、可能性はなくはないと考えられます)その場合は「火山」の噴火の描写が考えられ、そうであれば「阿蘇山」である可能性が高いと考えられます。このことは「倭国王」と「王子」が「阿蘇山」の至近にいたと考えられ、「肥後」に所在していたと考えられるものです。
「高表仁」達は「新羅」の送使に導かれ「対馬」に到着したわけであり、その後「倭国」に上陸していったと想定すると「火山」としては「阿蘇山」か「雲仙」の可能性しかないものと考えられます。「雲仙」であった場合は「佐賀」付近に上陸し、「肥前」を横断し有明海を横切って「肥後」へ、と言うルートが想定されます。これであれば「雲仙」の至近を通過することとなりますが、この場合は「首都」「筑紫」に立ち寄っていないわけであり、この地にあったと推定される「迎賓館」に入らず、セレモニーもなかったこととなりますが、それは不審です。
そう考えると、この「火山」は「雲仙」ではなく「阿蘇」であったと想定され、この場合は「対馬」から「筑紫」に入り「迎賓」を受けその後「筑後」へ抜け、そこから「肥後」へ行き「倭国王」及び「王子」と面会したというルートが考えられます。
そもそも「高表仁」は「対馬」に八月(何日かは不明)に到着後「難波津」に来たのが「十月」であり、二ヶ月かかっています。(到着は十月四日です)この間どこで何をしていたのでしょうか。
彼の前に倭国を訪れた「唐使」の「裴世清」は「肥後」にいた「阿毎多利思北孤」に面会したと考えられます。「高表仁」も「肥後」に行き「利歌彌多仏利」の「王子」である人物に面会したのではないでしょうか。
「阿蘇山」については「裴世清」も『隋書俀国伝』で特記しているように、頻繁に「噴火」しているようであり、このことを「高表仁」なりの表現で表したのかもしれません。(大噴火ではない可能性はありますが、現代の「阿蘇」や「桜島」などのように「常に」「噴煙」をあげ、「雷鳴」を轟せていたのではないでしょうか)
こう考えた場合この時「利歌彌多仏利」と「王子」は「肥後」の古都にいたとも考えられ、「筑紫」の新都から「筑後」の「離宮」、「肥後」の「古宮」を結ぶ九州の王都ラインが想定されます。
ところで「高表仁」は帰国の際も「対馬」を経由しています。
『舒明紀』五年(六三三年)春正月己朔甲辰。大唐客高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂。黒摩呂等。到對馬而還之。
このことは「来倭」時と同様「新羅」を経由したものと推察され、「来倭」の際に随行した「新羅送使」は、「新羅」と「対馬」間を「道案内」として先導し、その時点で「倭国」の「使者」に引き継ぎ、「高表仁」を送った後そのまま「対馬」にとどまり、帰国時の案内役を務めたものではないでしょうか。
このような手続きは「倭国」-「新羅」間では以前から決められていたことと思われ、それが実際には「卑弥呼」の時代から続く手続きであり、「一大率」による北方検察の一環であった過去を反映していると思われます。
『倭人伝』では「対馬国」以降「一大率」によって「末廬国」へ誘導されたものであり、この時の「高表仁」もそれ以前の「裴世清」も同様に「末廬国」へ誘導され、そこから陸路で「邪馬壹国」なと都のある場所へと案内されたものではないでしょうか。
この「対馬国」つまり「対馬」において、「倭国」と「新羅」あるいは「百済」などは互いに相手を識別する「印」をやりとりしていた可能性もあるでしょう。(「符契」のようなものか)そのようなものを双方で持っていて、それで正しい相手であることを確認するなどの方法を採っていたものかと推定されます。でなければ「唐」国の使者を、間違いなく「倭国にお送りした」ということになりませんし、「間違った相手」や「詐称」した相手に引き渡すと国際問題になりかねません。
(この項の作成日 2011/06/26、最終更新 2015/04/24)