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「新型」の「富本銭」について


 「二〇〇七年十一月」に「藤原京」遺跡から「地鎮具」として出土した「富本銭」はそれまで発見されていたものとは異なる種類のものでした。それは「飛鳥池工房」などで造られていたものとは、「厚み」が違う事と(やや厚い)、「アンチモン」を含有していないというのが大きな特徴です。(その代わり「錫」が使用されているようです)
 また「富」の字が「うかんむり」ではなく「わかんむり」(冨)になっていることや、その平均重量(8枚)が「6.77g」であることが判明しており、これらは「飛鳥池工房」遺跡から出土した「富本銭」の姿と大きく異なるものであり、これは「唐」の「開通元寶」(開元通寶とも)と同一の規格で作られたという「富本銭」に関わる常識と相反しています。
 そもそもこの発見された「富本銭」は「鋳上がり」も余り良いとはいえず、線も繊細ではなく、「内画」(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため「冨」と「本」がやや扁平になっており、窮屈な印象を与えます。(スペースがないことが「うかんむり」ではなく「わかんむり」を選択した理由かも知れません)また、「七曜紋」も粒が大きく、各粒間の距離が取れていないためこれも窮屈に見えます。これらデザイン面でも「従来型」の「富本銭」と比べて「洗練」されていないように見え、時期的に先行する可能性を示唆します。(ただし、現「奈文研」所長の「松村恵司氏」の見解ではそうは見ていないようですが)
 このことからこの「新種」の「富本銭」は「初期型」であり、長期間「王権」に秘蔵されていたものであったのではないかという推測も可能ではないでしょうか。
 発見された「富本銭」は「水晶」と共に口の細い「平瓶(ひらか)」状容器に封入されていました。これはいわゆる「地鎮具」であり、「大極殿」の「正門」と思われる場所からの出土でしたから、「宮殿」全体に対する「守護」を願い、「事故」や「天変地異」などに遭わないようにという呪術が込められているものです。
 このような「新都」造営に際しての「地鎮具」に封入されるものとして「特別」なものが用意されるというのは当然あり得ることであり、「王権内部」で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来るのではないかと考えられます。つまり、これは「新型」なのではなく、「飛鳥池工房」で製造されるものより以前の時期の鋳造品であったと言う事を想定すべきではないかと思料されるのです。
 
 「無文銀銭」は「当初」「五銖銭」と互換性を持たせるために「6.7g」程度の重量として設定されたものと思われますが、その後「唐」で新たに作られた「開通元寶」と互換性を持たせるように「応急的に」「小片」が付加されることとなったと考えられ、その段階で約10g程度の重量となったものと見られます。(「開通元寶」は「唐」の「武徳四年」(六二一年)に始めて鋳造されたものです。)
 このような「無文銀銭」の流れから推定して、「6.7g」ある「新種」の「富本銭」は「開通元寶」の鋳造前かあるいは「唐」の「開通元寶」鋳造という「情報が伝わっていない時点」での製造ではないのかと考えられるところです。
 「倭国王権」は当初は「無文銀銭」を種々の用途に使用していたものですが、その後同重量の「銅銭」を製造し、「無文銀銭」と同等の価値を「銅銭」に与えようとしたのではないでしょうか。
 従来型の「富本銭」は「唐」の「開通元寶」とほとんど同じ規格(大きさ、重さ)で作られており、「唐」の影響を強く受けていると考えられておりますが、表記が「富本」と二文字であり、最新の「唐制」というよりも、漢代より長期間継続して使用された「五銖銭」の影響の方が大きいとされています。
 「富本」という用語も、「五銖銭を復興するべき」という「後漢代」の武将の上申からの引用と考えられているようですが、そのように「富本」という言葉と「五銖銭」との間に関係があるとすると「五銖銭」と「富本銭」との間に重量として共通基準がある方が整合的であるわけですが、実際には従来型の「富本銭」は(飛鳥池工房のものを含め)「4g」程度であり、これは「五銖銭」ではなく「開通元寶」に重量基準が合っていることとなります。しかし、デザインは「五銖銭」に対応しながら重量は「開通元寶」に対応しているというのは実際には「矛盾」なのです。
 しかし、この「新種」の「富本銭」ではまさに「五銖銭」との間に重量基準が設定されていることが明確であり、その意味で「矛盾」はなくなります。(一対二の整数比となります)
 しかし、「五銖銭」は「隋代」に使用されたのを最後として、それ以降「初唐」時期に「開通元寶」が鋳造されてからはその役割を終えたものと理解されています。その意味からはこの「新種」の「富本銭」の当初製造時期がかなり早いことが推定されます。
 その後「唐」で「開通元寶」の鋳造が始まり「五銖銭」が終焉を迎えたことを知った「倭国」は、「無文銀銭」に「小片」を付加させて重量調節をしたものであり、またそれと同時に「銅銭」(従来型「富本銭」)も鋳造開始したものと思料します。つまり「無文銀銭」に小片が付加された時期と「従来型」「富本銭」の鋳造時期はほぼ同時であったのではないかと考えられるものです。問題はその時期です。

 「前期難波宮」の遺跡からは「従来型」の「富本銭」が出土していますから、「難波宮殿」に附属していた「大蔵」では「従来型」「富本銭」が「貯蔵」されていたものと思われ、このことは少なくとも「七世紀半ば」程度の時期には「従来型」の「富本銭」が製造されていたこととなり、「新型」の「富本銭」はさらにそれを遡る時期を想定すべき事となります。そもそも「初唐」以降であることは間違いないわけであり、これらのことから「七世紀第二四半期」と言う概括的な年次範囲が得られます。可能性としては「高表仁の来倭時」が有力視されます。この年次については別途検討した結果「六四一年」という年次が推定されています。この時「遣隋使」や「遣唐使」達が同伴して帰国した事が「法苑珠林」に書かれています。

「倭国は此の洲外の大海の中に在り。会稽を距てること万余里。隋の大業の初、彼の国の官人、会丞、此に来りて学問す。内外博知。唐の貞観五年に至り、本国の道俗七人と共に方に倭国に還る。…」

 この中の「大業の初」といい「貞観五年」の帰国とされていますが、これは「隋書」に沿った記述と思われその「隋書」に信頼がおけないとするとそれが「六三一年」とは断定できないこととなります。いずれにしても彼等が「開通元寶」に関する情報を持ち帰ったという可能性を想定するのは無理がないと思われます。
 つまり、この時点で「無文銀銭」と「富本銭」は「一対一」の重量ではなくなったこととなります。元々はどちらも「6.7g」程度であったものが、この時点で「無文銀銭」は「小片」が付加されて「10g」程度となり、「富本銭」は「開通元寶」そのものと同じ「4g」程度と大きく異なることとなったと見られ、このことはこの時点付近で「倭国王権」として「等価交換」を断念したという可能性もあると思われます。つまりこの時点で「富本銭」は「無文銀銭」の下位貨幣として「補助貨幣」的役割をするようになったのではないでしょうか。(つまり取引の主役はまだ「無文銀銭」であったと思われます。)

 また、「富本銭」に使用されている「七曜紋」についてもそれが「陰陽五行」を表すという解釈がされますが(松村氏の説)、それは「天武朝」の製造を想定していることからの「予断」ともいえると思われます。つまり「天武」が「道教」などに傾倒していると言うことを想定(前提)しての解釈であるわけですが、デザインとして「中心」に一つ、「周囲」に六個の「珠紋」というのはつまり「一+六」であり、陰陽五行となれば明らかに「二+五」ですから、食い違っているといえるでしょう。これについては「上下」が「陰陽」で「中心」が「土」であるという解釈をしているようですが、それは非常に「苦しい」解釈といえるでしょう。確かに「方向」としては「土」は「中心」の意義がありますが、それは「水平」にデザインされたものの「東西南北」が明示できる場合であると思われ、例えば「建物」などの場合には建物の四隅に「火水木金」を配置し、中心に「土」とする場合がありますが、「貨幣」の場合には「方向」も固定されているわけではありませんから、「五行」で方向を表すと考えるのは適切ではないと思えます。
 また「五行」は「火水木金土」という五つの要素が「循環」することによって万物が生成されるという思想ですから、その意味では「円周上」に配されてこそ「五行」を意味するといえると思われますが、そうでないとするとこの「七曜紋」は「陰陽五行」を意味するものとは考えにくいこととなります。
 他に考えられるのは「北斗七星」を意味するという可能性ですが、その場合「北斗」の柄杓の形のままに並んでいる可能性が高く(「四天王寺」や「法隆寺」に伝わる「七星剣」などがそう)、やや意味合いが異なると言えると思われます。
 結局「陰陽五行」あるいは「北斗」など「道教」に関わるものが表されているのではないものと考えられ、「天武」と結びつくものは実はないこととなります。


(この項の作成日 2011/01/03、この項の最終更新 2013/08/29)