ホーム:倭国の七世紀(倭国から日本国への過渡期):七世紀の改革:「富本銭」について:

「富本銭」鋳造について


 既に述べたように「阿毎多利思北孤」あるいは「弟王」である「難波王」あるいは「利歌彌多仏利」の時代に「銀銭」が導入され、特に「高額」取引に使用されていたと考えられる訳ですが、その直後あるいは並行して「銅銭」が製造されることとなった模様です。

 そもそもこの「富本銭」というものは江戸時代から知られており、それまでは「厭勝銭」(おまじないなどに使用)であり、「流通していなかった」(実際に貨幣としては使用されていなかった)と考えられてきていました。しかし、「飛鳥池遺跡」は明らかに当時の「貨幣鋳造所」の遺跡と考えられますし、長野県や群馬県からも出土が確認され、これまでに五六〇枚以上見つかっていることからも「実際に使用されていた」ものと考えるべきこととなったものです。
  この「富本銭」については「従来」から、「いつ、誰により、どのような意図で作られたものか。また、それはなぜ廃絶されたのか。さらに、『無文銀銭』との関係や、後の『和同銭』との関係はどのようなものであったか」という疑問が提出されていました。
 「無文銀銭」もそうですがこの「富本銭」についても全く『書紀』『続日本紀』に登場しません。
 しかし、「飛鳥池遺跡」などからの「富本銭」の出土状況は「国家」としての「富本銭鋳造」事業であったことを示していると思われます。その組織、規模などは一豪族などの事業の範囲を超えています。にもかかわらず、「書記」にも『続日本紀』にもは影も形も見えていません。「鋳銭司」設置記事はあるものの、そこでどのような貨幣を鋳造していたのか等重要な内容が欠けているのです。このことは「評制」や「国宰」など同様「隠蔽」されていることを示すものですが、それは即座にその隠蔽の「意図」も同様であったと推測できることを示すものです。つまり、『書紀』や『続日本紀』のこの「沈黙」は、「富本銭」や「無文銀銭」が「九州倭国王権」に直接つながる性質を持っていることを示すものと言えるのではないでしょうか。

 この「富本銭」に続いて鋳造されたとされる「古和同銅銭」については、その成分分析によりいずれも多量の「アンチモン」を含んでおり、この二つがかなり近似していることが指摘されています。
 「古和同銅銭」というのは「和同開珎」の初期鋳造品をいい、「文字」の形や「鋳造」の具合がその後の「和同開珎」(新和同)と異なっているものです。
 この「古和同銅銭」の産地(銅と鉛)として候補が挙がっている内の一つは「豊前」(大分県)の「香春岳」の銅山であり、成分(放射性同位体の比率)が近似しているようです。(ただし、「豊前」の銅山がいつ頃開かれたかは史料がなく不明となっています)
 また「アンチモン」は「伊予」からの産出ではないかと考えられています。それについては「市の川アンチモン鉱山」(現在は廃鉱)の存在が注目されます。
 このように「古和同銅銭」は「富本銭」と成分が共通しているわけですから、「富本銭」もその主要な原材料の生産地が「豊前」の国などであったと考える事ができると思われます。
 それと関連しているのが「和銅年間」に「大宰府」から「銅銭」が献上された記事です。

「和銅三年(七一〇年)春正月壬子朔丙寅条」「大宰府獻銅錢。」

 この記事は非常にシンプルではありますが、「大宰府」から献上されたという意味の中に、「鋳造」もこの「大宰府下」であったと考えられること、時代状況としてこれが「古和銅銅銭」であった事が推定されますが、上に述べたように現在発見されている「古和銅」の場合その成分が「富本銭」に酷似していると考えられることなどから、この「大宰府」近辺では以前から「富本銭」を鋳造していたのではないかと考えられる余地が生まれます。この事からも「富本銭」と「九州倭国王権」との間に深い関係があると推察できると思われます。

 「富本銭」と鋳造用の鋳型などが発見された「飛鳥池遺跡」では、その後の調査により「富本銭」と同じ場所(層)から木簡が出土し、その年次が「六八七年」を示していたことが判明しています。このことから「奈文研」の見解では、「富本銭」の製造時期がこの年次付近であり、これを大きく遡上するものではないと考えているようです。しかし、その「層序」から考えて、製造年の範囲の一端を示すものではあるものの、その「上限」や「下限」の時期を限定するものではないと思われます。
 この層と同じレベルあるいは「下」と考えられる層(つまり古い層)からは旧「飛鳥寺」(「法興寺」…これは私見によれば本来「元興寺」とは「別寺院」と考えられます)の「禅院」の瓦と同じ瓦が出ています。
 この禅院は「道昭」が「唐」から帰国後建てたものであり、その年次は「類従国史」によれば「六八二年」、「三大実録」によれば「六六二年」と書かれていて、両者で食い違っています。
 「道昭」については帰国の年次が『書紀』に明記されていませんが、「道昭」が「師事」した「三蔵法師玄奘」は「六六四年」に亡くなっており、「道昭」の帰国は彼の存命中とされますから「六六四年」より以前であることは間違いありません。また彼は「遣唐使団」の一員として「白雉年間」に「唐」に渡ったとされていますから、「六五三年」よりは以前ではありません。これに関しては「斉明七年」、つまり「六六一年」帰国という説が有力のようです。
 また、『続日本紀』には「道昭」が亡くなった際の記事として以下のように書かれています。

「『続日本紀』文武四年(七〇〇年)三月十日条」
「於元興寺東南隅、別建禅院而住焉、……於後周遊天下、……凡十有余載、有勅請還、還住禅院坐禅如故、……後遷都平城也、和尚及弟子等奏聞、徙建禅院於新京、今平城右京禅院是也」

 つまり、帰って来てから「禅院」を作り、その後天下を「周遊」したとされ、その後十数年間の「周遊」の後、「禅院」に「還ってきた」と言うわけです。これによれば「禅院」の建築は彼が帰国して直後のこととなり、「六六二年」という「三大実録」の記述の信用性が高いもののようです。
 つまり、「飛鳥池遺跡」の遺跡から判断される事は、「禅院」の建築に伴い、瓦の製造を「六六二年頃」行ったこととなるでしょう。その後、(時期は不明ですが)「富本銭」鋳造の工房に転用されたものと思われますが、「瓦」の製造は「禅院」が完成したらすみやかに停止されるものであり、この後「富本銭」の製造が始められたとすると、この場所での「富本銭」の鋳造はこの「六六二年」という年次からさほど遠くないことが推定できます。

 また、この「飛鳥池遺跡」での「富本銭」鋳造に際して使用された「鋳型」の材料については、「斉明天皇」の所業として『書紀』が伝える「酒船石」遺跡の「石垣」の石材を再利用して作られていたのではないかという考え方があるようです。
 確かに、発見された「鋳型」の成分鉱物と、「酒船石遺跡」の石垣の成分鉱物が同一であり(「凝灰岩質細粒砂岩」)、これは奈良県天理市付近から産出するものであることが判明しています。この石材は「飛鳥池遺跡」でも「石敷き」の材料として使用されており、この地域で使用される石材として非常に一般的であったことがわかります。
 現在の推定では「石垣」の一部の石材を砕いて鋳型を造ったと考えられており、そうであれば「六六〇年代」の「鋳造」という推定とも合致します。
 ちなみに、この「斉明」というのが『書紀』に言うように「天智」「天武」の母であるとすると、この時点で「母」の作った石垣を崩すとか、すでに崩れていた石垣を修復せずにそのまま「鋳型」の材料として使用したという事となりますが、もしそれが事実とすれば、この「富本銭」を鋳造させた人物は「斉明」の子供とは思えません。もしも子供なら、母の作った石垣の「補修」を行うことはあっても、「砕いて」別用途に転用するとは思えません。そのような一種「無遠慮」な行動は、明らかにここで「富本銭」の鋳造に関わった人物と「斉明」とは関わりのない人物であったということを意味するものと思われます。この事から、この時「飛鳥池工房」を構築した人物について「天智」でも「天武」でもないこととなり、それは年次から言うと「唐」の捕囚から帰国した「筑紫君薩夜麻」であったと言う可能性が考えられると思われます。
 また、これらのことから一見「六六二年以前」は「富本銭」の製造を行なっていなかったように受け取られるかも知れませんが、そうとは断言できません。それはこの「飛鳥池遺跡」で製造されたものではないと考えられる「富本銭」が発見されているからです。


(この項の作成日 2011/01/03、この項の最終更新 2013/08/29)