ホーム:倭国の六世紀:「評制」について:

「屯倉」と「評」


 「改新の詔」の中に「公地公民」制に関する部分があり、そこに「屯倉」に関する事が書かれています。

「 罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。」

 これは「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。」という意味であり、一種の国有化政策です。(というより「倭国王一元化」政策と言うべきでしょうか)
 しかし、「評制施行」が書かれていた『皇太神宮儀式帳』の中にはその「評」の施行と共に「屯倉」の設置記事が含まれているのです。

(『皇太神宮儀式帳』)
「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天皇御代、以甲子年、小乙中久米勝麿多気郡四箇郷申割、立飯野(高)宮村屯倉、評督領仕奉」

 上の資料を見ると「廃止」されたはずの「屯倉」が「設置」されていることが分かります。しかもそれは「難波朝廷」からのものとされ、これは通常「孝徳」の王権を意味するとされますが、それでは「廃止」の「詔」を出した「改新の詔」中身と大きく食い違います。この事からこの『皇太神宮儀式帳』の記事と「改新の詔」とは「両立しない」と言うことが分かります、その場合「改新の詔」が出される相当以前に「評」が施行されていたらしいこととならざるを得ません。(この事は「難波朝廷」なるものの存在時期も同様に遡上する可能性を示唆するものです。)

 ところで、『常陸国風土記』によれば「郡家」が遠く不便である、ということで「茨城」と「那珂」から「戸」を割いて新しく「行方」郡を作った際のことが記事に書かれています。

『常陸国風土記』「行方郡」の条
「行方郡東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請惣領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家」

 ここでは「茨城」と「那珂」から併せて「十五里(さと)」を割いて「行方郡」を作ったと書かれており、それが計七百余戸といいますから、計算すると一つの「里」が五十戸程度となります。このことからこの段階ないしはそれ以前に「五十戸制」が敷かれているとする見解が有力でしたが、確かに分郡されたこの時点では当然そのように想定できるものですが、「それ以前」にも「五十戸制」であったかは以下の理由により、そうとは断定できないと考えられます。(これは以前の当方の見解を変更したものです)

 この分郡には複数の理由が考えられますが、「利便性」という観点だけで考えても、新しく建てられた「行方郡」はともかく「割譲」された「茨城」と「那珂」が小さくなりすぎては奇妙ですし、困ると思えます。これが「利便性」を優先したものでないことは「分郡」に当たって「理由」が示されていないことでも推測できます。通常「郡家」まで遠い等の理由が「分郡」ないしは「新設」の場合よく見受けられる訳ですが、この場合はそのような事は書かれていません。
 このことは「分郡」の理由がもっぱら「茨城」と「那珂」の人口増加にあったと見るべき事となりますが、そうであるとすると、この両郡は「割譲」後、スリム化されて基準(標準)値である「七五〇-八〇〇戸」程度まで「減数」されたと考えられることとなるでしょう。
 「分郡」の場合、元の「郡」(評)のサイズが小さくなりすぎない規模になるように調整されると考えられ、その場合両郡とも元々基準値をかなり超えた状態で「分郡」措置が適用されることとなったと見るべきです。「現在」の都市の「分区」などにおいても「人口」の大きくなりすぎた区を分ける際には「元」の区の規模が必ず「新設区」よりも大きい状態を維持しています。これはそもそも「分区」が「人口増加」によるからであり、その「人口増加」の著しいエリアを新設区側に割り当てることにより、そう遠くない未来に似たような規模になることを見込んでいる訳ですが、この時の「分郡」も状況としては似ていたものと思われ、「行方郡」の領域の人口増加が大きかったためにその部分を切り離すこととなったものでしょう。そうであれば「茨城」「那珂」の両郡の「分郡後」の戸数は「新設」された「行方郡」よりも小さくはないことが推定できます。
 「行方郡」が「七百余戸」とされているわけであり、このことから、「茨城」「那珂」の両郡は八百~千戸程度あったのではないかと考えられます。つまり、元々の基準値である「八百戸」の二倍を超えた時点で各々から半分弱程度を分けたという想定が最も蓋然性が高いと見られます。
 この時の「里数」を「五十戸」制として考えると「三十五里」程度あったこととなります。
 「改新の詔」では「郡の大小」について書かれており、「四十里」を超える「郡」の存在も許容しているようですから、「三十五里」付近で分郡しなければならないという必然性はないこととなります。しかし、この時点で「八十戸制」であったとして、分郡前に「茨城」「那珂」両郡とも「千九百戸」程度であったとすると、両郡とも元々「二十二~三里」程度となって『隋書俀伝』に記された「十里」で一軍尼が管理するという基準の二倍をやや超えたぐらいになります。これは上の想定と一致しており、この程度であれば存在としてあり得ますし、またその程度で「分郡」するというのも規模、タイミングとして理解できるものです。
 ここから各々七-八里引いて新郡を増設したとすると「茨城」「那珂」がやや大きく、新設された「行方」がやや小さいという推定にほぼ整合します。
 このことからこの「分郡」時点以前では「五十戸制」ではなく「八十戸制」であったものであり、この「癸丑」という干支の指し示す時点で「分郡」と共に「五十戸制」に移行したのではないかと考えられることとなるでしょう。それは「遣隋使」の派遣された時期との関連で考えても首肯できるところです。つまり、この「癸丑」という年次は「六〇〇年以前」であるところの「五九四年」であるという可能性が高いと思料します。
 『皇太神宮儀式帳』の記事では「度会山田原」と「竹村」では共に「十郷」で一つの「屯倉」に充て、そのために「評督」(督領)を置いたとされていますが、「評」の戸数は上に見るように「七百-八百戸」程度あったと考えられるわけですから、「一郷」は「七十-八十戸」程度あることとなり、これは『隋書俀国伝』に言う「八十戸制」そのものであると理解できます。(この場合は「分郡」というわけではないと思われます)

 この「八十戸制」は「隋制」が導入された「阿毎多利思北孤」時代(六世紀末か)の時点で「五十戸制」に「改定」されたと見られますから、この「儀式帳」記事の年次は遅くとも「六世紀末」ごろの事を記したものではないかと推定されることとなり、「立評」そのものも「阿毎多利思北孤」の頃を想定しなければならないと言う事にもなります。つまり「難波朝廷」「難波長柄豊前大宮馭宇天皇」とは「阿毎多利思北孤」あるいは彼に目される「押坂彦人大兄」と共に「兄弟統治」を行なっていた「難波皇子」の「朝廷」を意味するものではないかと考えられることとなるでしょう。
 これは既に指摘した「六十六国分国」時点の倭国王についての表現である「難波長柄豊崎臨軒天皇」と同じであると考えられ、同一時点の記事であることが推定されるものです。
 またこのことは「屯倉」と「評」の間に密接な関係があることが推定されるものであり、「屯倉」の設置された領域だけに「評」という制度が施行され、「屯倉」の監督官として「督領」(評督)が任命されていたことが窺えます。
 既に述べましたが、「屯倉」は「邸閣」の意義を持っていたものと思われ、ある意味軍事施設と言ってもいいものでしたが、「評」や「評督」に軍事的意味があると考えられているわけですから、その意味では整合します。

 また、『常陸国風土記』には「香島神宮」の「神戸」の戸数の変遷について興味ある記録が書かれています。

「美麻貴天皇之世 大坂山乃頂爾 白細乃大御服々坐而 白桙御杖取坐 識賜命者 我前乎治奉者 汝聞看食国乎 大国小国 事依給等識賜岐 于時 追集八十之伴緒 挙此事而訪問 於是大中臣神聞勝命答曰 大八島国汝所知食国止事向賜之 香島国坐天津大御神乃挙教事者 天皇聞諸即恐驚 奉納前件幣帛於神宮也 神戸六十五烟 本八戸 難波天皇之世加奉五十戸 飛鳥浄見原大朝加奉九戸 合六十七戸 庚寅年編戸減二戸 令定六十五戸 淡海大津朝初遣使人造神之宮 自爾已来修理不絶」

 つまり、「香島神宮」の「神部」の戸数の変遷について、「本八戸」であったものが「難波天皇の世」に「加奉五十戸」となり、その後「飛鳥浄見原大朝」に「加奉九戸」され、「庚寅年」に「編戸減二戸」となったと書かれています。(ここでは「朝廷名」が書かれていません)そして、「令定」として「六十五戸」となったとされています。(ここでも明確には「朝廷名」が書かれていません)
 ここでいう「難波天皇」や「難波朝廷」というのは上に考察したように「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」(あるいは「難波皇子」)の朝廷を指すと考えられ、その時点で「神戸」を加増したと考えられます。
 このような「神戸数」の変遷は「倭国」と「香島」の関係の変化を記すものであり、「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」の時代(難波天皇の時代)には「国家」の起源の一部として「神話」が創成され、その中で彼の祖先が全国を「平定」したこと示す説話を作り上げたことと「一体」を成すものであり、「東国」などに対して彼の時代に関与を強めたことを示すものと考えられるものですが、それは即座に「惣領」として「高向」「中臣」両氏が「我姫」(特に常陸)に配置されたと見られることと関連していると考えられます。
 また「香島」「香取」両神宮と「中臣氏」の関係が深いとされていることもそのことの反映であると思われます。またその「加増」した戸数として「五十戸」とされていることからも、「五十戸制」の導入時点と至近の時期に加増されたであろうことを想定させるものです。
 
 また上の記事を見ると各天皇の表記は「難波天皇之世」、「飛鳥浄見原大朝」、「淡海大津朝」というように各々微妙に異なっています。このうち「難波天皇之世」という表現は他の二つに比べ明らかに意味の異なるものです。
 「飛鳥」と「近江」の場合は「大朝」「朝」というように「大」の字がつくか否かの違いはあるものの、共に「行為」の主体が「朝」つまり「朝廷」であったことを示しますが、「難波」の場合は単に「時代」を示しているのみであって、行為の主体が「難波天皇」ないしは「朝廷」であったとは読み取れません。
 これは「常陸」を含む「アヅマ」に「総領」が配置されていたことと関係があると思われます。つまり「行為」の主体は「総領」であった「高向大夫」「中臣大夫」であり、「難波天皇」ではなかったと言う事を意味していると考えられ、逆に言うと「飛鳥」と「近江」の「朝廷」は「直接」この「香島神宮」に対して「神戸」の「加奉」を行ったものと言うこととなると思われます。その場合「飛鳥浄御原大朝」が示すと思われる「難波副都」を建設した「倭国王」の時代以降「総領」が(「アヅマ」には)廃止されていたことを示唆するものでもあるようです。


(この項の作成日 2011/4/16、最終更新 2015/07/06)