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「評制」と半島の制度


 戦後、日本の古代史で有名になった論争があります。それは「大化改新の詔勅」に関するもので、そこでは「郡」という用語が使用されていますが、「那須国造碑」などの金石文(石碑などに書かれた文)には「郡」ではなく、「評」という用語が使用されていて、「実際には」どちらが使用されていたのか、というものです。
 この論争は「藤原宮」跡地(奈良県)から「評」と書かれた木簡と「郡」が使用された木簡がともに出土して終結しました。それは、地層の重なりなどから判断して「七世紀の終わりまで『評』」で、「八世紀の初めからは『郡』」というように、行政制度に「切替わり」があったことが明白になったからです。明らかに「評」という制度が「郡」に先立って実際に各地で施行されていたものと考えざるを得なくなりました。
 しかし、これについては従来からの学者の多くが「郡」でも「評」でもどちらも「こおり」である、という一種の「矮小化」の中に逃げ込もうとしています。つまり「制度」としては変わらない、表記する「字」の問題である、というのです。しかし、このような理解に真っ向から反するのが「木簡」の記述です。そこには「評造」や「評督」という官職名が記されていました。
 「郡」行政下の官職は「郡司」であり、「郡督」も「郡造」もありません。また逆に「評」行政下には「評司」はありません。これらのことは、単に表記上の字面の問題ではなく、「行政制度」そのものに「交替」があった、ということと考えなければならないということを意味しています。
 また、「評」を記した木簡の一番新しいとされるものは以下のものです。

「若佐國小丹生評 庚子年四月 木ツ里里秦人申二斗」(藤原宮跡出土)

 ここには「国―評―里」という行政制度が看取され、このような整った形の制度はかなり後期段階のものであり、このことから従来ここに書かれた「庚子」年は「七〇〇年」と理解されています。
 このように「諸国」から貢納される物品につけられた「荷札」として使用された木簡を見ると、「庚子」以前の干支が書かれている場合、そこには「評」と書かれているのが確認されています。しかし、『日本書紀』、『続日本紀』など「正史」と呼ばれる記録には「評」に関する一切の記録が現れません。「郡制」が施行されていなかったと思われる時期の記録においても、全て「郡」で書いてあり、また「郡司」や「大領」「小領」など『大宝令』で規定されたと考えられる制度や官職名が出てくるのです。
 この理由について、従来は「不明」であるとしか言えない訳ですが、あたかも「評」という「制度」を「忘却」もしくは「隠蔽」しているかのごとくです。もっとも「制度」というものは、施行した「体制(権力)」と不可分のものですから、「制度」の隠蔽はすなわち「体制(権力)」そのものの隠蔽と考えざるを得ません。

 ところで以下の「継体紀」記事では「任那」の行政制度として「評」が現れます。

「(継体)廿四年(五三四年)秋九月条」「…於是阿利斯等知其細碎爲事不務所期。頻勸歸朝。尚不聽還。由是悉知行迹。心生飜背。乃遣久禮斯己母。使于新羅請兵。奴須久利使于百濟請兵。毛野臣聞百濟兵來。迎討背評。背評地名。亦名能備己富里也。」

 また、それ以外にも「南史」や「北史」など中国の史書に「半島」の「評」の例が出て来ます。

「南史/列傳 第六十九/夷貊下/東夷/新羅」
「新羅…其俗呼城曰健牟羅,其邑在?曰啄評 ,在外曰邑勒,亦中國之言郡縣也。國有六啄評、五十二邑勒。…」

「北史/列傳 第八十二/高句麗」
「官有大對盧、太大兄、大兄、小兄、竟侯奢、烏拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳 屬、仙人,凡十二等,分掌?外事。其大對盧則以強弱相陵奪而自為之,不由王署置。復有 ?評 、五部褥薩。[一五]復有?評 五部褥薩 隋書「?評 」下有「外評 」二字。 …」

 このように「新羅」の「啄評(村落を有する城をいう)」や「高句麗」の「内評、外評」の例があり、朝鮮半島諸国にその使用例が見られるわけですが、この「評」の「起源」は「秦漢代」の中国にあり、「司法」に関する組織(官僚)である「廷尉」の「属官」としてのものでした。
 「廷尉」は「秦」において設置された「司法」を司る官であり、その「属官」として「廷尉監」「廷尉評(平)」「廷尉史」があるとされます。
 特に「廷尉評」はその後単に「評」と呼称されたと見られ、「半島」における「地名」としての「評」の淵源はこの「廷尉評」にあるのではないかと考えられます。そして「律令」(特に「律」)は「廷尉」がそれを駆使して「審理」・「判断」するものであることから、「尉律」と呼ばれたとされます。
 このように「治安維持」という国家統治の基本的部分を担う組織が「半島」に深く浸透していたものと思われるわけです。

 この「継体紀」の例は「任那」におけるものでしたが、古田氏もいうように「任那」は「倭の五王」が自称し、また「南朝劉宋」に認めさせた称号の中の「六国諸軍事」という中に含まれていますから、「倭国」は「軍事権」を「任那」において行使していたと見られることとなりますが、当時は「兵刑一致」の時代であり、「軍事」部門が「警察」権力をも握っていたと思われます。そう考えると、「評」について「任那」で「廷尉評」として「司法権」(あるいは「警察権」といっても良いわけですが)を行使していたのは「倭国」であると言う事となり、それが以下のような「探湯」を行っていたという記事につながると考えられます。

「(継体)廿四年(五三四年)秋九月。任那使奏云。毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅。淹留二歳。一本云。三歳者。連去來年數也。懶聽政焉。爰以日本人與任那人。頻以兒息難決。元無能判。毛野臣樂置誓湯曰。實者不爛虚者。必爛。是以投湯爛死者衆。」

 ここに見るような「訴訟」を「裁判」する権利は「廷尉」の専管事項であったはずであり、そう考えるとその「廷尉」の裁判の根本基準としての「律令」というものがこの時点で存在していたことが推定されます。

 「廷尉」については時代によりその名称が幾度か変遷したようですが、(一旦南朝「梁」の時代に「大理」となったがその前後「廷尉」であったもの)「唐」の時代になって「廷尉」は再び「大理」に変更され、その「属官」として「司直」と「評事」がいたとされます。このことから、「倭国」が「隋」や「唐」から「制度」を学んだとすると、「官僚」(司法)の制度として「評事」が導入されたというのなら理解できますが、「行政制度」として「評」が導入されたというのは考えにくいこととなります。そのようなものは「隋・唐」には存在しなかったからです。それでもなお、この「評」という行政制度が「七世紀半ば」に施行されたとするならば、そのような時期に「半島」(「百済」や「新羅」「高句麗」など)から「制度」を取り入れるということがあったとしなければならなくなります。しかし、通常の儀礼的な「朝貢」等のやりとりはあったとしても、「制度」を取り入れるとなると、「倭国」と「半島諸国」との間には「対等」な関係がなかったこととなるでしょう。つまり「隋」や「唐」との間のような一種の「文化勾配」とでもいうべきものが「半島諸国」と「倭国」の間にあったとしなければならなくなりますが、そのような想定は可能でしょうか。

 「倭国」は「七世紀初め」という時期に「隋皇帝」に対し「天子」を自称するということを行なっており、また『隋書俀国伝』には「新羅百済は倭を大国として敬仰していた」という意味のことが書かれており、これらを見ると、「新羅」「百済」に対して少なくとも「対等」以上の関係を保っていたことが窺えます。そう考えると、それ以降「制度」「文化」を学ぶというような姿勢が「倭国王権」にあったかはかなり疑問ではないでしょうか。
 『書紀』の記述から見ると当時「百済」「高句麗」との間の関係はあくまでも「対等」なレベルのものであったものであり、例えば「遣唐使」のような使者を送って「遣唐学生」などのような「制度」や「文化」を取り入れたというようなことは認められません。
 わずかに「三国」(高麗・百済・新羅)に「学問僧」を派遣したという記録が「六四八年」にありますが、これでは少々遅すぎるでしょう。なぜなら、通常の考え方ではこれは「評制」施行時点付近だからです。しかし、この年次以前に同様なものが派遣されたのは「六四五年」の記事ぐらいしかなく、この記事には確かに「高麗學問僧」という名称が確認できるもののその中身として「何時」「誰が」派遣されたのか、また「帰国」はいつのことなのかなどが一切不明であり、信憑性のある記事とは思えません。また彼らは「僧」ですから、「学問一般」あるいは「行政制度」などの学習が目的であったとは考えられず、「評制」導入に主体的な活動をしたとは考えられないこととなるでしょう。
 
「(六四五年)四年夏四月戊戌朔。高麗學問僧等言。同學鞍作得志。以虎爲友。學取其術。或使枯山變爲青山。或使黄地變爲白水。種々奇術不可殫究。又虎授其針曰。愼矣愼矣。勿令人知。以此治之病無不愈。果如所言。治無不差。得志恒以其針隱置柱中。於後虎折其柱取針走去。高麗國知得志欲歸之意。與毒殺之。」(皇極紀)

 以上のことからも、「評制」の導入とその施行は「七世紀半ば」とは考えられないこととなります。
 そもそもこの「評」という制度がこの時の「半島諸国」で使用され、あるいは地名にまでなっていたとすると、それが「七世紀半ば」まで「倭国」に伝わらなかったあるいは導入しなかったという想定は、やや困難ではないでしょうか。

 ところで、『欽明紀』には『書紀』で唯一「廷尉」という存在が書かれています(下記)。

(五六二年)廿三年春正月六月是月条」「是月。或有譖馬飼首歌依曰。歌依之妻逢臣讃岐鞍薦有異。熟而熟視。皇后御鞍也。即收『廷尉』。鞫問極切。馬飼首歌依乃揚言誓曰。虚也。非實。若是實者必被天災。遂因苦問。伏地而死。死未經時。急災於殿。『廷尉』收縛其子守石與中瀬氷。守石。名瀬氷。皆名也。將投火中。投火爲刑。盖古之制也。咒曰。非吾手投。以祝手投。咒訖欲投火。守石之母祈請曰。投兒火裏。天災果臻。請付祝人使作神奴。乃依母請許沒神奴。」(欽明紀)

 ここでは「廷尉」が「縛」したり、「刑」を執行したりしています。しかもそれは「古制」であるとされていますが、確かに『隋書俀国伝』に記された「刑」の中には「火刑」はありませんから、それをかなり遡る時期の制度であることは間違いないと思われます。上の「中国」における「廷尉」の推移から考えると、その伝来は「隋代」を含んでそれ以前であると思われます。
 また「火中」に投じる際には自分がやるのではなく「祝(ほおり)」がこれを行うのであるという、呪いとも言い訳ともつかないことを言上しています。この背後には「死刑」のような極刑は「生贄」を捧げる儀式に模したものであり、「祝」つまり神に仕える立場の人間の手による行為とすることで「死者」の祟りが実行者の身に及ぶことを避けようとしていることが窺え、その意味で思想背景として甚だ古典的であることが知られます。このことからこの「廷尉」制の導入は「評制」の施行とほぼ同じ程度の古さを持っていると見るべきこととなり、それらはほぼ同時ではなかったかと考えられることとなります。その意味で初出が『欽明紀』であるというのは示唆的です。
 これらのことから、「評制」は「五十戸制」に「先行」すると考えざるを得ません。「五十戸制」は「六世紀末」に「隋」から導入されたと考えられますから、それ以前の時期に「評制」は導入されていなければならないこととなります。つまり「六世紀半ば」という時期がもっとも蓋然性の高い時期と推定できるものです。(「国県制の成立と六十六国分国」で推測した「国」から「縣」への制度改定というものも、「諸国」においては「国」から「評」への改定であったと考えなければならないこととなるでしょう。)先に見た「皇太神宮儀式帳」の「十郷分で屯倉を作り評督を置いた」という記事内容もそのような論理進行に合致するものと考えられます。
 
 また、以下の『三大実録』の記事からは「允恭天皇」の時代に「国造」が定められたと言うことが記されていますが、この「允恭天皇」は古賀氏により仏教伝来時点の「倭国王」ではなかったかと言うことが研究されており、その意味では「倭国王」の最初である「讃」に重なる人物といえます。彼の時代に「国造」が定められたというのは、「倭の五王」の治績全体から帰納して考えても不自然ではありません。

 『三大実録』
「貞観三年(八六一)十一月十一日辛巳。…書博士正六位下佐伯直豊雄疑云。先祖大伴健日連公。景行天皇御世。隨倭武命。平定東國。功勳盖世。賜讃岐國。以爲私宅。健日連公之子。健持大連公子。室屋大連公之第一男。御物宿祢之胤。倭胡連公。允恭天皇御世。始任讃岐國造。倭胡連公。是豊雄等之別祖也。『孝徳天皇御世。國造之号。永從停止。』同族玄蕃頭從五位下佐伯宿祢眞持。正六位上佐伯宿祢正雄等。既貫京兆。賜姓宿祢。而田公之門。猶未得預。謹検案内。眞持。正雄等之興。只由實惠道雄兩大法師。是兩法師等。贈僧正空海大法師所成長也。而田公是大僧正父也。今大僧都傳燈大法師位眞雅。幸屬時來。久侍加護。比彼兩師。忽知高下。豊雄又以彫蟲之小藝。忝學館之末員。顧望往時。悲歎良多。准正雄等之例。特蒙改姓改居。善男等謹検家記。事不憑虚。從之。」
 
 ここで「空海」の父親(佐伯田公)の処遇について嘆願ともいえるものが書かれているようですが、その中に「允恭天皇」の時代に「国造」が置かれたらしいこと、「孝徳天皇」時代にその「国造」が「永從停止」とされたことが書かれています。このように「国造」が停止されたというのは、とりもなおさず「評」が成立したことを意味するものと考えられます。
 
 伊予三島神社に伝わるという『豫章記』系図中には、「伊豫皇子」から始まって十五代目「百男」の下に「端正二年庚戌崇峻天皇時立官也。其後都江召還。背天命流謫也。」と書かれた「細注」があるとされます。(ただし当方は実見はしていません)つまり、この記事中には「九州年号」が書かれているわけですが、さらにその年次に基づいた「立官記事」があります。この「立官記事」は「評制」施行に伴うものではないかと考えられます。
 また、その後彼は「召還」されて「流された」とされていますが、その理由として「背天命」とあり、この「天命」とは「倭国王」からの「命令」を意味すると思われ、これに反したとされているわけですが、この時点の「倭国王」は「一般民衆」の「護民官」的な存在であろうとしていたわけであり、その意味で「公」という観念を前面に出していたと考えますが、彼はそれに反する行動を取ったものでしょう。それについては、「公私の区別」をつけるようにと言う「強い指示」があったにもかかわらず、それが出来なかった「国司」が複数いたという『孝徳紀』の記事を彷彿とさせるものです。
 これは「東国」への「国司」に対するものとして書かれていますが、同時に「四国」など「西日本」の各地に対しても同様の「詔」を出していたものと推量され、この場合の「国司」は当然「国宰」の後代的言い換えであると思われますが、この時の「倭国王」の方針である「公」という概念の徹底を貫徹するために、かなり強硬な手段に出ていたようですが、それを支えていたのは「押坂(部)」の名を「御名代」として戴いていた「解部」を中心とする「警察・検察機構」であったと思われます。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2017/01/03)