『崇峻紀』に「猪」が献上された記事があります。
「有獻山猪。天皇指猪詔曰。何時如斷此猪之頚。斷朕所嫌之人。…」「(崇峻)五年(五九二年)冬十月癸酉朔丙子条」
これを見ると「猪」が献上されたと書かれていますが、それは「生きたまま」であったものであり、それを食用にする直前に屠殺するものだったのでしょう。(記事からは「頚(くび)」を切断して屠殺したらしいことが推察されます)
現代のように「冷凍」「冷蔵」が出来なかったとすると「猪」は食べる直前まで解体されなかったものと思われますが、それまでの間はどこかで生きた状態で「飼育」されており、「王権」の元へ送られるのを待っていたと思われます。それは「屯倉」においてであったと思われるわけです。
ところで「磐井」について書かれた『風土記』の記事の中に「解部」記事があります。そこでは「猪」を盗んだものを裁く「解部」の姿が描写されています。
「…彼處亦有石馬三疋 石殿三間 石藏二間…」『筑後國風土記』磐井君(前田家本『釋日本紀』卷十三「筑紫國造磐井」條)
そこには「解部」と「捕らえられた「窃盗犯」以外に上のように「建物」の描写があり、その「蔵」という表現からこれは役所(政庁)というより「屯倉」を示すものではないかと考えられます。つまり、「屯倉」で「保管」(飼育)されていた「猪」が「窃盗」の対象となったものと思われるわけです。
「平城京」の門の造営にも「猪使氏」が登場すること(「丹波國造偉鑒門、猪使氏也」(日本後紀逸文))、「藤原京」の門にも「猪使門」があるなど「猪」にちなむ「氏族」が「王権」にとってかなり重要な位置を占めているらしいことが知られ、このことから当時「猪」の肉はほぼ「王権」専用であったのではないかと推測されるものです。
その情景の説明では「偸人」について「生」きているとき、という表現がされていますから(「生為偸豬仍擬決罪」と書かれています)、彼は「死刑」となったらしいことが推定できます。このことから「猪四頭」を盗んだ事が「死罪」に値するというわけですが、それは「屯倉」に収められていた物品が「王」に直送される性質のものであったからではないでしょうか。
この裁判が「解部」の「役所」で行われたものとすると「蔵」の存在の意義が不明となるでしょう。「石殿三間」という「役所的建物」に「蔵」が併設されているというのは「屯倉」がまさにそのような構造であったものと推定され、「屯倉」を舞台とした「窃盗」であったことを物語っていると思われます。(猪が「蔵」にいたという意味ではありませんが)
このように「磐井」の「墳墓」に記された情景が「屯倉」に関連しているとすると、その「屯倉」の監督官としての「評督」の存在を措定する必要が出てくるでしょう。
他方「皇太神宮儀式帳」では「難波朝廷天下立評」とされていますから、「磐井」の時代にはまだ「天下」つまり「全国」に向けて「立評」されてはいなかったと考えられることとなります。(「磐井」の朝廷が「難波朝」であると考える徴証がないため)
つまり、この「屯倉」は当初「地域」的な制度として先行して施行されたと考えられるわけです。
ところで「屯倉」の『書紀』での初出は『垂仁紀』です。
「興屯倉于來目邑。屯倉。此云彌夜氣。」「(垂仁)廿七年是歳条」
この「來目邑」は『清寧前紀』にある「難波來目邑」のことを意味すると思われ、そこでは「雄略」の死後跡目争いが起きた際に「河内三野縣主小根」が「贖罪」として「大井戸田十町」を献上したとされるものであり、これがその「來目村」にあった「屯倉」の「屯田」とされたらしいことが推定されます。
この『垂仁紀』はかなり古い時期のこととされていますが、その「妻」である「日葉酢媛命」の死に際して「殉葬」の風習を止めたということが書かれており、これが「近畿」における「古墳」の示す実態と合わないというのは既に古田氏も指摘されています。(※)
「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」中頃付近で既にかなりの数が現れますから、これは確かに上のエピソードとは合わないわけですが、他方「九州」は「埴輪」そのものの受容も遅く、また「人形埴輪」については「五世紀後半」に九州地域にも一部に見られるようになりますが、それも「六世紀半ば」になると「埴輪」自体が姿を消すという状況があります。
これらのことから『垂仁紀』そのものの地域性という問題と同時に、その実年代についてもかなり下った「六世紀半ば」のことであったのではないかと考えられ、それは「屯倉」の設置の実年代が「磐井」の時代付近となるという可能性が高いことを意味するものと思われます。
この時点付近で「難波」を初めとする各地に「屯倉」が造られ、その地域に対して「評」が立てられたものと思われますが、それは「点」としての存在であり、「局所的」であったと思われます。
確かに『安閑紀』には「屯倉」が大量設置されていますが、分布を見ても全国各地に隙間なく存在しているという訳ではありません。後に「改新の詔」から三ヶ月ほど経過して「天皇」からの下問に対する「皇太子」からの「奏上」の中では、「返上する」とされた「屯倉」の数は「百八十一箇所」とされていますから、それに比べると圧倒的な少数であった訳であり、それはそのまま「面的支配」へはまだ移行していなかったことを示すものと思われます。つまり、「倭国」の諸国全体がくまなく「評」で覆われるというようなことはこの時代にはまだ行われなかったものと考えられる訳ですが、その「始源」としてはこの時点付近にあったと考える事はできそうに思えます。
また、このことは当然「古代官道」の建設時期とも関係してくると思われます。「道路」の整備が「軍事的支配」の前提であったと見られ、「屯倉」が「邸閣」的存在であって「兵」に対する「糧食」の供給が主な使命であったとすると、その配置(設置)と「道路」の整備は表裏一体のものであったこととなります。その意味で「駅家」と「屯倉」には重なる部分があると見ることができるでしょう。
平安時代の人物である「慈覚大師円仁」の家系図として知られる『熊倉系図』では、彼の父は「駅長」であったとされ、これは「世襲」であった可能性が強いと思われますが、「同系図」によればその祖先は「郡司主帳」や「擬小領」であった事が書かれており、これはいずれも「郡司」の元の補助的な職掌とされ、これはそのまま「屯倉」の監督的職掌であったと見られる「督領」(評督)につながるものと考えられます。つまり、このことは「駅家」の前身が(少なくとも一部は)「屯倉」であったという可能性が高いことを示すと考えられるものです。
「駅家」の中には役所的建物に「倉(蔵)」が併設されている場合がかなりあり、遺跡として出土した場合それが「駅家」なのか「屯倉」なのかは時代で区別されているようです。つまり、共に「官道」沿いに立地していたと考えられるため、その新旧を判断して「駅家」なのか「屯倉」なのかを判定しているという訳です。
また「山陽道」などの多くの「駅家」が「礎石瓦葺き」とされていますが、それ以前には「掘立柱建物」であったものであり、このことは「駅家」の始源ともいうべき時期としてかなり時代が遡上することが想定されますが、これを「駅家」とする限りにおいて「七世紀半ば」よりも遡上を措定しないのが通常のようです。しかし「古代官道」の年代そのものが確定していない現在「駅家」と見なされているものの中にかなり「屯倉」が含まれているという可能性は排除できないと思われます。(それは先ほどの「磐井」の墓の情景描写中に「馬」が書かれている事もそのことを推定させるものです。)
そもそも「屯倉」を「ミヤケ」と訓読するのは「駅家」の「呉音」である「ヤクケ」からの転訛ではないかと思われ、(接頭辞として美称の「ミ」が付いて、「ク」音が促音便となり、さらに消失したもの)「邸閣」として造られたものが、「駅家」の意義を遅れて与えられ、その時点で「みやけ」と呼称するようになったという流れが想定できるのではないでしょうか。)
以上から、「磐井」の時代に「律令」が施行され、それに基づき「評」が「立」てられ、「邸閣」として「屯倉」が造られ、その管理官としての「評督」「助督」が配置されるという体制が作られ、行政的な体制と共に軍事的体制も合わせて構築されたものと思料されることとなります。また同時に、「評督」と連動した職掌として「解部」が「廷尉評」的役割を持って設置され、「司法」「警察」権力がその前面に出て支配を貫徹する体制が造られ始めたものと推量できるでしょう。
(この項の作成日 2013/11/06、最終更新 2015/07/06)