すでに見たように『延喜式』の中に書かれた「日の出」・「日の入」時刻の記録は「九州」の中にその観測地点を求めるべきこととなったわけですが、「北緯33度」に該当する地域を検索してみると、「肥後」の地である「熊本県玉名市」あるいは「荒尾市」「山鹿市」「菊池市」などが該当します。あるいは「大分県」「佐伯市」「豊後大野市」「竹田市」なども該当しますが(いずれも北緯33度00分付近)、すでにみたように「舟形石棺」の祖型も「肥後」にあることなどから「前方後円墳」の起源として「肥後」が措定でき、またその「古墳」の「石棺」の材料として「阿蘇溶結凝灰岩」を使用していることから考えると、その「石材」の切り出し場所として知られる「菊地川上流」付近が当時の「倭国王権」の中心領域かあるいは程近い地域であることが想定されるところです。この場所は「古代山城」である「鞠智城」の存在する場所であり、その場所はまさに「北緯33度」ちょうどです。
つまり『延喜式』の「日の出・日の入り時刻」が観測された場所としては「鞠智城」付近が最も蓋然性がたかいことを示しています。(増田修氏はその論(※1)の中で「…倭国の首都に存在した太宰府は、北緯三三度強に位置する。…」とされ、この北緯33度の地点を太宰府と考えられているようですが、実際には33.5度であり、やや計算の示す値から離れており、もっと適切な地域があることに触れられていません。これは明らかに「筑紫」という地域に「捉われた」結論であり、恣意的といえます)
ところで、この観測地と思われる「鞠智城」は(後に詳しく述べますが)、その構造や設計思想として「難波宮(京)」によく似ていると思われます。そう考えた場合「鞠智城」よりも「難波宮」が先にできていたとも考えられないわけですから、「難波宮」が完成し、そこに遷都する以前は「鞠智城」あるいはその至近に「倭国」の中心王朝があったと見ることができるのではないでしょうか。(もちろん内部構造から考えて「常駐」は困難であったと思われ、「宮殿」としてはその至近に別にあったと見るべきでしょうけれど)
その「難波宮」の創建時期については以前は「七世紀半ば」(あるいはもっと後という説もあった)と考えられていましたが、考古学的成果が出てきてみると、それを遡る時期の創建も視野に入れる必要が出てきています。それは「木簡」であったり、「酸素同位体」測定の結果であったりするわけであり、その結果「七世紀初め」の時期も想定に入れる必要が出てきているわけですが、仮に「難波遷都」が「七世紀半ば」という旧来の見解を維持するとしても、またそれ以前の「倭京改元」付近が「遷都」の時期である見なしても、いずれにせよ「肥後」において「天文観測」が行われたのはそれら以前であるのは間違いないところです。なぜならこれら「遷都」が行われた以降に「肥後」で「日の出」・「日の入り」を測定していたり、そのデータが後代まで残り『延喜式』に採用されたなどとは考えられないからです。そうであればこの「肥後」の地における観測はそれをかなり遡上する時期に行われたものと考えざるを得ませんが、ではそれはいつの時点のことだったのでしょうか。
すでに見たように「天文観測」は「暦」作成の一環です。その「暦」(つまり「太陰暦」)の導入は「五世紀後半」の「倭王済」の時代であることが推定されているわけですが、その後後継の「倭王武」は「自称」した称号の一部(「開府儀同三司」など)を「南朝」から認められなかったと思われる経緯があります。
(以下「武」の上表文関連記事)
「…濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。」
「順帝昇明二年,遣使上表曰:「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬?甲冑,跋?山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服?夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于?。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,[13]裝治船舫,而句驪無道,圖欲見?,掠抄邊隸,虔劉不已,?致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝コ覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。」(『宋書夷蛮伝』より)
これらの記事を見る限り『百済』への軍事権は認められず、また「開府儀同三司」等についても認められなかった可能性があるでしょう。この後「倭国」は「南朝」への朝貢を行わなくなったと見られ、「中国側」の資料に「朝貢記事」が見あたらなくなります。
「南斉書」においても「安東大将軍」から「鎮東大将軍」へと進号しているものの「朝貢記事」はありません。同じく南朝の「梁」の時代に「征東将軍」へというやや変則的な進号をしている(「百済」など夷蛮の国に対して行われている「特進」が見られない)という問題もあり、それが「倭国」が朝貢をしなくなっていたことの反映ではないかという考えもあるようですが(※2)首肯できるものです。
つまり「武」の時代に「半島」における権益や「列島支配」の権威の根拠としての「称号」などを「南朝」が認めなかったことが「倭国」朝貢停止の理由として考えられるわけです。そうであれば、その時点以降「暦」の作成(特に日食月食予報)を自力で行う必要性が発生したものと思われ、「天文観測」は必須となったものと理解されます。この時点付近で「倭国王権」として「天文観測」を始めたとすると、最も蓋然性の高いのは「武」の後半あるいは「次代」の「倭国王」(これは「磐井」か)の時代ではなかったかと考えられる事となるでしょう。
古賀氏の研究により「百済僧」「観勒」の上表記事が「一二〇年」遡上するという可能性が指摘されているわけですが、上の推測から、この「天文観測」記事も同様に遡上するものではないかと思われるわけです。つまり実際には「五〇〇年」付近から「天文観測」を開始したものであり、そうであれば「ハレー彗星」記事も「煬帝日食」記事も見られないのは当然のこととなります。
「磐井」の「墓」とされる「岩戸山古墳」は「筑後」にあるわけですが、この領域は元々「肥」の領域の一部であったものであり、「磐井」の真の本拠地が「肥の国」であったことの反映であると思料されます。そう考えると、その時点での観測場所は以前から「都」であるところの「肥後」であったと見て間違いないと思われ、そのため「北緯33度」付近のデータが遺存したものと思われるわけです。(「鞠智城」に「鐘楼」あるいは「鼓楼」とおぼしき「八角形の建物」があることも「時刻」を知らせるという意義において必要なものであったものであり、「鐘を撞く」あるいは「太鼓を鳴らす」ための時刻の基準として「漏刻」がここにあったとすれば「天文観測」にも使用できたものと思われ、この「鐘楼」あるいは「鼓楼」が「天文台」の役を務めていた可能性が高いものと推量します。この「八角形」の建物はその内部に「柱」が多く空間が確保されておらず、ここで「儀礼」的なことが行われたとは思えません。あくまでも「見晴台」としてのものであったと推量され、「日の出」「日の入り」をもっぱら観測していたものではないでしょうか。)
(※1)増田修「倭国の暦法と時刻制度」『市民の古代』第十六集一九九四年 市民の古代研究会編
(※2)菅野拓「「梁書」における倭王武の進号問題について/臣下から「日出処天子」への変貌をもたらしたものは何か ―古田説の検討を中心として」(『大学評価・学位授与機構二〇〇八年十月期学位授与中請(要旨)として』をネットで参照しました)
(この項の作成日 2011/06/06、最終更新 2015/07/10)