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暦の作成と天文観測


 古代日本の天文観測記録を検証すると、『推古紀』の途中から開始されていることに気がつきます。(以下は国立天文台谷川清隆氏の論(※1)を参考に進めます。)

 最初の記事は「推古二十八年」(六二〇年)です。

「推古廿八年十二月庚寅朔。天有赤氣。長一丈餘。形似雉尾。」

 これはいわゆる「低緯度オーロラ」と云われるものと考えられます。北の空がうっすら赤く染まる現象であり、過去には日本全国で観測できた例もあり(明和七年(一七七〇年)七月二十八日のものは諸資料に確認できます)、また最近北海道でも観測されるなどの例もあって、太陽活動の状況によっては日本国内での観測も可能なものです。(ただしカーテン状のものはなかなか見られませんが)
 このようなものは「変異」だから記録されたとも考えられますが、他方「天文観測」(但し公的機関による)の結果であるともいえるでしょう。「天文観測」をいつから始めたのか、『書紀』など記録には書かれていませんが、少なくともこの年(六二〇年)をそれほど遡らない時期に観測が開始されたとしか考えられないとされます。なぜなら、推古十五年(六〇七年三月から四月)には、「ハレー彗星」が見えていたはずであり、それが観測可能であったのはかなりの期間にわたるはずなにのに『書紀』には何も記録されていないからであるというわけです。また、「推古二十四年」(六一六年)にあったはずの「日食」(「煬帝日食」と呼ばれる)の記録もありません。この日食は「日本列島」では皆既ではなかったという説もありますが、部分食であったとしても「食分」(欠け具合)がかなり大きかったことが推定され。多少の曇りであっても、あるいは雨が降っていたとしても周囲が夜のように暗くなったことが推測されますから気がつかなかったはずはないと思われますが、何も記録されていません。これ以外にも記録されてしかるべき天文現象がそれ以前にあり、それらについての観測記録が全くないことからも、この時はまだ「天文観測」というものを開始していないとみるべきだというわけです。(晴天率を考慮しても観測数がないのは異常と考えられるとされます)
 つまり、限りなく「六二〇年」に近い時点で天文観測が始まったと考えるのが正しいと思われるという論となっています。

 「天文観測」というものは、中国においては「暦」の作成の一環であり、「皇帝」(天子)の「専管事項」であったものです。「皇帝」は「暦」の作成のため、特に「日食」や「月食」について天文学者に観測させたのです。そして「柵封」体制下の諸国々は「皇帝」より配布される「暦」を否応なく使用することになるのです。しかし、柵封されていない国は自分で「暦」を作らなければなりません。正しい「暦」を作るためには長い期間の正確な観測が必需です。しかし、技術が整わなければ、それもままなりません。
 倭国の場合、「南朝」健在のうちは「配下」の「諸王」の一人として倭国王が存在していたわけであり、その間は「南朝」より「暦」(元嘉暦か)の配布を受けていたとみるべきです。その後「百済」から「暦博士」などを受け入れたことが『書紀』にありますが、そのことは一見「倭国」に「暦」の知識がなかったことを示しそうですが、そうは思われません。なぜなら「倭国」は「百済」などと共に「南朝」より「将軍号」を授与されており、その意味では同格であって「百済」に暦が「南朝」から伝えられたとすると「倭国」にも同様にもたらされたはずと思われるからです。しかもその「暦」の伝達は当然「南朝」から「柵封」の一環として授与されたものであったはずであり、その意味でも「百済」だけに「暦」の知識が伝わったと見るのは間違いといえます。 しかし実際には「倭国」ではその後「暦」に関する知識は喪失してしまい、「百済」から再度伝来することとなったと見られるわけですが、その一因を成しているのは「南朝」との関係悪化による交渉の途絶ではなかったでしょうか。「百済」は「倭国」と違い南朝と(北朝とも)交渉を持ち続けていたわけであり、「暦」に関する最新知識を継続して取得していたと思われ、そのため「倭国」にその知識を伝えることが可能であったと見られるものです。

 倭国では「武」段階において自称した「役職」などについて「南朝」から承認を受けられなかったものであり、そのため半島における権益確保の後ろ盾として南朝の権威を利用することが困難となり、そのため「暦」についての最新の知識が入手できなくなった結果自前で暦を造る必要が生じ、公的機関による日出没や特別な天文現象などの観測を始め、それを記録することとなったと思われるわけです。
 しかし一般には「南朝」が滅ぼされ、「隋王朝」が成立した後は「使者」を派遣したものの「柵封」はされなかったたため、この時点以降自前で「暦」を作る必要が生じたと考えられているようです。(参考とした谷川氏などの論も同様のようです)しかし、この考え方は「南朝」の将軍として存在していた間は「暦」を頒布されたであろうとするものですが、そう考えると「武」以降の「倭王」が朝貢していないように見えることと矛盾するでしょう。この期間は「暦」についても「頒布」を受けなかった(受けられなかった)ことを意味することとなりそうであり、その場合「隋」との交渉以前から「暦」については自前で作る必要が生じていたと見るべきこととなります。そう考えると「六二〇年」という年次の至近での観測開始という解釈は成立しないと思われるわけです。

 「隋」との間には不用意に「天子」を標榜したために生じた軋轢があり、「高祖」から「宣諭」されるという事件があったと見られます。(詳細は後述)それは「開皇年間」のことと考えられますから、この事が原因で自前で暦を造らなければならないとなったという(かなり無理な)仮定をしても「六二〇年」の観測開始はかなり遅いというべきでしょう。
 (これは別のことですが、「隋」から「柵封」されなかったのは「遠絶」の地域であることが大きな理由であり、それは「隋」「倭」双方の同意のものであったと思われます。遠絶した地域を「柵封」すると「宗主国」にはその「責任」の範囲も広大となってしまうためと思われます。「唐」においても「西国」の地域に対して皇帝が敢えて「郡県制下」に置こうとするのを「臣下」が「負担」が増えるのを危惧して反対したという記録があります。つまり「柵封」しないというのは「隋」にとっても必要な政治的選択であったという可能性が強いでしょう。また時期的には南朝制圧の時点の以前の遣隋使であったと思われますから、軍事的な部分での余裕がなかったとも言えます。)

 また観測に必要な機器(「漏刻」や「渾天儀」など)は「遣隋使」等によってもたらされたものと思われているようです。後でも述べますが、『隋書』に書かれた「遣隋使」達についてはもっと早期に派遣されていたと考えられるわけですが、そこでは「使者」の他「従者」として「数十人にものぼる僧、学生など」(『隋書俀国伝』より)が、派遣されたと書かれており、彼らはその後「天文観測」に関することや「暦」に関する知識を携えて帰国し、そこから研究を始めたものを「六二〇年」付近で実施する、ということになったものかと推定されています。しかし「南朝」と親交を深くしていた「倭の五王」の時代に導入されていなかったともいえないわけであり、一概に「隋代」以降ともいえないと思われます。

 ところで「暦」作成のためという趣旨から考えても、「観測」の基本は「太陽」と「月」の運行の正確な把握であり、「日の出・日の入り時刻」「月の出・月の入り時刻」の正確な観測がその第一となります。これをいかに正確に把握するかが重要であったわけです。
 斎藤国治氏の研究(※2)によれば『延喜式』に書かれた「日の出・日の入り時刻」は「夏至」・「冬至」の前後三日間ほどを除いて、その時点の都である「平安京」(京都)の緯度(35度01分)よりもっと南の「北緯33度」付近におけるものが書かれているらしい事が推定されています。
 「日の出」及び「日の入」の時刻は「春分」と「秋分」については土地の緯度には無関係となりますが、「冬至」と「夏至」付近の時刻については緯度により大きく変化するものであり、「緯度」が高い方が変化の幅(ずれ方と言うべきか)が大きくなります。これは地球の自転軸が傾いているためですが、近似式として時角tを求める式は、cost=tanφtanδ(ただしφはその土地の緯度、δは太陽の赤緯、tは角度)で表されます。

 『令義解』(大宝令の注釈書) には「宮廷の開門時刻」について「鐘を鳴らして合図すること」と規定しており、その鐘を鳴らす時刻については『延喜式』に詳細が記されています。そこには「日の出」・「日の入」の時刻が数日おきに「一年」を「四十」の区間に分けて書かれています。このうち「冬至」と「夏至」前後の三日間だけはφとして「北緯35度」を代入すると近似していると判明しているのです。つまり「夏至」付近の日の出と「冬至」付近の「日の入り」は北緯35度の曲線と合うとされますが、それ以外はほぼ北緯33度の曲線と一致するとされるのです。(数字から曲線を描くと夏至の日の出と冬至の日の入り部分がいわば「出っ張った」状態になっているのがわかります)
 「北緯35度」に近いのは「京都」(「平安京」)(ほぼ35度)ないしは「飛鳥」(34.5度)です。これは「冬至」と「夏至」という時点に行われる重要な儀式(「十二月の大祓い」及び「六月の大祓い」)を行う際に利用されるものだけは「北緯35度」の地点のデータが使用されているとみられ、そのことは『延喜式』の成立事情から考えて「平安京」という『延喜式』制定時点の都のデータが使用されていると考えて間違いないと思われます。しかし「冬至」と「夏至」を除くとそれらの値は「北緯33度」の地点の「日の出」・「日の入」時刻が書かれていると推定できます。
 「北緯33度」付近の「日の出・日の入り時刻」が『延喜式』に保存されているということは、その場所において「漏刻」が使用されていたという証明であることは間違いないと思われますが、また、このような観測は(当然ですが)「都」のある地域で行なわれるものであり、そうであれば「北緯33度」ライン付近に当時の「都」があったことを推察させることとなります。
 ただし、斉藤氏はそのようには言っておらず、「当時の算法の不備」というような見解のようです。つまり「宮門の開閉時刻」を規定するために「近似計算」を行って「日の出」・「日の入り」の時刻を算出したと考えられているようです。しかし、計算で出した値とすると「夏至」・「冬至」の前後だけ「算法」に狂いが出ていることになり、不審でしょう。これは「観測」による値(時刻)がその基礎となっているのではないでしょうか。計算せずとも観測すれば「日の出」・「日の入り」の時刻は測定できるわけです。これをデータとして使用したと見ることもできそうです。ただし、これを「観測値」と捉えれば当然「夏至」・「冬至」の付近とそれ以外の日付とは観測地点に違いがあると考えざるを得ないこととなります。しかし上に見たようにこの「北緯33度」という値に該当する「適地」は「近畿」付近に存在しません。この経度付近で「北緯33度」に相当する場所を調べると「太平洋」上に出てしまいます。
 他に「北緯33度」が陸上に存在するのは「四国」の高知県の足摺岬の根本付近(宿毛市や四万十市などの地域)と「九州」の内部しかないのです。しかし「四国」の当該地域は「倭国王権」の都とは縁遠い場所と考えられますから、「九州」だけが条件に合致することとなるでしょう。


(※1)谷川清隆、相馬充「七世紀の日本天文学」『国立天文台報』第十一巻(二〇〇八年)
(※2)斉藤国治「『延喜式』にのる日出・日入、宮門開閉時刻の検証」(『日本歴史』五三三号、一九九二年)


(この項の作成日 2011/06/06、最終更新 2015/07/10)