仏教の伝来が「五世紀」の始めと考えられることとなったわけですが、「古墳」に関する事実は「九州」(肥後)で発生した「古墳」文化が、一〇〇年ほど遅れて「近畿」に伝わり、そこで発展拡大していったということを明白に示していました。そして、その発展し、拡大した時点でも「阿蘇熔結凝灰岩」が石室に使用されるなど、九州との関係を固く維持していたこともまた確認されているわけです。このことは「古墳時代」という大きな時代の「枠組み」そのものが「近畿」は「九州」に遅れること「一〇〇年」ほどであったことを示しています。そして、その「遅れ」はその次の仏教の「受容」とその「拡大」、そしてそれに伴う「寺院建設」という動きにも連動・波及したのではないかと考えられるものです。
つまり「近畿」では仏教「受容」などの主要な動き自体が「九州」に比べ「古墳」と同じように「一〇〇年」ほど遅れていたのではないかと考えられます。それを示すように『書紀』で「仏教伝来」とされる年次が「六世紀」の半ばとされているわけであり、「九州」への伝来と想定した「五世紀」の始めという時期に比べ「一〇〇年」以上遅れて描写されているわけです。
『書紀』に書かれた仏教受容のストーリーは基本的には「一二〇年」ほど移動されていると考えられる訳ですが、そのように移動させている最大の理由はこれが「東国」の地方王権であった「近畿王権」にとってみると「事実」であったからと思われます。つまりこの「六世紀代」の仏教伝来は「近畿王権」にとってみると実際に起きた出来事であり、また伝承されていた「内部情報」であったと考えられるところです。それに対し「対百済」「対新羅」などの「外交」に関する情報は「九州倭国」情報であり、『推古紀』に書かれた「百済僧」「観勒」の「上表」などは「倭国情報」と推察され、この記事は「一〇〇年以上」「遅れて」仏教を受容した「近畿王権」の情報と「倭国」の情報とを「無理に」「接続」した結果であると考えられます。
これらの仏教に関する「情報」が「干支二巡」ずれて書かれていると考えると整合するということは、その「一二〇年」という年数のズレが「実数」である、と言う可能性を強く示唆するものであり、「九州倭国王朝」に仏教が伝来してから「近畿」に伝わるまでの年数が「一二〇年」という数字に表れていると考えられるものです。
このことは「半島」などとの交流というものは、「近畿王権」にとっては長らく行われていなかったことを示し、それが行われた段階で「近畿」以東に仏教が流入したものと思われるわけですが、それとともに「天然痘」などの伝染病が流れ込んだものと思われます。
「天然痘」は列島には病原菌がなく全て流入したものですから、海外との交流やその海外と交流のあった「九州」(筑紫地域)からもたらされない限り「近畿」など「東国」では「エピデミック」(局地的流行)が起きなかったものと思われます。
先行して「半島」などと交流が行われた「筑紫」では「天然痘」も先行して流行することとなり、すでに見たように「王」「皇子」などが続けざまに亡くなるといういうようなことが起きました。この時点では「近畿」には「騎馬集団」による征服行動は行われていましたが、その人数として大量ではなかったものと思われ、実際にはその被害は及ばなかったものですが、遅れて仏教が伝わった時点で、当然人も移動したと思われ、保菌者がこの時点で「東国」に渡来したものでしょう。そのため「東国」において「天然痘」が蔓延することとなったもの思われ、そのため「六世紀後半」という段階の「用明」「敏達」「欽明」などの記事として顔を出しているのだと考えられるわけです。
「東国」(近畿以東)ではそれまで仏教も「道教」も浸透せず、古典的な「鬼神信仰」の世界が遺存していたものと思われ、その意味では「反仏教」的な宗教的環境があったものと推察されます。「倭の五王」時代においても仏教については伝搬せず、せいぜい「道教」的観念が持ち込まれていたものと思われます。それは土着していた「鬼道」との融合が行われたものと見られますが、基本的には「道教」は「鬼神信仰」に特有の「生け贄」など「血肉」にまつわるものを排除する姿勢でしたから、完全に一体化することはなく、王権の内部で受容される程度であったものと思われるわけです。
「倭国王権」の拡大政策として「東国」制圧に力を発揮したのは軍事氏族である「物部」が主たる勢力であったと思われ、彼らは「東国」各地に「武装植民」したものであり、その地に彼らの「鬼神信仰」を持ち込んだものと見られます。この時点では「前方後円墳」で示されるように「墓制」や「祭祀」が「倭国中央」と共通化されていたものと思われ、その素地として「鬼神信仰」があったものと思われます。
たとえば「豊」の国では「新羅」から「鬼神信仰」が(多くの渡来人と共に)持ち込まれ、彼らを中心に後の「宇佐八幡」につながるような一大勢力を築いていったものと思われますが、「物部」はこのような「鬼神信仰」の中心にいたものと考えられ、「新羅」との関係が深かったのではないかと推測されます。
「筑後」の「高良大社」の祭神が「物部」と同族であったことは著名ですが、後に「高良大社」から「宇佐八幡」へ「筑紫」一宮の地位が禅譲されています。つまり「高良」と「宇佐」の間には深い関係があったこととなるでしょう。
このようにして「倭国王権」の宗教的影響力は「物部」という軍事力と一体化して東国へ波及していったものと思われますが、そのようないわば「反仏教的」動きが「東国」へと波及していったのが「五世紀」から「六世紀」にかけての時期ではなかったかと考えられます。それが「六世紀後半」になると「百済」から「倭国」へ「法華経」が伝来し、その時点で再度「天然痘」の流行が起きたものと見られ、そしてそれが余り時間をおかず「東国」へと波及したものではないでしょうか。(これは道路(古代官道)整備の進捗の影響と思われます)
この「天然痘」の流行が「東国」における仏教の浸透と拡大に大きな影響を与えたものと思われます。この時点以降「東国」における「物部」や「中臣」など「鬼神信仰」の中心にいた氏族の没落と「蘇我」など仏教推進派の勢力拡大が行われたものと見られ、それは「倭国王権」の意図に適ったものであったとみられることとなります。
(この項の作成日 2011/07/13、最終更新 2015/05/11)