『二中歴』の「都督歴」の冒頭には以下のように書かれています。
(「都督歴」該当部分)
「今案、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、任筑紫本宮、自爾以降、至于大貳國風以前藤原元名、總百四人也、具不(所)記之」
ここでは「孝徳天皇大化」の「蘇我日向」に始まり、以来「大貳國風」の前の「藤原元名」に至るまでの全部で「百四人」が「都督」として任命されたとされていますが、それらについては詳細を記さないとした後、その「藤原國風」から「都督歴」が始められています。この「藤原國風」が「都督」に任命されたのは『公卿補任』によれば「天徳三年(九五九年)正月」とされますが、なぜその時点の彼から「都督暦」は始められているのでしょうか。また「藤原元名」以前の「百四人」はなぜ省略されたのでしょうか。
この「都督」に任命されている彼ら「百四人」は判明する限り全員「大宰大貳」ないしは「大宰権帥」であることがわかります。つまり「筑紫大宰府」の2の地位にある人物なのです。逆に1の地位である「大宰帥」と判明している人物でこの「都督歴」に記載されているものは一人もいません。このことから以前の「百四人」も「大貳」ないしは「権帥」ではなかったかと言うこととなりますが、しかし最初の「都督」とされる「蘇我日向」は「大宰帥」でしたから、全員が「大貳」であるというわけではないこととなるでしょう。そうであればいずれかの時点で1から2へ格下げとなったと見ることができそうです。
この「大貳」の初出は『文武紀』であり「大寶建元」の前年です。
「(文武)四年(七〇〇年)冬十月己未条」「以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。」
ここでは各地に「総領」を任命していますが、「筑紫」だけ「大貳」が併せて任命されています。ここでいう「総領」は「大宰」と同じものと考えられ(時期的な違いか)、このことから「評制」の終焉と「大貳」の初出が重なっていることとなります。
「評督」の頂点に存在したと思われる「都督」は、その「評制」の終焉と共に「地位低下」を起こし、2とへ「格下げ」となったのではないでしょうか。それは「倭国」の没落と軌を一にしていると考えられるのです。しかし「筑紫」に「大宰(太宰)」と「都督」がいたという「形式」だけが遺存したと見られ、それは以降の「九州」統治に必要であったと考えたのではないでしょうか。(そのことは律令制下において「筑紫大宰府」の組織だけが国内の他の諸国と比較して人数、構成とも規模が突出していることと関係していると思われます)
このように「大宰大弐」が「都督」と関係があるという推測は、『続日本紀』の中で「城」の修繕などの監督役として「大宰大弐」が選定されていることでも裏付けられます。たとえば「天平勝宝八年」に「怡土城」を築城する際の責任者には「吉備真備」が選ばれていますが当時彼は「大宰大弐」の役にありました。またその役はその後「佐伯宿禰今毛人」に受け継がれますが、彼も「大宰大弐」の地位にあったものです。
それ以前の「城」の築城ないし修治の責任者としては「持統三年」に「石上朝臣麻呂(麿)」と「石川朝臣虫名」が「新城」の「監」に指名されていますが、「石上朝臣麻呂」はその直後の「大宝二年」に「太宰帥」に任じられており、この「監」の時点では(記録にはありませんが)「大宰大弐」であった可能性もあるでしょう。(この「新城」がどこなのかは不明ですが)
記録によれば「弘仁年間」の「多治比今麿」が「臣下」における「大宰帥」記事の最後であり、以降「大宰権帥」が「大宰府」の最高権力者となります。
「弘仁十一年条 参議 従四位下 多治比今麿 六十八 正月七日従四上。同月日正四下。十二月五日従三位。任大宰帥。」(公卿補任)
これについては「大宰帥」が「親王任官」となっており、しかも実際には「大宰帥」職に赴任しないで任官するシステムとなっていたため現地にいる「大弐」(大貳)ないしは「権帥」が実質的に1となり「都督」と認識されていたもののようです。
この「親王任国(但し「不任)」は「延暦年間」以降始まったようですが、この「親王任官(国)」というシステム自体が旧倭国の状況を反映しているという考え方もできそうです。というのは「上野」「常陸」「上総」という三国については「令」による「親王任国」の対象国とされていますが、それとは別に「太宰府」の長官、つまり「大宰帥(率)」は「慣習的に」(つまり法令による根拠を持たないにもかかわらず)「親王任国」の制度があったものなのです。このような「慣習」がそれ以前にあった何らかの制度の反映あるいはその「記憶」にその原型があり、その後も「制度」によらないにも関わらず維持・継続されることとなったことからも、その原型の持つ「潜在的なパワー」が大きかったことが推定されます。その意味で本来「王権」に直接関係する人物が「筑紫」に「大宰」として存在し、彼を「武力」の面で補佐する役目として「都督」がいたことが推定されるものであり、「大宰大弐」や「権帥」という存在が「都督」とされているのは元々そのような組織が「倭国」にあった過去を反映しているともいえるでしょう。
(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2014/12/14)