ホーム:五世紀の真実:『二中歴』の「干支」に対する疑い:

「年代歴」の真の年次A


 「僧尼」の戸籍ともいうべきものが「五世紀代」に作成されたと考えられる訳ですが、その記録に「度之年月日」つまり「得度」した日付が記録されているとされますが、それはこの時代に「元嘉暦」が導入されたのではないかと考えられる点からも首肯できるものです。
 この「元嘉暦」の導入と関係しているのが「年号」の使用開始です。

 『二中歴』には「継体二十五(応神五世孫 此時年号始)」(「継体天皇」は「応神天皇」の五世の孫であり、その治世は二十五年間続き、主要な事項は年号の使用開始である)と書かれています。
 これは従来、「六世紀前半」の記事であり、「継体」の時代というのは、通常「倭の五王」の一人である「武」の時代から後継者としての「磐井」の時代であり、成文法としての「刑法」が制定され、「律令政治」の原型が作られた時代と考えられています。(磐井の墳墓の様子を記した『風土記』の記事から「刑法」の存在が想定されているわけです)
 このような時期に「年号」の「使用開始」という記録があるわけで、これは一見「律令」の開始という様なことを想定すると、整合性は高いものと思われ、このことからこの『二中歴』の細注には「正当性」があると考えられた結果、余り関心を払われていなかったと思われます。しかし(すでに仮定したように)この時期を「六十年」過去側に移動すると「四五七年」となります。
 『書紀』の日付の研究(※1)から、「元嘉暦」の使用開始時期について、遅くても「四五六年八月」と判明しています。それ以前の「三九九年」から「四五六年八月」までは「儀鳳暦」でも「元嘉暦」でも合うとされていますが、実際には「南朝」で「元嘉暦」を使用開始したのが「四四五年」とされており(※2)、この年次以降のどこかで「倭国」に伝来したと考えられることとなりますが、「六十年」の年次移動の結果「年号」の使用開始が「四五七年」となると、これは「暦」の解析から導き出された「元嘉暦」の伝来時期の下限とされる「四五六年」とまさに「接する」年次となり、「暦」が伝わった時点で、同時に「年号」も使用し始めたと考えると非常に整合的だと思われます。
 日付表記法(「年」について)は「干支」によるか「年号」によるかですが、いずれにしろ、「一年」の長さを正確に把握しなければならず、「暦」と「年号」というものが不可分であるのは当然であり、「元嘉暦」の導入と「年号」の使用開始が「同時」であったとしても、何ら不自然ではありません。
 これに類する例を挙げると、『三国史記』に「真徳女王」時代のこととして、「唐」から「独自年号」の使用を咎められたことが書かれており、その際の「新羅使者」の返答によれば、「唐」から「暦」の頒布を受けていないから「独自年号」を使用しているとしています。

「二年冬使邯帙許朝唐。太宗勅御史問 新羅臣事大朝何以別稱年號。帙許言 曾是天朝未頒正朔 是故先祖法興王以來私有紀年。若大朝有命小國又何敢焉」

 ここでは「正朔を奉じる」こと、つまり「宗主国と同じ暦を使用する」ということと、「宗主国」の年号を使用するということがセットになっていることが判ります。この「新羅」の言い訳を見ると「正朔」つまり「唐」の暦ではない別の暦を使用してたいたことが窺えます。なぜなら「年号」を使用しているからであり、正確に一年の長さを把握していたことが明らかだからです。そのためには何らかの「暦」を使用していたはずであり、「唐」のものではない「暦」が使用されていたものでしょう。
 「新羅」は「百済」と違い親南朝系ではなかったものであり、当初より「北朝」に偏していました。「南朝」は「倭王」に対し「新羅」における軍事権の行使を認めていたものであり、「倭王」の統治範囲としていたものです。このため「隋」成立後すぐに使者を「隋」に送り、「隋」から「楽浪郡公新羅王」として柵封されています。当然「暦」は「隋」の暦を使用していたはずであり、可能性のあるのは「開皇暦」あるいはその後改暦された「大業暦」ではなかったでしょうか。これらを「唐」成立後もそのまま使用し続けていたというのがもっとも蓋然性の高いものです。
 「唐」王朝は「隋」王朝を継承したとされますが、実際には武力で打倒したものであり、実質的には新王朝でした。特に「煬帝」に対して厳しい評価をしていたものであり、「大業暦」の使用については当然認めておらず、「新羅」がこの「煬帝」の暦を使用継続していたことを知っていたものと思われると共に、それを承知で「新羅」をなじったものでしょう。(唐は律令も「開皇律令」を踏襲したものであり「大業律令」ではなかったものですが、それも同様の思想ではなかったでしょうか。)

 「倭国」の場合は「南朝」より配下の将軍として称号を得ており、「柵封」に準ずる立場であったと思われます。当然「暦」と「年号」の使用も受容するべき制度・知識の中にあったとあったと思われるものの、純然たる「柵封国」と違い「遠絶」に位置する域外諸国の一つでしたから、実際には「倭国側」の任意の範囲であったものと思われ、最新技術としての「暦」だけを受容することとなったと見られます。そのような「独自年号」の使用に至る契機としては「高句麗」が独自年号を使用していたことがあると思えます。
 このような「年号」使用開始というのものは、その「王権」の権威の高揚や「統治」の固定化などにより強く作用するためのツールとして使用されたと見るべきであり、その意味で「半島内」の覇権を「高句麗」と争っていた「倭国」にとって、「年号」の点で後れを取るのは「あってはならないこと」であったのではないでしょうか。
 また、国内的にも「東国」への進出と同時期に「年号」の使用開始が行なわれていると見られることとなりますから、それもまた「東国」に対する統治の強化等に有効に作用したであろう事が推察できるものです。(「年号」や「暦」などの使用がその王権の絶対性、超越性の確立や確保に有効に機能したことは疑い得ないからです。)
 このようなことから考えると「年号」の使用開始と「元嘉暦」の伝来とは直接的な関係があると考えられ、逆に「暦」の伝来から「六十年」も隔たって「年号」を使用開始したとすると、著しくタイミングがずれているといえるのではないでしょうか。

 この時期以降「元嘉暦」に代わり独自の「暦」の使用を開始した時期と見られます。そう考えるのは(後に述べますが)「天文観測」の開始時期がこの付近と推察されることからも言えます。
 「延喜式」に残る「日の出・日の入り」時刻の記録が「北緯33度」の地点での観測記録と考えられる事からみて「肥後」の地域に王権の中心地点があった時期が蓋然性が高く、それであれば「倭の五王」時代付近がもっとも想定されますが、特に自前で暦を造ろうとしたための観測開始と見るなら「武」付近が最も考えられる時期です。なぜなら「武」において「南朝」から自称した称号などのうち重要な部分追認されなかったことがあり、それ以来遣使が絶えたのではないかと見られるからです。そうであればそれ以降は自前で暦を造る必要が生じ、そのためには「天文観測」を行い、その記録をとり解析する必要が出たものと思われるものです。

 この時期に「年号」と「暦」を使用開始したとすると、それは「倭国王」の「済」の時代のこととなると思われます。「済」は「四四三年」「四五一年」と「遣使」記事があり、その後「世子」である「興」が「四六二年」に遣使していますが、実際に「済」がどの段階まで健在であったのかがやや不明であり、「四五七年」という年次が「済」なのか「興」なのかがやや微妙ですが、新王としての「興」の時代に始められたとする方が納得できるともいえるでしょう。

「元嘉二十年(四四三年)倭国王済、使を遣わして奉献す。復た以って安東将軍・倭国王と為す。」
「元嘉二十八年(四五一年)使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故(もと)の如く、并びに上(たてまつ)る所の二十三人を軍郡に除す。済死す。世子興、使を遣わして貢献す。」
「世祖の大明六年(四六二年)詔して曰く 倭王世子興、奕世載(すなわ)ち忠、藩を外海に作(な)し、化を稟(う)け境を寧(やす)んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とす可し、と。」(以下『宋書』より)

 これ以降「暦」について研究し、使用可能となったことから国内に頒布したものと思われます。(この時「結縄」も停止されたものと思われ、ここで完全に「二倍年暦」が捨てられ、「太陰暦」の使用開始となったものと思われます。ただし、それまでの「二倍年暦」は「新月」から「満月」までを「一ツキ」とするような「月」の動きを目当てにしていたものですから(後述)、その意味では「太陰太陽暦」への転換についてはあまり「違和感」はなかったということも考えられるでしょう)


(※1)小川清彦『日本書紀の暦日について』一九四七年
(※2)南朝劉宋では永初元(四二〇)年劉裕(武帝)が東晋の恭帝から禅譲を受けて天子の位につき、その六月に泰始暦を改めて永初暦としたが、名称を変えただけで晋の正朔をそのまま踏襲したのです。しかし、天象と合致しなくなっていたため、「何承天」という人物が改革を行ない、「元嘉暦」を文帝元嘉二二(四四五)年から施行したのです。その後「元嘉暦」は、南斉(「建元暦」と改名しましたが同じものです)を経て、梁の武帝天監八(五〇九)年まで行われました。


(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2017/01/02)