ホーム:五世紀の真実:『二中歴』の「干支」に対する疑い:

「年代歴」の真の年次①


 既に考察したように仏教の伝来が常識とは違って、「五世紀の初め」である可能性が高いことが明らかとなったわけですが、そう考えると以下の『二中歴』の記事(年代歴)の内容に疑義が生じます。それは推定される仏教の伝来時期との「食い違い」です。

『明要 十一 元辛酉「文書始出来結縄刻木止了」』

 この「明要」の元年干支である「辛酉」は通常は「五四一年」とされているわけですが、この記事を信憑すると仏教伝来から「結縄刻木」が止められ「文書始出来」まで「一二〇年」ほどかかったこととなります。これは時間がかかり過ぎではないでしょうか。

 『隋書俀国伝』を見ても「百済」からの「仏法伝来」と「文字習得」の間には深い関係があるかのように書かれており、(「…無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。…」)この表記からは「仏教伝来」から「文字成立」まで「百年」を超えるような年月が経過したようには受け取れません。実際にはもっと近接した時期であったのではないかという疑いが生ずるのは当然と思われます。これを踏まえて「古賀氏」は「仏法」の伝来と「文字」発生の間には大きなタイムラグがなく、ほぼ同時と考えられているようですが、そうであればなおさら『二中歴』の「年代歴」には不審があることとなるでしょう。
 つまり、この『二中歴』の年代歴に書かれた「年次」(「干支」及び「細注」)は従来考えられているものとは「ズレて」おり、本来もっと遡上した時期の記事ではなかったかという可能性を考えるべきでしょう。その場合可能性の高いのは「干支一巡」(六十年)の「ズレ」ではないでしょうか。

 「干支」による「年次」の表記は「絶対年代」とでも云うべき「時系列」中の定点が指定されない限り、「六十年単位」で移動する(させられる)可能性があります。そう考えると、「仏教」の伝来という点から考えて『二中歴』の「年代歴」は通常考えている年次から実際には「六十年」繰り下げられている可能性を考えてみる必要があるでしょう。
 この仮定の下に考察してみると「辛酉」は通常の「五四一年」ではなく、「六十年」上がった「四八一年」となります。この年次は倭国王「武」の「上表文」が出された「四七八年」の三年後の出来事となります。
 「宋書」に書かれた「武」からの「上表文」は当然中国語(「漢文」)ですが、「宋書」の中には「全文」が掲載されており、そのことだけでも特筆すべき事ですが、その内容も注目に値するものであり、その「漢文」は「完全」であり、内容も見事な文章構成で、中国皇帝の徳をたたえつつ、巧みに日本、朝鮮支配の実績をPRする内容になっていることなど、「夷蛮の国」からの「表」としては出色であったのではないでしょうか。
 このような外交文書は「渡来人」が書いたという説もあり、もちろんそういう可能性はあるでしょう。しかし、ここで特に「全文」が掲載されている意味は、この「武」の「上表文」の出来映えが「南朝劉宋」の官僚にとっても「格別」であり、「皇帝」の徳が「東夷」に深く浸透した結果である、と言う意味も込めて「特記」されることとなったものと考えられ、それは「漢字文化」の浸透というものを「南朝」の官僚たちが認めたものという性格があると思われます。つまり、少なくとも「南朝」の官僚達は、この文章について「倭国官僚」、と言うより「日本人」の手によるものと考えていたという推定ができそうです。そして、それは当を得たものかもしれません。
 このように「立派」な「文章」を書くことができるようになったことと、「日本語」を書き表す「文字」を漢字を使用して書けるようになったこととは、深い関係があると思料されます。
 「漢文」での「文字使用経験」が増えてくると、漢字に対する知識も増えてきたため、「日本語」を書き表すツールとして使えるということに気がついたという可能性が高いでしょう。そのため「文字」(万葉仮名の祖型)が作られ、「文書」が作られるようになって、「結縄刻木」が止められた、と考えることは自然なことであると思われます。
 またこの「年次」であれば「仏教導入」からの年数としても「八十年」程度であり、これは先に考察した「観勒」の上表とほぼ同時期となります。(ただし、この上表文そのものは『書紀』では「漢文」として書かれていますが、それは公式文書は「漢文」でという決まりが当時あったことを示していると思われます。)

 ところで、この「観勒」の上表の後「僧正」などが任命されると共に「僧尼」の員数や特徴など「戸籍」とも呼ぶべきものが作成されたようです。

「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。
壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。
秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」

 この「観勒」の上表の時期は既に考察したように「四八〇年」から「五〇〇年」頃と推定されるわけですが、このことは他の『推古紀』の(少なくとも)「仏教関係」の記事についても同様に『書紀』に書かれた年次からズレがあると考えられることとなります。(そうでなければ時系列として一貫しなくなるでしょう)
 そう考えると、「寺院」と「僧尼」についての詳細な記録が作成されたとして、それが「漢文」ではなく「万葉仮名」を用いたものであったと考えるのはそれほど不自然ではないこととなります。


(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2017/09/07)